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2011年12月31日 (土)

精霊の守り人 古くて新しい建国神話の必要性への示唆

三ヶ月ぶりのアニメ修行復活である。



それでは、この三ヶ月間、別に何か特別な意義深いことをしていたかというとそうでもなかった。

ただ、時間が過ぎてゆくだけだったような気もする。それを考えるに人間というものは、常に何かをしようとし続けないといけないものなのだろう。



さて、アニメ修行の話だが、僕が49作目に選んだのは『精霊の守り人』という、かつてNHKBS-2で放映されたアジアン風味のアドベンチャーファンタジー。原作は上橋菜穂子さん、監督は「攻殻機動隊 S.A.C」「東のエデン」の神山健治さんの作品である。



以下、読んでいただく方には、ネタバレどころか、このアニメを既にご覧になられた方にしか理解できないであろう事、ご了解下さい。



まずは、この物語において興味深いのは世界観である。そこは地球のようであって地球ではない、どこか別の惑星での話である。空には月が二つ出ており、地球上では見られるようで見られない動物(例:右画のナージ)が登場する。また、この世界では、人間の現世界(サグ)と、精霊が棲む幻想世界(ナユグ)が並存していて、呪術師と呼ばれる人々はその二つの世界を行き来出来るでのである。



舞台となる地域は、かつての秦や唐のような絶対王権を持つ国家(ヨゴ皇国)によって統治されている。そして、この国は、頂点である帝(みかど)の下、星読み博士と呼ばれる占星術師達が政(まつりごと)を行い、武人が周囲を固める、いうなれば宗教的軍事専制国家なのである。



一方、この皇国がこの地を統治する以前、ここには、ヤクーという別の部族が住んでいた。彼らは現在でもヨゴ皇国の周辺地域で昔ながらの生活を営んでいる。そして、ヨゴ皇国の統治は、星読み博士が行うのに対して、ヤクーには、口伝の物語、民謡、呪術が(だいぶ消滅したとはいえ)残っており、それによって宗教的伝統や人々の暮らしが守られているのだ。

この物語の面白さは、こうした世界観に、日本をメインにしたアジア各国の習俗や伝説、神話のカケラがちりばめられており、その世界をそこはかとなく豊かにしているところである。



例えば、ヨゴ国の夏至祭りで、民草(庶民)が灯す松明が、後半に登場するラルンガ=卵喰い(右画)という怪物の弱点を突くための武器の名残だったというような設定は、ちょうど、正月を直前にしてこの作品を観た僕に「門松が歳神様を家に迎え入れるための依代である」というような記憶をも甦らせたのであった。

あるいは、ヨゴ皇国とヤクーの関係は、大和民族(日本)とアイヌ民族(蝦夷)との関係をも思わたり、そのヤクーの田植え唄の中に、100年に一度だけ生まれ変わるという水の精霊(ニュンガ・ロ・イム)誕生時の真実が隠されていたりと、民俗学に少しでも興味を抱いたことのある人であれば、必ずや背筋に何かが走るような演出が、そこかしこに観られるのである。



また、このアニメには格闘技マニアにとっても垂涎シーンがあったことも記しておきたい。それは村祭りの際に行われる格闘技大会(ルチャ大会)において、ロタという遊牧民族の選手が、ボクシング+関節技のようなスタイルで攻めてくるのに対して、ヨゴの民が行う、遊びの延長のような格闘技=ルチャがまるで歯が立たなかったというところ。

しかし、そのルチャのルールが土俵から出たら負けということを活かし、さらにロタの気質の粗さを逆用して、ヨゴの皇太子のチャグムが、挑発の末に、体をかわして、相手を土俵の下に落とすくだりなど、いわゆる異種格闘技戦の醍醐味(エッセンス)を熟知した格闘技ファンの神山氏ならではの演出のように見えた。

ついでに神山氏の演出で言えば、例えば『攻殻機動隊 S.A.C』シリーズの第1話「公安9課 SECTION-9」で、暴走したサイボーグ芸者が政府要人にかけるチョークスリーパー(左画)や、『攻殻機動隊 S.A.C 2nd GIG』の第21話「敗走 EMBARRASSMENT」でクゼがバトーの足を破壊するアンクルホールド(右画)などにも、彼のプロレス、格闘技好きが垣間見られたことも、ここでついでに記しておきたい。



さて、上記のように話のディテイルについて、一つ一つ、突っついていく楽しみはそれはそれであるのだが、きりが無いので、このあたりで物語全体の構成について話を進めたいと思う。



僕は、第二皇太子(チャグム)がその体に水妖の卵(孵化すると土地に旱魃をもたらすという)を宿すという宿命を背負うことによって帝(みかど)から命を狙われて、各地を放浪するという展開の下敷きには、記紀のヤマトタケル、あるいはエディプスといった神話があるのではないかと想像した。また、そのチャグムが、この宿命を覚悟して生きるという生き方を、王宮の外における様々な体験によって獲得するという展開も、冒険小説やロールプレイングゲームの典型だと思った。

おそらく、この『精霊の守り人』の安定感はそうした典型をしぜんな形で取り込んでいるからに他ならない。



しかし、一方でそういった典型を取り込みつつ、他方では、実は、その卵は、旱魃をもたらす水妖のものではなく、水の恵みをもたらす精霊のものであったということが判明し、さらに、その事実が、建国神話では、初代皇帝(とその周囲の武人達)の建国を正統化するように捻じ曲げられていたことが暴かれる。

そして、その建国神話による事実捏造をリセットし、新帝・チャグムが水の恵みをもたらしたという新しい伝説と同時に新しく、真に正統な国を創るために、今度は、チャグムが帝になるという新たなる宿命を引き受け、ある意味で、国の礎たる「生贄」となる覚悟をするという流れは、ユニークでオリジナルな展開ではないかと感心させられた。



つまり、ヨゴ皇国の、現在に至るまでの武断的な体質は、水妖を武力によって倒したという建国神話によって正統化されていたのであるが、チャグムという正統な王位継承者が、水の精霊を宿していたという新たな正統性に基づく、武力に依存しない(平和的な)国創りが今後、行われるであろう事が予感されるようなエンディングとなっているのである。それゆえに、用心棒のバルサは、その必然としてヨゴの国を去らねばならなかったのであり、彼女は今度は己の魂を救う旅に出ざるをえなかったのだ。



思えば、一国の建国神話は、その国の民族を特徴付けるような逸話が盛り込まれているものである。例えば、記紀において、天照大神の孫のニニギノミコトは、それまで日本を支配していた大国主命と話し合うことによって「国譲り」を受ける。それがゆえに、この談合主義は、連綿と続く日本の伝統となっているのだ。



さて、建国神話とその後の国民性の関連性という文脈で、この『精霊の守り人』に対して、敢えて現代的な意義を見つけるとするならば、敗戦後に出来た戦後体制を正統化している物語(戦前は不幸であった、軍部が国民を戦争に駆り立てた、日本の植民地政策は間違っていた、戦後日本は民主主義国家として喜んで生まれ変わったなど)の欺瞞を廃して、戦後体制自体をリセットするためには、なんらかの「生贄」を踏まえた、新しい価値観を提示するような物語が必要なのではないか?ということを示唆しているところかもしれない。

また、その新しい物語のヒントは、海の外からやってくるのではなく、口伝や伝説のような、古くからその土地に根差したモノの中にこそ、見出されるべきであるということを教えてくれるところでもあると、僕は思う。



まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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