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2011年12月23日 (金)

菱紋 -武家の正統としてのプライドと信玄の威光- 武田信玄、高杉晋作、浅利慶太...


菱紋と言えば、武田家の紋としてあまりにも有名である。
左の画像は南部家で使用された鶴菱。
武田家は、清和源氏義光流の正統的な武家であるが、家伝には、家祖・新羅三郎義光より伝わる家宝「楯無」の金具に描かれた花菱にちなんで割り菱を家紋にしたとある。

菱紋には割菱系と花菱系があるが、かの武田信玄は両方とも使用したという。
武田家の分家は、奥州の南部家、小笠原家、松前家など、全国に発展して行ったが、それらはみな菱紋系の紋を使用している。
菱紋には、武家の正統としてのプライドと武田信玄の威光が今でも輝いているのである。

全国では11位。やはり、信玄のお膝元の山梨県では1位。他では福岡県で5位、山口県で6位が目立つくらいだ。

このページでは菱紋の中でも菱紋(割り菱、三階菱、松皮菱等)のみを掲載。花菱紋、大内菱紋、三条花角紋などの有名人にご興味のある方はコチラをご覧下さい。



北畠親房 。1293年3月8日 - 1354年6月1日、 公家。
村上源氏庶流の北畠師重の子。『神皇正統記』の作者。後醍醐の皇子世良親王の養育をする。吉田定房万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。後に、京都を逃れた後醍醐が吉野で開いた南朝に従う。家紋は割菱と笹竜胆。


武野紹鴎 。1502年 - 1555年12月12日、 茶人。
武田一族(武田信孝の孫)で、父は信久。武田新四郎の名を持つ武士であったが、武野に改姓。堺の豪商(武具商あるいは皮革商)として財を成す一方で茶人として活躍。今井宗久、千利休、津田宗及、細川藤孝などは紹鴎の弟子。家紋は丸に割菱。


武田信玄 。1521年12月1日 - 1573年5月13日、 甲斐の戦国大名。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の長男。越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定。晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。画像は菩提寺の本墓の割菱紋。


三好長慶 。1522年3月10日 - 1564年8月10日、 武将。
管領細川晴元の家臣で、後の山城国五郡の守護代、三好元長の嫡男として生まれる。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流である三好氏。織田信長出現以前に畿内を平定。幕府の相判衆となり実権を握る。家紋は三階菱。


安国寺恵瓊 。1539年 - 1600年11月6日、 禅僧・大名。
安芸国沼田郡出身。安芸武田氏の一族である武田信重の子。毛利氏の外交僧。大友氏との和睦、秀吉へ臣従する際の交渉に活躍。関ケ原の戦いでは毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功するも敗れて、斬首された。家紋は武田菱。


南部利直 。1576年4月13日 - 1632年10月1日、 南部氏当主。
第26代当主・南部信直の長男として三戸の田子城にて出生。南部家は清和源氏の河内源氏の流れをくむ。関ヶ原の戦いでは帰国して一揆を鎮圧。このため、家康から所領を安堵され、盛岡藩の藩祖となった。家紋は割り菱、南部鶴、鶴菱を使用。


溝口宣勝 。1582年 - 1628年11月24日、 武将。
若狭国高浜出身。父・溝口秀勝と共に豊臣秀吉に仕える。関ヶ原の戦いに際しては上杉景勝に扇動された越後一揆を征圧。父の死により後を継いで新発田藩第2代藩主となり積極的な新田開発を行なう。家紋は溝口菱紋。画像は文京区吉祥寺の墓所にて撮影。


河合曾良 。1649年 - 1710年6月18日、 俳諧師。
信濃国下桑原村出身。蕉門十哲の一人として松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行し「曾良旅日記」を残した。晩年は、幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、その途中に壱岐にて病没。家紋は丸に組み合い菱紋。壱岐の墓所にて確認。


田中久重 。1799年10月16日 - 1881年1月11日、 発明家。
筑後国久留米の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男。国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型、アームストロング砲を完成。また、万年自鳴鐘(重要文化財)も完成。東芝の基礎となる田中製造所を設立。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


稲妻雷五郎 。1802年 - 1877年3月29日、 大相撲力士。
常陸国河内郡阿波崎村出身。本名は根本才助。第7代横綱。松江藩お抱えの江戸時代に活躍した。幕内通算25場所130勝13敗14分3預1無勝負73休、勝率9割9厘、優勝相当成績12回。タレントの山咲トオルは稲妻雷五郎の子孫といわれる。家紋は三階菱紋。


雲龍久吉 。1822年 - 1890年6月15日、 大相撲力士。
本名は、塩塚久吉→佐藤喜太郎。筑後国山門郡大和村出身。柳川藩のお抱え力士。第10代横綱。2つの横綱土俵入りのうち、不知火型の考案者といわれている。幕内通算成績は26場所127勝32敗15分5預55休、勝率.799。優勝相当成績7回。家紋は三階菱紋。


小笠原長行 。1822年6月29日 - 1891年1月25日、 幕府老中。
肥前国唐津藩主・小笠原長昌の長男として出生。老中職の中に生麦事件で幕府に無断で賠償金を英国に支払い老中職を罷免される。復職するが第2次長州征討では連敗を重ね、二度目の老中罷免。戊辰戦争では函館まで戦う。画像は烏山・幸龍寺にて撮影。


松前崇広 。1829年12月10日 - 1866年6月9日、 松前藩藩主。
蝦夷松前藩出身。9代藩主・松前章広の六男。第二次長州征伐に徳川家茂の供をし陸軍兼海軍総裁となる。老中の阿部正外とともに独断で兵庫開港を決定、官位剥奪、謹慎を命ぜられる。家紋は割り菱紋。画像は文京区吉祥寺の松前家の墓所にて撮影。


萱野権兵衛 。1830年 - 1869年6月27日、 会津藩家老。
会津藩出身。萱野家は侍大将を務める名家。読みは、かやのごんのひょうえ。松平容保の側近としてその補佐役を務めた。会津戦争では、会津城外にあって若松城の完全孤立を避ける任務に当たったが落城。戦後、東京において自刃。家紋は括り菱紋。


木村芥舟 。1830年2月27日 - 1901年12月9日、 幕臣。
父は浜御殿奉行の木村喜彦。家紋は丸に松笠菱紋。老中阿部正弘によって目付に登用される。軍艦奉行咸臨丸の司令官を務めた。帰国後の木村は軍艦奉行の職務に復帰。幕府海軍の創設を目指して様々な活動を行っている。画像は青山霊園にて撮影。


岩崎弥太郎 。1835年1月9日 - 1885年2月7日、 実業家。
土佐国の地下浪人の子として生れる。海援隊の経理を担当。明治の動乱期に政商として巨利を得て、三菱財閥を創業。娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出。家紋は三階菱紋。画像は染井霊園・岩崎家の墓所にて撮影。


西村勝三 。1837年1月15日 - 1907年1月30日、 実業家。
下総国佐野藩の藩邸で付家老平右衛門と楽子の3男として生まれる。幼名三平。兄は貴族院議員西村茂樹。桜組製靴の創業者。築地に伊勢勝造靴場を設立し、日本で最初に靴の製造を行う。家紋は五つ松皮菱紋。画像は品川・東海寺の墓所にて撮影。


大倉喜八郎 。1837年10月23日 - 1928年4月22日、 実業家。
越後国新発田出身。鉄砲商から政商となり大倉財閥を設立。鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。大倉商業学校(現東京経済大学)の創設者。ホテルオークラは長男の大倉喜七郎によって設立された。家紋は溝口菱紋。画像は護国寺にて撮影。


永倉新八 。1839年5月23日 - 1915年1月5日、 新選組二番隊組長。
松前藩士・長倉勘次の次男として江戸屋敷で生まれる。本姓は長倉。読みは、ながくらしんぱち。池田屋事件で活躍。戊辰戦争では甲陽鎮撫隊に属して戦うが敗走する。家紋は石持地抜き松皮菱。画像は北区竜野川の寿徳寺墓所の中陰松皮菱紋。


高杉晋作 。1839年9月27日 - 1867年5月17日、 長州藩士。
長門国萩城下菊屋横丁出身。長州藩士・高杉小忠太(家禄200石)の長男。吉田松陰の松下村塾などで学び、攘夷論を信奉した。下関戦争、長州征伐などで奇兵隊など、諸隊を率いて大活躍し、長州藩を倒幕に方向付けた。家紋は丸に割菱。


岡内重俊 。1842年5月11日 - 1915年9月20日、 司法官。
土佐国土佐郡出身。藩士岡内清胤の長男。読みは、おかうちしげとし。海援隊に入り秘書役として活躍。維新後、岩倉具視伊藤博文らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。家紋は丸に亀甲に武田菱紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


野村靖 。1842年9月10日 - 1909年1月24日、 志士、政治家。
長州藩出身。下級武士・入江嘉伝次の二男。野村氏を継承。入江九一は兄。読みはのむらやすし。松下村塾に入門して尊皇攘夷に傾倒。第二次長州征伐でも活躍。維新後、駅逓総監、逓信次官などを歴任。家紋は菱に左三つ巴紋。画像は松陰神社にて。


雨宮敬次郎 。1846年10月24日 - 1911年1月20日、 実業家。
甲斐国山梨郡牛奥村に生まれる。投機界の魔王と呼ばれた。結束して商売にあたった甲州商人、いわゆる甲州財閥若尾逸平根津嘉一郎など)と呼ばれる集団の一人。泰靖社(日本製粉株式会社の前身)を起業。家紋は丸に割り菱。


林忠崇 。1848年8月26日 - 1941年1月22日、 大名。
上総国請西藩主林忠旭の五男。読みは、はやしただたか。戊辰戦争の際、自ら脱藩して藩士70名とともに遊撃隊に参加し伊庭八郎等とともに新政府軍と交戦。維新後は一介の士族として困窮した生活を送った。家紋は丸に三つ巴に一の字紋と三階菱紋。


三遊亭円遊(初代) 。1850年7月7日 - 1907年11月26日、 落語家。
江戸小石川小日向出身。本名は竹内金太郎。大きい鼻で知られており「鼻の圓遊」と呼ばれていた。寄席において落語の後の余興として奇妙な踊りを披露して大人気を博した。明治時代の落語界・中心人物。家紋は武田菱紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


岸本辰雄 。1851年11月13日 - 1912年4月5日、 法学者、教育者。
現在の鳥取市に鳥取藩士岸本平次郎の三男として生まれる。宮城浩蔵矢代操らとともに明治大学の前身である明治法律学校を創設、初代校長となる。法制局参事官、司法省参事官、大審院判事を歴任。家紋は丸に鉄砲松皮菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。


武田仰天子 。1854年8月19日 - 1926年4月10日、 作家。
大阪府堂島に生まれる。本名は頴(えい)。東京朝日新聞に入社。小説欄を担当し、長編時代小説を30編ほど執筆した。代表作は『二代忠孝』『武蔵坊弁慶』『鎮西八郎為朝』『長屋喜兵次』等。家紋は陰割菱紋。画像は谷中・臨江寺の墓所にて撮影。


中上川彦次郎 。1854年10月4日 - 1901年10月7日、 実業家。
豊前国中津藩出身。藩士・中上川才蔵の長男。福沢諭吉の甥。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。三井財閥の工業化と不良債権処理を推進し三井中興の祖として高く評価されている。家紋は割り菱に鐶木瓜紋。青山霊園の墓所にて撮影。


大石正巳 。1855年5月26日 - 1935年7月12日、 政治家。
土佐国(高知県)出身。立志社に参加し、自由民権運動に従事。進歩党結成に参加。第1次大隈重信内閣で農商務大臣として入閣。桂太郎総裁の下で後藤新平加藤高明等と総務5人の一人となる。家紋は割り菱紋。青山霊園の墓所にて撮影。


末岡精一 。1855年6月20日 - 1894年1月22日、 法学者。
山口県熊毛郡田布施町宿井出身。庄屋・末岡太兵衛景徳の次子。日本法律学校(現日本大学)の創立に参画する。行政学担当。著作に『行政裁判法講義』『行政法汎論講義』『比較国法学』がある。家紋は丸に三つ菱紋。青山霊園の墓所にて撮影。


三好学 。1862年1月4日 - 1939年5月11日、 植物学者、理学博士。
美濃国岩村藩出身。生まれは岩村藩江戸藩邸。桜、菖蒲の研究、及び天然記念物保存事業に力を注いだ。日本に「記念物(デンクマール、denkmal )の概念を広めた。「景観」という言葉を生み出した。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


石原健三 。1864年2月20日 - 1936年9月4日、 官僚、政治家。
岡山県出身。農業・石原庫平の三男として生まれる。山梨県知事をはじめ、千葉県、高知県、静岡県、愛知県、神奈川県の各知事、北海道庁長官を歴任した。その後、宮内次官に就任した。家紋は丸に重ね菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


松林桂月 。1876年8月18日 - 1963年5月22日、 日本画家。
山口県萩市出身。元の姓は伊藤、本名は篤。南画の表現に新たな世界を開拓し南画界の重鎮と言われる。近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、漢籍・漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風が特色。家紋は丸に松皮菱紋。青山霊園の墓所にて撮影。


小林躋造 。1877年10月1日 - 1962年7月4日、 海軍軍人。
広島市台屋町出身。旧安芸広島藩浅野家家臣・早川亀太郎の3男。読みは、こばやしせいぞう。最終階級は海軍大将。予備役編入後、台湾総督、貴族院勅選議員、国務大臣などを歴任。家紋は丸に割り菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


宇野円空 。1885年11月27日 - 1949年1月1日、 宗教民族学者。
京都出身。姉崎正治に学び、宗教民族学の分野を開拓。母校東京帝大の助教授、東洋文化研究所教授となる。学位論文「マライシアに於ける稲米儀礼」で恩賜賞を受賞。主著「宗教学」「宗教民族学」家紋は武田菱紋。本願寺和田堀廟所の墓所にて撮影。


尾崎放哉 。1885年1月20日 - 1926年4月7日、 俳人。
鳥取県邑美郡出身。士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男。季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として種田山頭火と並び称される。代表作は「咳をしても一人」「墓の裏に廻る」「足のうら洗えば白くなる」など。家紋は五つ松皮菱紋。


小笠原三九郎 。1885年4月5日 - 1967年12月13日、 政治家。
愛知県幡豆郡室場村(西尾市)花蔵寺町の農家に生まれる。読みは、おがさわらさんくろう。実業家としては極洋捕鯨社長、日本貿易振興会会長等を務める。商工大臣・農林大臣・通商産業大臣・大蔵大臣を歴任。家紋は丸に三階菱。画像は護国寺にて撮影。


大野伴睦 。1890年9月20日 - 1964年5月29日、 政治家。
岐阜県山県郡美山町出身。読みは、おおのばんぼく。衆議院議長、自民党副総裁。地元岐阜県に東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致。力道山を可愛がり日本プロレスのコミッショナーを務める。家紋は丸に三階菱紋。画像は池上本門寺の墓所にて撮影。


福留繁 。1891年2月1日 - 1971年2月6日、 海軍軍人。
鳥取県西伯郡所子村の農家に生まれた。読みは、ふくとめしげる。太平洋戦争中に軍令部第一部長、連合艦隊参謀長などの要職を務め、太平洋戦争中に、日本海軍の作戦の中枢にあった。最終階級は海軍中将。家紋は菱に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


内田栄一 。1901年3月25日 - 1985年7月27日、 歌手。
京都府出身。読みは、うちだえいいち。レーヴエに師事。大正のはじめヴォーカルフォア合唱団を主宰。「トスカ」のアンジェロッティ以来、藤原歌劇団で活躍。戦中は、「月月火水木金金」が大ヒットした。家紋は割り菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


江戸英雄 。1903年7月17日 - 1997年11月13日、 実業家。
茨城県筑波郡作岡村(現つくば市)に出生。長女の江戸京子は小澤征爾の元妻。三井不動産の復興に尽力し、社長、会長職を務め、東京ディズニーランド、筑波研究学園都市の建設にも力を注いだ。家紋は丸に三階菱紋。青山霊園の墓所にて撮影。


堀辰雄 。1904年12月28日 - 1953年5月28日、 作家。
東京麹町区平河町出身。実父・堀浜之助は、広島藩の士族。『聖家族』で文壇デビュー。欧米の先端的な文学の影響を受ける。代表作は『風立ちぬ』『かげろふの日記』など。堀家家紋は不明だが養父・上條松吉と母の墓所(向島・円通寺)の家紋は割菱。


川田晴久 。1907年3月15日 - 1957年6月21日、 歌手。
東京都本郷根津出身。本名、岡村郁二郎。益田喜頓達と「あきれたぼういず」を結成。多くの弟子を育てた。また、美空ひばりの師匠格としても知られる。代表曲は「浪曲ダイナ」「バナナ物語」等。家紋は丸に松皮菱。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


湯川秀樹 。1907年1月23日 - 1981年9月8日、 理論物理学者。
東京府東京市麻布区出身。地質学者・小川琢治の三男。1949年に日本人として初めてのノーベル物理学賞を受賞する。また、核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わった。家紋は横木瓜に割菱。画像は京都・知恩院の墓所にて撮影。


児玉誉士夫 。1911年2月18日 - 1984年1月17日、 右翼運動家。
福島県安達郡本宮町出身。ロッキード事件の際に代理人としてその名が広く知れ渡る。スカルノ大統領の夜の相手としてホステス根元七保子(デヴィ夫人)を送り込む。政財界の黒幕と呼ばれた。家紋は丸に松皮菱紋。画像は池上本門寺にて撮影。


武田泰淳 。1912年2月12日 - 1976年10月5日、 小説家。
東京市本郷区にある浄土宗の寺に大島泰信の三男として生まれる。出生名は覚。父の師にあたる武田氏に養子に入り武田泰淳と名乗る。代表作は『司馬遷』『ひかりごけ』『富士』等。家紋は武田菱。画像は中目黒の長泉院の墓所にて撮影。


大江宏 。1913年2月20日 - 1989年3月3日、 建築家。
秋田県秋田市出身。読みは、おおえひろし。父の大江新太郎は明治神宮造営技師を務めた。代表作は『法政大学55・58年館』『伊勢神宮内宮神楽殿』『国立能楽堂』など。日本建築学会賞大賞を受賞。家紋は剣菱紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


笠置シヅ子 。1914年8月25日 - 1985年3月30日、 歌手、俳優。
香川県大川郡相生村出身。本名は亀井静子。戦後、「ブギの女王」として一世を風靡。黒澤明監督の映画『醉いどれ天使』ではキャバレーの歌手を演じる。代表作は『東京ブギウギ』『買物ブギー』。家紋は武田菱。画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。


向坊隆 。1917年3月24日 - 2002年7月4日、 応用化学者。
大日本帝国関東州大連出身。専門は電気化学で金属の腐蝕、原子炉材料を研究。東京大学総長を務める。文化功労者。主著『エネルギー問題についての基礎知識』『学長の平日と休日』等。家紋は丸に陰陽重ね菱。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


大内淳義 。1919年10月10日 - 1996年4月20日、 実業家。
東京府出身。読みは、おおうちあつよし。日本電気入社し、日本電気が半導体や集積回路生産を開始した時からこれに携わる。集積回路事業本部長、取締役、副社長、副会長、会長を歴任した。家紋は丸に松皮菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


大内山平吉 。1926年6月19日 - 1985年11月1日、 大相撲の力士。
茨城県那珂郡平磯町に漁師の長男として生まれる。本名:大内平吉。身長203cm、体重153kgの巨漢力士で最高位は大関。幕内通算成績:304勝256敗53休 勝率.543。優勝1回。引退後は年寄錣山を襲名。家紋は丸に松皮紋。画像は八柱霊園の墓所にて撮影。


浅利慶太 。1933年3月16日 - 、 演出家、実業家。
東京都出身。大叔父は二代目市川左團次。劇団四季創設者の一人で芸術総監督。『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させる。長野五輪開会式の総合演出も担当。家紋は三階菱紋。画像は谷中霊園の浅利家墓所より。


内海好江 。1936年2月23日 - 1997年10月6日、 漫才師。
東京市浅草区出身。本名は奥田好江。両親は夫婦漫才師の荒川小芳、林家染寿。女剣劇や父娘漫才を経て内海桂子とコンビを結成して活躍。ウッチャンナンチャンの師匠としても知られる。家紋は、丸に出鉄砲松皮菱。画像は幸龍寺の墓所で撮影。


小沢一郎 。1942年5月24日 - 、 政治家。
東京市出身。本籍地は奥州市。自治大臣、国家公安委員長、自民党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、民主党代表、国民の生活が第一代表、生活の党代表を歴任。家紋は丸に三階松紋。画像は水沢市・伯済寺小沢家墓所にて撮影。


武田鉄矢 。1949年4月11日 -、 俳優、歌手。
福岡県福岡市博多区出身。両親は熊本県小国町の出身。海援隊でデビュー。代表曲は「母に捧げるバラード」、「贈る言葉」、「思えば遠くへ来たもんだ」。俳優としては『3年B組金八先生』の金八先生役があまりにも有名。家紋は丸に割菱紋


勝野洋 。1949年7月27日 -、 俳優。
熊本県阿蘇郡小国町出身。妻はキャシー中島。テレビドラマ『太陽にほえろ!』において”テキサス刑事”役に抜擢され一躍人気者となる。代表出演作は『俺たちの朝』『姿三四郎』。家紋は五瓜に三階菱紋。林泉寺の勝野家の墓所にて撮影。


深沢エリサ 。1972年 - 2004年1月27日、 モデル。
東京出身。本名は深澤絵里砂アン。祖父は施設家具「コトブキ」(寿商店)創業者の深澤幸也。雑誌「CREA」「anan「spring」「HF」などの誌面などを飾り、カリスマモデルとして注目された。家紋の割り菱は多磨霊園の墓所にて撮影。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

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