巴紋 -水が渦巻いている姿を表現- 山本勘助、土方歳三、松田聖子...
巴というのは水が渦巻いている姿を文様にしたものである。
古来、人間にとって最も重要な物質が水である。
ある時は、水不足にならないように、ある時は、火除けのために、人々はこの巴紋に願いを込めたのである。
また、この文様は武士の弓手の装着する鞆(トモ)から来たとも、人の魂を形象化したものとも、勾玉から来たとも言われている。
おそらく、巴紋の形の普遍性は、それらの様々な由来を全部汲み取っているのであろう。
全国では、13位。
特に多い地域は無いが、栃木県、鳥取県、愛媛県、高知県、大分県での6位が最高。
続いて、島根県で7位、愛知県、岐阜県、和歌山県、広島県、福岡県で8位に入っている。
少ないところでは滋賀県、京都府が19位、長野県が22位。
巴紋を持つ有名人は以下。


播磨・美作・備前の守護大名・赤松義則の子。二度に渡って侍所頭人を務め、幕府内の長老格として権勢を振るう。1441年に結城合戦の祝勝会として足利義教を自邸に招き暗殺、いわゆる嘉吉の乱を起こすが、幕府方が派遣した細川氏、山名氏などに敗北。


三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)出身。武田家家臣。二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。2007年NHK大河ドラマ「風林火山」の主役となった(内野聖陽が演じる)。写真は勘助がしていたといわれる巴紋付きの眼帯。


美濃守護の土岐頼芸の家臣として仕えたが、斉藤道三によって頼芸が追放されると、道三の家臣として仕えた。美濃三人衆の中では最大の勢力を有していた。伊勢国長島攻めで柴田勝家に従軍し戦死。家紋は左三巴紋。顔画像はゲーム、戦国IXAより。


毛利元就と妙玖夫人の三男として生まれる。幼名徳寿丸。毛利両川の1人として元春と共に毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では秀吉の信任を受け、文禄年間に五大老の一人に任じられた。家紋は左三巴。


志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)の水軍武将として活躍し、3万5000石の禄を得た。九鬼氏の第8代当主である。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。家紋は左三巴紋と七曜紋。


三河国額田郡小美村に生まれる。父の家督を継いで徳川家康に従う。関ヶ原の戦い後の三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都所司代に任命され京都の治安維持を担当。禁中並公家諸法度に基づいて朝廷の指導と監視に当たった。家紋は九曜巴。


上野の守護大名、宇都宮氏二十一代当主、宇都宮尚綱の子。父が敗死した時、宇都宮城に落ち延びる。上杉謙信と同盟を結んで関東制覇を目指す後北条氏と対立したが独立を保持。家紋は右三巴紋。顔画像は「戦国BASARA」より。


近江国・高島郡田中村の出身。先祖は近江源氏高島氏の一族田中氏で田中城の城主。転封の過程で居城とした近江国・八幡、三河国・岡崎、筑後国・柳河などに現代でも高く評価できる都市設計を行った。家紋は左三巴紋と釘抜紋。


蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。織田氏家臣から、豊臣家(羽柴家)家臣となる。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。またキリシタン大名で洗礼名はレオン。家紋は蒲生対い鶴と左三巴。


別所氏は早くから織田信長に従う。中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆した。三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせるが「三木の干し殺し」戦法で自害。家紋は左三巴。


藤原直家の後裔とする説や源為義の後裔とする説がある。稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の3人と共に西美濃四人衆と言われる。越前一向一揆を平定後は、佐々成政、前田利家と共に府中三人衆と呼ばれた。顔画像はゲーム「織田信長伝」より。


糟屋氏は播磨加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家。賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、その戦功により播磨国に二千石、河内国に一千石など合わせて三千石余を拝領する。関ヶ原の戦いに西軍として参戦した。家紋は三つ盛三巴。


肥前・有馬氏当主。有馬義貞の次男。キリシタン大名として知られ大友宗麟や大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣。関ヶ原の合戦では東軍に寝返り小西行長の居城であった宇土城を攻撃。その功績により旧領を安堵された。家紋は左三巴と五瓜に唐花。


遠州国浜松に家康の次男として生まれた。下総国結城の大名・結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督と結城領10万1千石を継ぎ、「結城秀康」と名乗る。関ヶ原の後、徳川家康より下総結城藩から越前北庄67万石に加増移封される。家紋は右三つ巴。


播磨国出身。二刀で有名な二天一流兵法の祖。家系に関しては諸説ある。人生において60余回の勝負を行い全てに勝利したという。佐々木小次郎との巌流島の決闘は有名。『五輪の書』を著す。また、水墨画家としても有名。家紋は九曜巴紋。


播磨国出身。本国は河内国、安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し、名は吉美(よしざね)、金右衛門は通称。玉川上水・野火止用水の開削を行う。「算術の達人」と称された。家紋は一重亀甲に左三つ巴紋。平林寺の墓所にて撮影。


播磨国出身。大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族。代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄の下司職をつとめていた。元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした忠臣蔵で有名になった。家紋は右二つ巴紋。画像は泉岳寺の墓所にて撮影。


丹波国桑田郡東懸村の百姓の次男。読みは、いしだばいがん。45歳の時に無料講座を開き、石門心学と呼ばれる思想を説いた。思想の根底にあるのは宋学の流れを汲む天命論。主な著書に『都鄙問答』『倹約斉家論』がある。家紋は左三つ巴紋。


大隅国出身。加治木の郷士。島津家の家督相続の内紛では斉彬を推して久光に対抗したが,脱藩して筑前にのがれた。加治木島津家から近衛家に嫁した貞姫の付け人として近衛家につかえた。家紋は右三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


肥前国佐賀藩士・大木知喬の長男。読みは、おおきたかとう。大木氏は筑後国の蒲池氏の一族。副島種臣、江藤新平、大隈重信らと共に義祭同盟に参加。東京奠都に尽力。東京府知事、民部大輔などを務めた。家紋は左三つ巴。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


京都出身。橋本実麗の子。読みは、 はしもとさねやな。条約勅許に反対する有志堂上88名の列参に参加。八月十八日の政変後は差控に処せられたが王政復古によって参与となり戊辰戦争に従軍。左画像は麻路さき。家紋は右尾長巴紋。青山霊園にて撮影。


武蔵国多摩郡石田村出身。読みは、ひじかたとしぞう。新選組鬼の副長と恐れられた。戊辰戦争では榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。蝦夷共和国においては陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取に就任。函館戦争中に銃弾を受けて戦死。家紋は左三つ巴。


土佐国出身。藩上士・谷万七の第4子。読みは、たにたてき。幕末時代は、攘夷から倒幕派へ。西南戦争の際には西郷軍の攻撃から熊本城を死守した。最終階級は陸軍中将。その後、学習院院長や農商務大臣も務めた。家紋は左三つ巴紋。


長門国出身。下級武士・入江嘉伝次の二男。野村氏を継承。入江九一は兄。読みはのむらやすし。松下村塾に入門して尊皇攘夷に傾倒。第二次長州征伐でも活躍。維新後、駅逓総監、逓信次官などを歴任。家紋は菱に左三つ巴紋。画像は松陰神社にて撮影。


上総国請西藩主林忠旭の五男。読みは、はやしただたか。戊辰戦争の際、自ら脱藩して藩士70名とともに遊撃隊に参加し伊庭八郎等とともに新政府軍と交戦。維新後は一介の士族として困窮した生活を送った。家紋は丸に三つ巴に一の字紋と三階菱紋。


京都出身。清華家の一つ徳大寺家の次男。西園寺家へ養子に入り家督を相続。読みは、さいおんじきんもち。第12・14代内閣総理大臣。衆議院での多数派政党が内閣を組織する憲政の常道を慣例にした。家紋は右三つ巴。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


会津藩出身。藩医、角田良智の二男。戊辰戦争で朝敵とされた会津藩出身者として初めて海軍将官となった。日露戦争時には竹敷要港部司令官を務めた。最終階級は海軍中将。家紋は五瓜に右三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


武蔵国出身。川越藩士・坂口朗忠の三男として生まれ、同藩士・浅田順信の養子となる。歩兵第2連隊長、屯田兵参謀長、陸軍大佐、近衛師団長、教育総監、陸軍大将、軍事参議官兼東京衛戍総督を歴任。家紋は結び三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。


伊勢国一志郡波瀬村出身。大庄屋・中村一貫の二男。陸軍省軍務局砲兵事務官長、陸軍士官学校校長、陸軍次官兼軍務局長等を歴任。日清、日露戦争の功により男爵を受勲。最終階級は陸軍中将。家紋は右金輪巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


熊本県阿蘇郡小国町に生まれる。破傷風菌純粋培養法に成功、血清療法の開発、ペスト菌の発見などの偉業がある。「日本の細菌学の父」として知られる。北里研究所、慶應義塾大学医学部を創設する。家紋は檜扇に巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


周防国岩国藩出身。読みは、えぎかずゆき。内務省で大臣秘書官、県治局長、愛知・広島などの県知事に続き、清浦奎吾内閣の文部大臣、晩年には文政審議会副総裁、皇典講究所所長などを務めた。家紋は左三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


長門国萩出身。工部大学校では辰野金吾、曽禰達蔵らと同期。宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わったほか公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。ジョサイア・コンドルの最初の弟子。家紋は左三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。


陸奥国若松城下出身。会津藩主松平容保の小姓。会津戦争では籠城の末、降伏。米留学帰国後、東京高等師範学校長、東京女子高等師範学校長、東京美術学校長、東京音楽学校長を歴任。家紋は左三つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


江戸出身。和泉岸和田藩の最後の藩主。版籍奉還により知藩事となる。外務次官時に青木周蔵外相の下、条約改正に尽力。晩年は大正天皇の側近となる。長男は加藤高明の長女の夫。三男は村山龍平の婿養子。家紋は左三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。


長門国豊浦郡出身。医師・大岡尚斎の長男。板垣退助らの自由党に入党。立憲政友会の設立に関わる。大正政変時には桂太郎首相に退陣を勧告した。第1次山本内閣には文部大臣として入閣。家紋は右金輪巴紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


周防国岩国出身。父は、岩国藩士・藤岡喜介。日本に電気、電球灯の普及させたところに功績が大きく、日本のエジソン、電力の父と評される。東京電気株式会社(後の東芝)創業者。家紋は左三つ巴紋。画像は谷中霊園寛永寺墓地にて撮影。


肥後国出身。熊本藩士・亀井忠左衛門の三男。、徳島県知事、静岡県知事、宮城県知事を歴任。第2次桂内閣の際に警視総監に就任。貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。家紋は左三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


越前武生領の医者、五世・石渡宗伯の次男として越前府中松原に出生。読みは、どひけいぞう。実質的に西洋医学に入る皮膚科を日本に導入し日本皮膚科学会を発足させた。主著は『世界黴毒史』。家紋は丸に左三つ巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


福島県出身。二本松藩士・服部藤八郎の三男。濱尾新の推薦で文部省入り。西洋哲学や中国哲学を講じた。東京帝国大学教授、ハーバード大学教授、東方文化学院院長を歴任。代表著作『孔子教大義』『孔子及孔子教』等。画像は護国寺にて撮影。


肥後国出身。本名は、狩野直喜。読みは、かのうくんざん。内藤湖南と並ぶ京都支那学の創始者の一人。日中共同の東方文化事業に関与し、東方文化学院京都研究所(現・人文科学研究所)初代所長に就任。家紋は右二つ巴紋。墓所の写真にて確認。


東京下谷御徒町出身。彫金家・梶田政晴の長男。日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成に参画。前田青邨らを育てる。新な写実表現を用い『春宵怨』『豊年』などを発表する。家紋は尾長右三つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


遠江国城東郡土方村に漢方医・鷲山養斎の娘として出生。東京女医学校、東京女子医科大学創立者。日本女医会会長、日本医師会参与を歴任。画像は東京女子医大隣の月桂寺東京女子医大の水桶の校紋。ただし本人の墓所の巴は三つ左巴。


福岡県那珂郡鍛冶町の石材店の息子。旧名は丈太郎。外交官を経て二・二六事件で倒れた岡田内閣の後を受け第32代内閣総理大臣となり日独防共協定を締結。戦後、A級戦争犯罪人として死刑となる。家紋は右二つ巴紋。墓所は福岡市の聖福寺にて撮影。


山口県氷川郡出身。読みは、あいかわよしすけ。父は旧長州藩士・鮎川弥八。母は井上馨の実姉の長女。日産コンツェルン (日産自動車、日立製作所、日産火災等)の創始者。杉田かおるとの結婚で話題になった鮎川純太の祖父。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


東京本所出身。読みは、あさひなやすひこ。東京帝国大学教授。「漢薬成分の化学的研究」で帝国学士院恩賜賞、文化勲章受章、文化功労者を受賞。著書は「日本隠花植物図鑑」「私乃たどった道」「正倉院薬物」。家紋は尾長巴紋。青山霊園にて撮影。


広島県出身。父は陸軍軍医・小山内建で、母は旗本・小栗家の出。二代目左團次と自由劇場を開始。築地小劇場を土方与志、浅利鶴雄らと起こすなど新劇運動の中心的存在となり新劇の父と呼ばれた。家紋は左三つ巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


新潟県高田出身。父親の澄晴は修験者。児童文学者として「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれる。代表作は『赤い蝋燭と人魚』『月夜と眼鏡』等。家紋は右三つ巴紋。新潟県・春日山神社境内の小川家奥津城の写真にて確認。


岩手県盛岡市四ツ家町出身。読みは、きんだいちきょうすけ。アイヌ語の研究で有名。長男の春彦も言語学者。歌人・石川啄木の親友。家紋は右二つ巴紋。「現代日本文学アルバム・石川啄木」(学研)に掲載された東大卒業時の京助の紋付にて確認。


新潟県長岡市出身。旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男。旧長岡藩家老の家柄・山本家を相続し山本五十六を名乗る。日米開戦には反対していた。最終階級は海軍大将(戦没後に元帥海軍大将を追贈)。家紋は左三つ巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


東京芝区神明町出身。本名は、荻原幾太郎。読みは、おぎわらせいせんすい。新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰し河東碧梧桐、尾崎放哉、種田山頭火などを育てる。代表作は『流転しつつ』『無所在』『奥の細道ノート』等。画像は六本木・妙像寺にて撮影。


東京芝区出身。祖父は旧薩摩藩士の吉井友実、父は海軍軍人吉井幸蔵。『明星』に歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目される。歌集『祇園歌集』を発表。後に里見とん、田中純、久米正雄らと『人間』を創刊。家紋は左巴紋。青山霊園にて撮影。


大阪府西成郡出身。読みは、おりぐちしのぶ。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築き、その研究は折口学と総称されている。釈迢空と号した詩人・歌人でもあった。家紋の右三つ巴紋は、曾祖父・彦七を描いた画の紋付より判断。


大分県竹田市出身。読みは、あなみこれちか。平均的な軍務官僚で陸軍大臣就任以前は目立ったエピソードも少ない。誠実な人柄で人望が厚く今日でも人気の高い。ポツダム宣言の受諾返電の直前に自刃。最終階級は陸軍大将。画像は多磨霊園にて撮影。


東京都出身。読みは、きくしゅうぞう。父は明治を代表する文部官僚の九鬼隆一。祖先は戦国武将の九鬼嘉隆。京都帝国大学文学部哲学科教授として仏哲学の教鞭をとる。代表作は『「いき」の構造』。家紋は左巴紋。画像は京都・法然院の墓所にて撮影。


愛媛県宇和島市裡町出身。本名は、高畠幸吉。読みは、たかはたけかしょう。『少女画報』『少女倶楽部』『婦人世界』などの挿絵画は一世を風靡し、竹久夢二らと並ぶスター画家となる。家紋は丸に右一つ巴紋。画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。


兵庫県神崎郡砥堀村出身。日本的な思想と西洋哲学の融合、あるいは止揚とでもいうべき境地を目指した稀有な哲学者と評価される。その倫理学は和辻倫理学と呼ばれる。代表作は『風土 人間学的考察』『倫理学』『古寺巡礼』。家紋は左一つ巴。


宮城県北部栗原郡築館町出身。ヒット曲『星影のワルツ』で知られる作詞家の白鳥園枝は二女。民衆の内面を描き、"民衆派詩人"と称されている。代表作は『耕地を失う日』『殺戮の殿堂』。家紋は右三つ巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


北海道有珠郡伊達町出身。近代日本競馬における調教師の草分け的存在。調教師成績通算1670勝、JRA重賞189勝はJRA発足以後の最多勝利数。調教師顕彰者としてJRA殿堂入り。騎手としても帝室御賞典に13回優勝するなど活躍。画像は多磨霊園にて撮影。


茨城県下館市出身。読みは、おおつかひろのり。昭和期を代表する空手家の一人であり近代空手の基礎を築いた。和道流空手道の開祖。自身が修行した柔術に空手を加味して和道流柔術拳法も開いた。家紋は五瓜に左三つ巴紋。画像は多磨霊園にて撮影。


東京日本橋小伝馬町に生まれ実家は魚屋。本名は高安留吉。通称「留さん文治」。4代目橘家圓蔵に入門。落語協会顧問就任。語界屈指の吝嗇家であり「ケチの文治」として有名だった。家紋は尾長巴紋。また、桂文治一門の定紋は結三つ柏紋。


東京出身。旧姓、田上とり。茨城県古河の芸者置屋の養女となるが上京し新聞記者になる。「文芸戦線」に発表した「烈日」が認められ、女性プロレタリア作家の草分けとなった。家紋画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は九曜巴紋(夫・板倉勝忠の紋)。


東京出身。旧姓は中村。読みは、ほそやせいご。東京帝大医学部教授、台北帝大教授。抗生物質の研究、ペニシリンの開発、トリコマイシンを発見。著作は「化膿性疾患の細菌叢と免疫療法」など。家紋は丸に左太巴紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


茨城県出身。読みは、いちかわしのぶ。伊藤忠商事に入社後、大同貿易を経て丸紅商店に移る。丸紅の初代社長に就任。「正・新・和」の精神で丸紅発展の基礎を築く。大阪商工会議所会頭となる。家紋は五つ瓜に右巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


大分県大分市出身。読みは、まるやまかおる。12歳で母方の祖父の地であった愛知県豊橋市に移る。代表作は詩集『帆・ランプ・鴎』。豊橋市は彼の業績を記念して、丸山薫賞を設けている。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に左二つ巴。


長崎出身。本籍は山口県岩国市。先祖は岩国藩士。経済学者の河上肇は親類。戦中はシンポジウム近代の超克のまとめ役となり、戦後に批判を受ける。代表作は『私の詩と真実』『日本のアウトサイダー』。家紋の情報は、文学者掃苔録図書館より。


東京都出身。建築家・曽禰達蔵の三男。読みは、そねえき。妻は五島慶太の長女。片山内閣の内閣官房次長。日本社会党に入党し初当選後、民主社会党の結党に参加し初代書記長に就任。家紋は左三つ巴紋。画像は九品仏浄真寺の墓所にて撮影。


佐賀市に生まれる。彫刻を中心に陶器・絵画など様々な分野の作品を発表。佐賀城公園に「古賀忠雄 彫刻の森」として常設展示されている。代表作は「岬の男」「現代を見つめる西郷隆盛」「起つ大東亜」。家紋は左三つ巴紋。画像は染井霊園にて撮影。


琉球王国第二尚氏3代尚真王の長男・尚維衡の後裔。読みは、しょうみちこ。夫は琉球王国最後の国王・尚泰の孫の尚明。NHKの長寿番組『きょうの料理』の講師。子供向け弁当の定番アイテムたこさんウィンナーを考案。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


滋賀県神崎郡出身。第一歌集『水葬物語』でデビューし、三島由紀夫に絶賛される。歌集の他にも多くの文芸作品を発表。短歌は、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与えた。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。隅切り角に左三つ巴紋。


栃木県出身。本名は岡田六郎。古川緑波一座に入団し、俳優となる。三遊亭金馬・一龍斎貞鳳とNHK「お笑い三人組」に出演。その物真似は、昭和名人芸として今でも称えられている。家紋は左三つ尾長巴。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


東京都出身。読みは、かすやしげる。旧東京4区から出馬し初当選。自民党東京都連会長在任中の東京都知事選挙で、現職の鈴木俊一を自民党東京都連として、支持し当選させた。北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官。家紋は左三つ巴紋。


東京・代々木にある代々木八幡宮の一人娘として生まれた。『鏨師』が第41回直木賞を受賞。代表作は『御宿かわせみ』シリーズ、『はやぶさ新八御用帳』シリーズ、テレビドラマ『ありがとう』等。家紋は生家の代々木八幡宮の左三つ巴紋とした。


北海道樺戸郡新十津川町出身。高校を中退し上京。『ラッキー・パンチ』(後にコント・レオナルド)で一世を風靡。サントリービール「生樽」のテレビCMの「いかにも一般大衆が喜びそうな」は流行語となる。画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。


福岡県久留米市出身。本名は、松本晟。読みは、まつもとれいじ。代表作は『男おいどん』『銀河鉄道999』『宇宙戦艦ヤマト』など多数。家紋の隅切り角に左三つ巴は自身が企画した玩具「アクリルの棺 疾風 Roll-out 松本家家紋」の尾翼に付いている。


東京都葛飾区出身。本名は今岡純代。読みは、くりもとかおる。代表作は『グイン・サーガ』『魔界水滸伝』『伊集院大介』。また、中島梓名義で評論活動も手がけた。家紋は右二つ巴紋。紋付姿の写真にて確認。但し、実家の紋か婚家の紋かは不明。


熊本県熊本市出身。読みは、よねざわよしひろ。中学時代に同人活動を始め、1980年から2006年までコミケ準備会代表を務める。『劇画アリス』『マンガ奇想天外』等の編集に携わる。死後、明治大學で米沢嘉博記念図書館が開館。家紋は左三つ巴紋。


福岡県北九州市出身。全日本プロレス所属レスラー。カール・ゴッチ直伝の拷問技に定評がある。世界ジュニアヘビー級王座を五度獲得。団体生え抜きとして全日本プロレスの看板を守り通す重鎮。墓マイラーとしての一面も持つ。家紋は左三つ巴紋。


東京都出身。奈良時代から続く楽家の家系に生まれる。アルバム『東儀秀樹』でデビュー。雅楽器と現代楽器とのコラボで話題となる。NHK大河ドラマ『篤姫』では孝明天皇役で出演。家紋は右二つ巴紋。画像は家紋をあしらった自身デザインのスカーフ。


福岡県出身。本名は蒲池法子。生家は九州柳川城の城主だった蒲池氏第十六代目蒲池鑑盛の子孫に当たり江戸時代は柳川藩家老格だった。80年代を代表するアイドル歌手。代表曲は「青い珊瑚礁」「白いパラソル」等。蒲池宗家の定紋は巴紋。


青森県西津軽郡鰺ヶ沢町舞戸町出身。本名は長尾秀平。最高位は小結。技能賞を5回受賞。関取時代は、「平成の牛若丸」「技のデパート」と称された。現在はスポーツキャスター、タレント、NHK大相撲解説者として活躍。家紋は左三つ巴紋。


元禄時代の侍・田宮伊右衛門の妻。夫・伊右衛門は、高家仕官のため婿入りを画策。邪魔になったお岩を離縁しようとする。岩は自害。このお岩を主人公とした怪談が四谷怪談。家紋は、陰陽勾玉巴紋。画像は巣鴨の妙行寺の田宮家墓所にて撮影。
有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね































































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