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2012年1月18日 (水)

橋下市長と山口教授との論戦に思う ~日本的民主主義から普通の民主主義へ~

今週の日曜日の昼間に放送された報道ステーションサンデーというニュースショーで行われた橋下徹大阪市長と山口二郎北大大学院教授との対談が話題になっているようだ。

僕は生では見ていないのだが、YOUTUBEなどで確認した。内容は、Twitterや2chなどで多くの人々が指摘されているように、橋下市長の圧勝だったといわざるを得なかった。山口氏の反論をことごとく、論破する橋下市長。これだけ一方的な論戦というのを僕は始めてみたような気がする。(『橋下市長と山口教授がテレビ直接対決 終始劣勢山口氏は「難儀なことでした」』参照)

僕には、橋本市長が主張する、二重行政の無駄排除、チェック機能が効かない教育委員会制度の改正、区長の権限の明確化など、全て正論のように思われた。それに対して、新自由主義的政策に対する教科書的な空理空論的批判を橋下市長にぶつけ、その度に具体的知識の無さを露呈する山口教授は哀れでもあった。



さて、具体的な政策論争はさておき、論戦の中で、僕が特に興味を抱いたのが橋下市長の以下の発言であった。これは明らかに、日本的民主主義(戦後民主主義)を否定する言葉であったからである。

僕は民主主義の考え方を変えないといけないと思うんですよ。

少数の意見に配慮をする、少数の意見に耳を傾ける、これは当たり前です。これは言うとカッコいいからねぇ、インテリぶった人はみんな言うんですよ。

しかし、民主主義の根幹は、多数の意見を尊重するっていう事なんですよ。

日本人はそこを勇気を持っていえなかった。


元々、日本人には、話し合い絶対主義という信仰にも似た思想がある。

それは、「古事記」における大国主命によるニニギノミコトへの話し合いによる国譲りや、聖徳太子の時代の十七条の憲法の「和をもって尊しとなす」という第一章にも見られるくらい長い歴史があるのだが、とにかく大事なのは「話し合い」であり、話合いを重ねていけば、自ずと正しい解決策が見つかるはずだ!というものである。



逆に、力ずくで相手の意見を押さえつけるというのは、「悪」であり、現代社会における力とは言うまでも無く、「数」であるがゆえに、話し合いで決着をつけずに、多数決で物事を決めるというのは、日本的な価値観で言えば「悪」になってしまうのだ。

そして、それに対して話し合いで決着がつかない場合には、お互いの意見をすり合わせて中庸な意見を採用し、最終的に全員がとりあえず納得する形で物事を決めるというのが「善」なのである。



だから、他国の民主主義では当たり前に採用される採決が、日本では、何故か「強行採決」という「悪」い言葉になってしまうのだ。

しかし、よく考えてみれば、人の意見は多様だ。それを前提とすれば、多くの主張を多数決という形で一つにまとめるという発想は、決して強引でも、ましてやファシズムでもない、それは普通の民主主義なのである。



それに対して、日本人は、今まで、相手の気持ちを察して、相手が怒らないように(相手の怨念が残らないように)話をまとめることを(本来の)民主主義と勘違いしてきたのではないだろうか。そして、その相手の気持ちを察するということ(=空気を読むということ)が行き過ぎると、極端な話、責任者が不在のまま、誰もが反対だと思っていることがいつの間にか決まってしまい、後で聞いてみると、誰一人として賛成していなかったというようなことが起きるのである。

それこそが、かつて政治学者の丸山昌男氏が言っていた「戦争が起きたメカニズム」なのであり、そして、これこそが、山本七平氏が言ったところの「日本教」の弊害なのである。



勿論、こうしたメンタリティに日本人特有の優しさや、日本人らしさを感じて、シミジミするような瞬間が無いわけではないが、現代の状況は、橋下市長が言うように、それほど甘い状況ではないのかもしれない。



そして、橋下市長が提示した危機を乗り越える武器こそが、日本的民主主義ではない普通の民主主義ということである。



国と地方の財政はどんどん悪化して借金がかさみ、しかも誰も責任を取らない。誰からもチェックされない(出来ない)蛸壺のような無数の組織がいつの間にか隠然たる既得権と権力を持ち、社会の財産を食い潰している。臆病な現状維持政策で多くの貧困を生み出している。そして、自分だけがよければいいという発想で、税金を食い潰すことが権利であるかのような人々を大量に生み出している。そんな社会になってしまっているではないか。



そこで出てきた橋下市長的多数決の論理によって、国も地方も、その硬直したシステムを、強引に変えなければならない時期なのではないだろうか。

敢えて言うならば、少なくとも、この2012年の今現在、それらの改革は、「日本の良き伝統を維持すること」よりも優先度の高い喫緊の課題なのではないかと、僕は思ったりもする。残念ながら、日本的民主主義(談合主義、利益調整主義)による漸進的改善では、現状に対してあまりにも無力ではないのか。



もっとも、僕らは日本人の良さとをどのように残したらいいのかという事、あるいは、日本人の良さとは何かという事すら、よく考えてこなかったのかもしれない。雇用慣行や中央集権主義に代表されるような、たかだか戦後(あるいは明治以降)の慣習を日本人の伝統だと思い込み、それを墨守しようとしてきたといことだってあるのではないだろうか。



おそらく、良いと思われるものは、一時的に、衰退しても、未来の日本人が再発見し、時代にあった形で新たに成長させるだろうし、不要と思った慣習は消えていくに違いない。今、僕らが下す判断が間違っていたとしたら、それは未来の日本人が修正してくれるに違いない。僕らに必要なのは、まずは、そんな未来の日本人を信じて、とりあえず、目の前の課題から逃げずに前に進むことである。



橋下市長の「悪」さに僕は期待したい。僕は今、そんな気分である。



まさむね

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