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2012年2月の5件の記事

2012年2月28日 (火)

鹿目まどかの願いとは何だったのか ~中島知子と美樹さやか~

「魔法少女まどか☆マギカ」における鹿目まどかの願いについて再度考えてみた。



改めて言うならば、「魔法少女まどか☆マギカ」とは、普通の少女がその願いを叶えた代償に魔法少女となってしまう物語である。

そして、魔法少女となった彼女達は、魔女といわれる敵と闘うことを宿命として生きざるを得ない。しかも、魔法少女達は、戦いに消耗して、絶望した挙句に魔女になってしまう。つまり、自分達が闘っていた相手は自分達そのものであったということ。魔法少女となるということは、あまりにも過酷な生き方を選択するということでもあったのだ。



そんな少女達を目の当たりにしながら、なかなか魔法少女になることを決めかねていたのが、鹿目まどかである。

しかし、最終回、彼女はついに魔女となることを決心する。そして、彼女の「願い」は、全ての魔法少女が力尽きた後にも魔女にならずに、心安らかな状態となり消滅する(別世界へ転生?)ということであった。

このあたりの仕組みに関しては、僕の理解力では微妙に解らないところもあるのだが、ようするに、まどかの願いとは、「魔法少女が、死後、魔女という怨霊になって現世に厄災をもたらすこともなく、安らかに成仏出来るようなシステムを構築する」というイメージに近い。つまり、その意味でいえば、このアニメは一見、西洋的だがそのベースにある世界観には、実は極めて日本的な(怨霊思想とその対処療法としての浄土宗的な)側面も持っているのである。

そして、最終的には、まどかの願いによって、魔法少女達が、魔女というコミュニケーション不能の怪物となってしまうのではなく、まどか(=神、あるいは擬似的な阿弥陀如来)が、その魂を救い、ケアし続けるような世界システムを再構築するということに行き着く物語、と言い換えてもいいかもしれない。



現実社会におけるコミュニケーションの断絶(ディスコミュニケーション)や、誤解によって生じる残酷さと絶望を描いてきたこの物語(「魔法少女 まどか☆マギカ」における虚しい承認欲求の果てに見た悟り参照)が、最後に、魔法少女の死後の世界ではあるが、絶対的な救いと希望の世界を提示して終わるのだ。



この展開は、エンターテイメントとしては、正解だと思う。恐らく、多くのファンは、まどかによる救済によって、安心感を抱いたに違いないからである。



しかし、全く逆の見方をするならば、まどかが願をかける以前に存在していた魔女という、この世から見れば理解不能な存在だったかもしれないが、もしかしたら、ある意味、究極的に自由な存在を消し去り、死後、どこまで行っても、まどかという神の支配下に留めておくことになってしまった...という逆説的な見方も出来るのではないだろうか。

極端な言い方をするならば、「ワルプルギスの夜」のなんと楽しそうなことか。あの笑い声は、コチラから見れば、不気味そのものではあるが、見方を変えれば、アチラの世界を謳歌している姿にも見えるではないか。



さて、僕が、このようなヒネくれたことを言いたくなったのは、実は、最近、話題になっているオセロの中島知子のことを少し考えたからだ。

失恋→自暴自棄→コミュニケーション不能という中島知子の転落が、美樹さやかが辿った過程と酷似しているではないかと思ったのである。



例えば、先週、「ミヤネ屋」で、中島の転落を評して中尾彬が涙を流しながら(涙を流しているように見せながら)、もう芸能界に戻って来れないだろうな。と言っていた。

しかし、よく考えてみれば、中島は別に犯罪を犯したわけではない。ただ、仕事を辞めて家賃を滞納したという程度の話である。

覚せい剤に手を染めたとか、マネージャーに暴力をふるったというような話とは違うのだ。

それでも、中尾をはじめ多くの関係者をして、絶望的だと思わせるのは、これまでの多くのスキャンダルとは決定的に違い、彼女がコミュニケーション不能な存在となってしまったという点なのである。



つまり、「中島事件」とは、コチラ(芸能界、世間)からしてみれば、アチラに行ってしまった中島(=魔女)は、なんと不気味で、恐ろしく、そして許せない存在なのかということを改めて認識させた事件なのだ。



そして、その許せなさこそ、鹿目まどかが魔女(特に人魚の魔女となってしまった美樹さやか)に抱いた感情と同じではないだろうか。

おそらく、鹿目まどかは、魔法少女の生き方が不憫ゆえに、彼女達が死後、魔女とならないような世界にしたかったのではなく、今まで仲間だった者たちが、突然、コミュニケーション不能な怪物になってしまうことが許せなかったのではないか。



鹿目まどかの願い、つまり、魔女を生み出させない世界を創り出そうとしたということは、極論するならば、全世界をコチラにしてしまおう(理解可能なものとして、共同体の内部に納めよう)ということだったのである。



それは、ある意味で、恐ろしく強い、共同体維持的(現状維持的)発想でもある。

例えば、まどかの願いには、魔法少女達の宿命そのものの改変は含まれていなかったではないか。

つまり、魔法少女達の過酷な闘い→宿命としての死の過程は、無条件に、肯定され続けているのである。



さて、実のところ、僕は、上記の文章を、ももいろクローバーZの「労働賛歌」(さいたまスーパーアリーナ・ライブバージョン)を聴きながら書いていた。



それゆえに、少女達が闘争することの意味、さらに、何故、僕らは彼女達の勇姿を肯定的に見てしまうのか?ということについても、もう少し考えたくなった。



まさむね



魔法少女 まどか☆マギカ 関連エントリー



2012.03.03 「魔法少女まどか☆マギカ」とジャイアント馬場と古今集と

2012.02.28 鹿目まどかの願いとは何だったのか ~中島知子と美樹さやか~

2012.02.23 「魔法少女まどか☆マギカ」を信じるファンであるならば、誰しもが「美樹さやか -恋愛成就- 御守り」こそ身につけるべきである。

2011.11.24 徳川秀忠と、まど☆マギと、民主党と

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2011.05.05 魔女になったSAYAKAの武器はなぜ、車輪なのか

2011.05.01 「魔法少女 まどか☆マギカ」における虚しい承認欲求の果てに見た悟り

2011.04.30 「魔法少女 まどか☆マギカ」は史上最大級の災いがもたらされた現在だからこそ、残酷に心に突き刺さるのかもしれない。



この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2012年2月23日 (木)

「魔法少女まどか☆マギカ」を信じるファンであるならば、誰しもが「美樹さやか -恋愛成就- 御守り」こそ身につけるべきである。

先日の「十六茶」に続いて、「WONDA」もまど☆マギとのコラボキャンペーンを始めており、このところ、まど☆マギが再び、僕らの耳目に触れるようになってきた。



そこで、これを機会に、今更感が無きにしも非ずという点は否めないが、「魔法少女まどか☆マギカ お守り 美樹さやか -恋愛成就-」について語ってみたいと思う。



ご存知の通り、美樹さやかとは、アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の中の登場人物。副主人公と言ってもいい。

そして、この物語の中で、唯一、恋愛、そして失恋を経験するキャラなのである。とりあえず、「魔法少女まどか☆マギカ」における世界法則に関しておさらいをしておきたいと思う。

願い事を一つ叶えることで、魔法少女となり、魔女と闘うという運命を引き受ける少女達。

しかし、実は、魔法少女になるということは、人間ではなくなるということ。

また、魔女とは魔法少女が闘うことによって「穢れ」を帯び、絶望することによって変身してしまう成れの果ての姿であり、さらにいえば、このいたいけな少女達の願い事とを叶えたいという希望と穢れがマックスに達した時の絶望の落差のエネルギーが、この宇宙の寿命を延ばすためのエネルギーだった。




さて、美樹さやかであるが、彼女は、ほのかに想いを寄せる幼馴染の上條君(バイオリンの天才少年)が、事故で失った腕を元に戻すという願いを叶えるべく、魔法少女となってしまうのだ。

しかし、前述したように、魔法少女となり、人間ではなくなってしまうことによって、恋愛を成就させることが絶望的になったことに気付いてしまった美樹さやかは、さらに、自分の本当の願望とは、上條君の腕を直してあげたかったなどという純粋な想いではなく、実は、彼の恩人になりたかっただけだという自己欺瞞にもさいなまれ、自暴自棄になり、魔女へ堕ちて行ってしまうのである。



ネットの一部では、不人気キャラと言われ続けた美樹さやかであるが(例:何でさやかは不人気なんだろう・・・【魔法少女まどか★マギカ】)、もしそれが本当だとしたら、それは、彼女のそんな姿があまりにも痛々しすぎるからではないか?と思わざるを得ない。

僕のアニメ師匠であるすがりさんもかねがね主張していることであるが、最近の深夜アニメは、オタク層の願望を満たすための愛玩商品に堕しており、「人間」を表現する作品ではなくなって久しいという。

しかし、上述したさやかにおける、あまりにも「人間」的な痛々しさは、愛玩商品の域を完全に超えているのではないだろうか。いや、重すぎると言った方がいいのかもしれない。



ただ、それが故に、昭和の息のかかった僕らの年代のファンにとっては、そんな美樹さやかは捨てて置けない存在であることも事実である。



かなり前になるが、僕は「人魚の魔女になったSAYAKAの武器はなぜ、車輪なのか(2011.5.5)」というエントリーで、魔女になったさやかの武器が車輪なのは「源氏物語」において、恋に敗れて生霊と化した六条御息所の怨念(嫉妬心)が乗り移った車輪の暗喩となっているのではないかという指摘させていただいた。

しかし、それに加え、さやかという存在は「着てはもらえぬセーターを編み続け」(「北の宿から」)たり、「(彼を)さがし求めてひとりで町中をさまよう」(「長崎は今日も雨だった」)といった昭和演歌で歌われた女性達の流れを正統に汲んでいるということも言えるのではないかと思い、そこが、なんともいとおしく感じざるを得ないのである。



少なくとも、さやかには、他の魔法少女達が抱く「友情」や「救済」や「後輩想い」といった無毒な善意とは異質な、邪悪な他者性があるように思える。そして、その他者性は、このアニメがいわゆる「外のファン」にも説得力を持ちうる萌芽になりうるのではないか、と密かに期待するのであるがいかがだろうか。



さて、それはともかく、この物語における、「絶望(穢れ)がある臨界点を超えると、魔法少女は魔女に変身してしまい、もう元に戻れないどころか、人格を失って、社会に厄災をもたらす」という残酷な約束は、「激しい怨念を残して亡くなった人々は、現世にとどまり、様々な不幸をもたらす」という日本古来の怨霊思想をベースにしているようにも思える。



しかし、一方で、この日本独自の怨霊思想では、この世に残された人々が丁寧に葬り、神としてあがめ続け、その怨念を鎮めることが出来れば、怨霊はいつしか御霊(ごりょう)となり、逆に人々に福をもたらすともいう。



それゆえに、「魔法少女まどか☆マギカ お守り 美樹さやか -恋愛成就-」は、恋愛というものが、現世ではかなえられなかったさやかの本当の願望であったがゆえに、他のいくつかのお守り(例えば「魔法少女まどか☆マギカ お守り 巴マミ -厄除祈願-」「魔法少女まどか☆マギカ お守り 暁美ほむら -学業成就-」「魔法少女まどか☆マギカ お守り 鹿目まどか -心願成就-」※1)よりも、御利益のあるお守りになりゆく可能性を秘めているに違いない。



しかし、そのためにも、さやかファンは、いや、逆に、さやかの痛々しさを忌避したいと思ってしまった他キャラのファンこそが、彼女の魂を救うために、さやかを恋愛神として扱わなくてはならないのではないか。



つまり、僕が言いたいのは、「魔法少女まどか☆マギカ」を信じるファンであるならば、誰しもがこのお守りを身につけるべきであるということでなのである。



まさむね



※1)「魔法少女まどか☆マギカ お守り 美樹さやか -恋愛成就-」に、唯一、ライバルがあるとすれば、願い事を父のために使うことによって、逆に、心の傷を負い利己主義者となってしまう杏子による「魔法少女まどか☆マギカ お守り 佐倉杏子 -家内安全-」である。



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2012年2月20日 (月)

エリートを公務員ではなく起業家にするためにBIは必要なのだ

先ごろ、橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会が、次期衆議院議員選挙公約のたたき台として「船中八策」を公開して、よくも悪くも、話題になっているようだ。



以前、僕は橋下さんが目指すところとして、物事が遅々として進まない談合民主主義から、普通の民主主義が機能するための制度作りではないかというようなことを述べたが、それは今でも変っていない。

この「船中八策」は、首相公選制にしても参議院廃止にしても、物事を決めるプロセスの簡素化に重点があるように思える。



さて、それはともかく、僕が、橋下さんの意見で特に注目したいのが、「ベーシックインカム(BI※)」についての発言である。

橋下さんは御自身のTwitterで以下のように述べているのだ。

ベーシックインカムは、究極のバウチャー制度。供給者側の論理で役所の仕事を増やすのではなく、バウチャー制度によって役所の仕事を絞り込み、補助金を受ける団体をとことん失くしていくことにあります。間接経費の削除が目的です。

ベーシックインカムが成立すれば(これは不可能な政策と言われています)、年金制度、生活保護制度、失業保険制などを失くす可能性を考えることができる。それにまつわる組織が不要になるのです。


つまり、橋下さんは、ベーシックインカムを、経済政策の一つ、あるいは、公平なセーフティネットの切り札としての文脈以上に、公務員制度改革として捉えているのである。

おそらく、橋下さんは、公務員の仕事をより簡略化することによって、公務員という仕事を、エリートがする仕事ではなくそうとしているというのが大きな目的ではないかのかと、僕は思っている。



つまり、現在、多くの有能な人(例えば、東大出身者)を、公務員ではなく、本当に知識や知恵を必要としている起業家や政治家、表現者などの、多少リスクがあるが、上手くいけば、その人も儲かり、社会貢献も出来そうな仕事に向かせようとしているのではないかということである。



今後、日本が世界で生きていく上では、新しい価値を創造していくことが不可欠である。それは恐らく、誰でもそう考えているだろう。

しかし、そのためには、はじめは誰にも認められなくても、お金にならなくても、くじけずにコツコツと独自の道を歩み、新しいものを作れるようなタイプの人々を社会に後ろめたくなく大量に育てる必要がある。

全ての人に最低限の保障を施すベーシックインカムはそのために必要なのである。



まさむね



※関係ないが、僕の世代だとBIというと、馬場・猪木の黄金タッグチームを思い出す。

2012年2月19日 (日)

「平清盛」 雑感

久しぶりのエントリーとなってしまった。

今月に入ってから、音楽甲子園のことなんかもあって、ちょっと頭がそちらの方に傾いてしまっていたからだが、今日あたりから、また徐々に復活させていきたいと思っている。



そういえば、ここ数回のNHK大河ドラマ「平清盛」はちょっと辛い。視聴率が徐々に落ちているという話は聞いているが、むべなるかなという感じである。

特に今日の「平清盛」は、登場人物達の心の動きにどうも、感情移入できない。



例えば、得子(松雪泰子)が璋子(檀れい)に対して、激しい攻撃心を抱くという心の動きが唐突なのである。史実はともかくとして、物語の筋によれば、もともと、得子は璋子の口ぞえで鳥羽上皇の側室となった女性である。

しかも、前妻の璋子には上皇の心は無い。ということならば、むしろ、後妻打ち的嫉妬の感情を持つのが璋子とした方がより判りやすいのではないだろうか?



確かに、璋子は現代で言えば、KYなところがあって、鳥羽上皇の悩み(崇徳天皇が自分の子供ではないこと)を全く理解していないようにも思える。それゆえに、璋子が得子に対して攻撃的になるという演出はしにくいということはわからないでもない。

しかし、それならば、無理矢理に対決させる必要もないように思えるのである。それじゃあ、ドロドロマニアにはつまらないからということなのだろうか。



また、本日、初めて登場した明子(加藤あい)の清盛に対する感情もよくわからない。

清盛を一目見たときから、ほのかな想いを抱くが、身分(官位)が違うので気後れして求婚を断るというような単純な話にすればいいものを、父親・高階基章(平田満)が結婚話を強引に進める事に対して躊躇する、あるいは「自分は自分の幸せを見つけたい」などという極めて現代的な価値観を持ち込むもんだから、それまでの歌のやり取りでは断り続けるのだが、目の前で求婚されると、突然、OKしてしまうという展開に、おそらく多くの視聴者は(?)を抱かざるを得なかったのではないだろうか。



さらに、その他、崇徳天皇が登場するからと言って、百人一首の「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)のわれても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」という歌を吟じさせるとか、時子(深田恭子)に源氏物語の「若紫」の一節を復唱させるなど、変に教養主義的な演出は、どちらかといえば、わざとらしく退屈で、それほど効果を上げているようにも思えなかった。



おまけに、天皇が御簾の中からとはいえ吟じた歌を、武士である佐藤康清(藤木直人)が一対一で応対し、目の前で批評するとか...どうなんだろうか?



ただ、その中でも、忠盛(中井喜一)が清盛と明子の結婚を許した心根が、自分が果たせなかった好きな女性(清盛の実母・舞子(吹石一恵))との結婚を、清盛にはさせてあげたかったからという人間的な理由であったということをほのめかすように、舞子がかつて歌っていた「遊びをせんとや生まれけん」という今様を口ずさみ、それを横から盗み見た正妻の宗子(和久井映見)が、微妙に嫉妬するというようなシーンには趣きを感じるのも確かである。

この、清盛、忠盛、宗子この三人の関係は、演技も安定していて面白いっす!!



ようするに、現時点では、いいシーンと悪いシーン、自然なシーンとわざとらしいシーンの落差がありすぎるのと、演技の深度が俳優によって異なることによって生じたアンバランスが目立つというような欠点はあるものの、まぁ、それらをひっくるめて、「チャレンジングだねぇ」と言ってしまえる範囲には収まっているかなぁという感じではある。



ただ、基本的には頑張って欲しいという気持ちはかわらない。



まさむね

2012年2月 1日 (水)

僕が期待するのは古谷ツネヒラ氏の文体である ~「フジテレビデモに行ってみた!」を読んで~

古谷ツネヒラ(古谷経衡)氏の「フジテレビデモに行ってみた! 大手マスコミが一切報道できなかったネトデモの全記録」を読んだ。



古谷氏に関しては、この一本気新聞でも何度か名前を出させていただいたことがあるが、僕は氏のブログ(「アニオタ保守本流」)を読み、アニメトークラジオ(「ニコニコアニメ夜話」を聞いて、アニメに目覚め、アニメを観始めた。その意味で言えば、僕にとって、古谷ツネヒラ氏は、お会いしたことはないが、ある意味、導師のような存在なのである。



僕が、彼のブログや今回発売された著書を読んで、まず直感するのは、その文体のユニークさである。



僕は学生の頃から、数多くの文体のユニークな著者達に惹かれつづけてきた。例えば、70年代には小林秀雄、夏目漱石、鈴木大拙などの作品に感心し、80年代には、柄谷行人、蓮實重彦、三浦雅士といった文芸評論家に憧れ、その後、井上義啓やターザン山本などプロレス記者の文章を読み漁り、同時に、スタパ斉藤や竹熊健太郎といった「ファミ通」近辺の濃い文体に驚愕し続けてきた。



独自の文体を持つ作家は、より遠くまで行ける




これは、三浦雅士の言葉であるが、僕は、古谷氏にも、そういった文体を持つ作家としての可能性を感じるのである。

例えば、「フジテレビデモに行ってみた!」の冒頭は、いきなり「一匹の恐竜が日本を歩き回っている。テレビ局という名の恐竜が」という小見出しから始まる。言うまでもなく、これは、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」の冒頭の一句を援用したものであるが、古谷氏の活動を追ってきた者が読むならば、それはマルクス・エンゲルスが記した文章であると同時に、耳の奥から「ビューティフルドリーマー」のメガネ氏(あるいはサクラ先生)の声がかぶってきたりもするわけで、おそらく、古谷氏の文体の独自性とは、その独特な硬派な言い回しの中に、そういったサブカル的文脈の多様性を知らず知らずのうちに、読者に想起させる、その豊潤さにあるのではないかと考えたりするのである。



敢えて言えば、古谷氏の発想の面白さは、大学の史学科を卒業したという公式の経歴でもうかがえるような本格的な歴史知識に加えて、庵野秀明、押井守、今敏や大友克洋などのアニメに対する深い愛情は勿論のこと、ゲーム(「信長の野望」など)、アーケードゲーム(「ガンダム」など)、軍艦プラモデル(「田宮模型」など)、軍記物(「大逆転シリーズ」など)、漫画(「闇金ウシジマくん」など)といったサブカル系話題、あまつさえ、猫(チャン太)に対する愛情や果ては不動産に対する異常な関心といった混沌とした興味対象から湧き出てくる雑多な「言葉達」を独自の「言い切り」によって再編成する、その強引さにある。



もっとも、学問的な体系ロジックを「良」とするような立場からすると、いささか、不躾と言われかねないところも無いわけではないが、僕は、彼が発する言葉や文章におけるそうした不躾な文体に、なんともエネルギッシュな魅力を感じるのである。

フランスの詩人・ボードレールは「人を唖然とさせるような精神」のことをダンディズムと呼んだが、古谷氏の場合、まさにその強引さゆえに、「現在、日本で最もダンディな男の一人」であるといえるのではないだろうか。



さて、この本の中身に関してであるが、正直言って、僕は古谷氏の主張に対して全面的に同意する者ではない。例えば、韓流コンテンツに関して言えば、僕は、特に韓国製だからといって、それを流すテレビ局に対して、抗議すべきだとは思っていない。

勿論、僕の耳にも、フジテレビの最大株主の一つがSBIインベストメントがあり、そこに韓国系ファンドが大量の資金を流しており、その影響かどうかは不明だが、局内で反韓流プロデューサが配置転換されたという程度の(噂)情報は入ってきてはいるが、それも所詮、他人事であり、韓流も、「芦田愛」「お台場合衆国」あるいは「踊る大捜査線」のような売れるコンテンツメニューの一つだと考えるからである。



それよりも、コンテンツが韓国製であるかどうか以上に、いわゆる公共の電波を私物化し、80年代に「楽しくなければテレビじゃない」などと言って無理やりに彼らがはじめ、しかし既に終わっているバカ騒ぎを、彼らが依存し続ける「システム」の利益のためのみに偽装し続けるその醜悪さに対して憤慨するものである。

おそらく、一つのコンテンツが受けるとわかると、まるで蟻が甘い物に群がるかのごとく、朝から晩まで、露骨な番組内宣伝をし続けても何の恥じらいも無い、あの傲慢さに我慢しきれず、どれだけ多くの良心的な視聴者がテレビから離れていったことであろうか。

しかも、尖閣事件や311震災などを経て、次第に明らかになった彼らの恣意的な(とでも思いたくもなる)報道姿勢や、そもそも根本的にクロスオーナーシップ問題や電波オークション先送り問題などといったマスメディア自体がもつ不条理な課題を前にして無力な僕らには、古谷氏たちがフジテレビ前で「テレビを返せ」と叫んだ、その気持ちは痛いほどわかるのである。



そしてその叫びは、僕の個人的な怨嗟感情をも呼び起こしてしまう。

この場を借りて、そんなフジテレビの傲慢さの例として、自分自身の体験に触れておきたい。



ほんの数年前、僕はある食品を昼の老舗番組に提供したことがあった。その際に、番組のADが会社にやってきて、「商品の代金は、番組のデスクに請求してください」という。

後日、僕は教えられた電話番号にかけ、そのデスク氏(女性)に、以下のように尋ねた。

「◎月×日の昼の△時に放送されたコーナーで提供させていただいた食品のご請求をさせていただいてもいいでしょうか。金額は5万円になります。」

勿論、これは、実費である。すると、デスク氏は無愛想にこう言った。

「聞いていませんが!!」

ちょっと、待って欲しい、それはないだろうと思ったので、僕は続けた。

「番組のADの△×さんから、こちらに請求するように言われたのですが...」

すると、しばらく黙っていたデスク氏はこう言ったのである。

「2万円にならない?おたくだって、テレビに出してあげたんだから、宣伝になったでしょ。」

僕は耳を疑った。いくら、こちらが無名な一業者だからといって、それは、あまりにも失礼な応対ではないか。



これは、古谷氏も「フジテレビデモに行ってみた!」の中で、語っている「テレビ屋による一般人に対する見下し」のほんの一例であるが、おそら、く現在でもこういった「見下し」は続いているのではないだろうか、多分。



さて、話は変るが、今後、古谷氏が、その有り余るエネルギーをどちらの方向に向けていくのかは、大変、興味深いものがある。それは、この著作を手にした読者の多くも感じることだと思う。

個人的には、第三期「さくらじ」で、年長者の話をうかがうホストというポジションから、再び、闊達で強引な言論活動(特にアニメに対して)に戻っていただきたい、などと勝手なことを思っているが、それは古谷氏と、その文体のみが知るところなのであろう。僕らはそれをただ見守ることが出来るだけである。



まさむね

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