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2012年3月の8件の記事

2012年3月29日 (木)

宮崎駿は「風の谷のナウシカ」で新しい日本神話を創ろうとした

念願だったアニメ「風の谷のナウシカ」を観た。

このアニメは、1984年3月の封切りである。ちょうど、僕が新卒の年、新入社員研修時に隣の席の奴が、僕にこのアニメの話をしたのだが、何も知らない僕は、「えっ、風邪の時の治し方って、何?」とマジでボケた質問をしたのを今でも覚えている。

今から25年以上も前の話である。

それ以来、僕はずーっとこのアニメを、宮崎駿の代表作と知りながら見逃してきたわけだ。

そして、今回、初めて観た。そして、ナウシカというのは女性だったということを初めて知ったのであった。



さて、それはともかく、このアニメの内容に話を進める。

ストーリーに関しては、ほとんどの方は既にご覧になられているかと思うので、あらすじなどは省略するが、端的に言って、宮崎さんは、未来の日本人に対して「新しい日本の神話を創りたかったんじゃないかな」というのが僕の第一の感想であった。それは、将来的に、放射能に汚染された大地に住まざるを得なくなるであろう日本人が、新たに歩みだすための神話である。

(ちなみに、この作品の封切り日が、3月11日だったというのは何かの因縁だろうか。)



最後の方に、王蟲(オーム)の子供を救出したナウシカが、一旦は人間の所業に怒り狂った王蟲の大群に吹っ飛ばされるが、正気を取り戻した王蟲達によって、生き返らされるというシーンがある。そして、「その者、青き衣をまといて黄金の野に降り立つべし」という古の言い伝えの通りに、ナウシカは谷に戻ってくる。

これは、多くの神話に見られるのと同じような英雄の死と再生の物語に他ならない。

しかも、その時、大ババの脳裏に浮かぶ勇者の姿はまるで、金色の鳶に導かれて大和に入る神武天皇を思い浮かべさせるし、ナウシカの胸の白地に赤の模様はまるで日の丸に見えた。



勿論、宮崎監督が、親サヨク的な方だということを承知の上だが、僕にはそう見えたのである。

これは1984年と2012年との、時間差がゆえなのであろうか。



さて、このアニメの舞台となった風の谷は、世界最終戦争(火の七日間)から千年経った、この地球の辺境で残された、数少ない人類の住める場所という設定である。

それは、この土地が常に海から吹く風の流れによって、空気が清浄に保たれているからである。人々は、この風を活用した風車によって、地下から水を汲みだし、その清浄な水によって農業を営んでいる。おそらく、そのために、この土地は風を神として崇めている。

赤子が生まれた時に、「この子にいい風が吹きますように」というなんとも、優しい祈りの言葉をかけるシーンは、この村独自の信仰心から生まれた言葉であろう。

そして、その神である風を自由に操れる術に長けた一家がこの谷の族長一家であり、ナウシカはその一家に生まれたいわば王女である。



ナウシカの父親・ジルがトルメキアの兵隊に殺されたのを知った時、ナウシカはその怒りによって、風が吹き上がり、髪の毛を逆立てるシーンがあるが、僕はこれは、風の神に取り憑かれた(風を操れる能力を、父の死によって、ナウシカが受け継いだ)[1]瞬間であると解釈したい。

また、おそらく、最後の方で、ナウシカ不在の風の谷において、一瞬、風が止んでしまい不吉な空気が流れるのだが、これは、王蟲の来襲によって生じる谷の危機、そしてナウシカの死の予兆である。

というのも、ナウシカが再生すると風が元通りに吹き出すからであり、それと同時に、鎮痛そのものだった谷の人々を取り巻く空気をも心理的な風によって吹き飛ばしてしまったからである。

このようにナウシカの感情や、その生死によって風の動向が左右されるという意味でも、彼女は普通の人間ではなく、神話的な存在として描かれていると僕は思う。



そういえば、かつて僕は、「アシタカは成長しない 「もののけ姫」という神話」というエントリーで、もののけ姫の主人公のアシタカが決してブレない性格を持った神話的存在であることを書いたが、全く同じ意味で、ナウシカもブレない。



彼女の行動原理は、ただそ「殺さないで!」という言葉に集約されている平和主義である。その一点の「正義」を原理にしているため、彼女の行動にはブレがないのだ。変な言い方であるが、おそらく、彼女に対しては、その点に関しての妥協はないし、話し合いは無意味であろう。その意味で、彼女は原理主義者なのである。



ただ、一箇所だけ、彼女の父親を殺害した兵士達を殺してしまった後に、「私、自分が怖い。憎しみに駆られて何をするかわからない。もう誰も殺したくないのに。」というようなことをユパに告白するシーンがある。

僕は、このシーンを観た時、「もののけ姫」で、アシタカが、エボシに対して、その右手が勝手に剣を抜こうとするのを左手で制御しようとするシーンを思い出した。つまり、アシタカもナウシカも、自分の中の葛藤(邪悪な想念)とは、自分の意識とは別の何モノか(自分では制御出来ないなにものか)が自分に憑り依くことによって生じるというような描写がされている。つまり、そのように描くことによって、両者共通のブレは周到に回避されているのである。



ちなみに、「風の谷のナウシカ」と「もののけ姫」との対比で言えば、トルメキアのクシャナとタタラ場のエボシとは、そのカリスマ性や合理性において酷似しているし、また、クロトワとジコ坊は参謀格で微妙にコミカルという点で、王蟲とシシ神は、原始的自然の守り神と言う意味で似ていなくもない。



さて、僕が、「風の谷のナウシカ」にさらに興味を抱くのは、このアニメでは、神話的原理主義のナウシカの対極的な存在として、内面を変化させる存在としてトルメキアの王女・クシャナをも描かれているという点であるということも付け加えておきたい。

この物語の中に善悪という座標軸があるとすれば、最初は悪の方に描かれていた(あるいは、平和と戦争という軸があれば、戦争の方に描かれていた)クシャナであるが、物語が進み、ナウシカと接触するにつれて、変化してくるのである。

物語の前半では、命を助けられたにもかかわらず、ナウシカに「甘いな・・・」と言ってピストルを向けた彼女であるが、後に、「あの娘とゆっくり話をしたかった。」とつぶやき、最後は黙って風の谷を後にする。これは、クシャナが、ナウシカの善に感染したという言い方も出来るが、逆に言えば、クシャナが、復讐心を克服し、成長したというようにも取れる。

実は、この「風の谷のナウシカ」は、クシャナの成長譚という側面を持っているのだ。

そして、僕は、このクシャナの存在こそが、この神話を、より深みのある「芸術」にているのではないかとすら考えているのである。



それでは、最後に、それでは、このアニメで描かれている神話はどこへ向うのであろうか?ということについて考えてみたいと思う。



おそらく、風の谷も、トルメキアの飛行船によって持ち込まれた胞子によって、近い将来、腐海となってしまうだろう。

それゆえ、ナウシカに率いられた風の谷の一族は、腐海によって清浄にされた地下に移り住み、新しい人類としての文明を築いていくのではないだろうか。

エンディングの最後のシーンで、地下の砂地に生えた一本の被子植物(おそらく、ナウシカが谷から持ち込んだチコの実から生えてきたと思われる)はそのことを暗示しているのだ、と僕は思う。



まさむね



※封切りからおよそ27年も経っている名作です。おそらく、多くの人が解説や解釈を既にされているかと思います。漫画版も読んでいない立場で、敢えて、自分なりに、素で作品に向き合ってに書いてみたつもりです。勘違いなどありましたら、是非、コメントにてご教授下さい。



[1]この部分追記 風を操れる能力を、父の死によって、ナウシカが受け継いだ → 風の神に取り憑かれた(風を操れる能力を、父の死によって、ナウシカが受け継いだ) 2012.04.17



この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2012年3月27日 (火)

ブラック・シュールな平成の日常系アニメ「みなみけ」

「みなみけ」の第一期・全13話を観た。

このアニメは、元々は、週刊ヤングマガジンに連載されていた漫画がテレビアニメ化されたもので、2007年10月~12月に放送されている。

主人公は、マンション暮らしの三姉妹(長女:高校2年生・春香、次女:中学2年生・夏奈、三女:小学5年生・千秋)で、一般的には、日常系ギャグアニメの代表作とも言われている。

とことが、このアニメは、冒頭、こんなナレーション(声は、このアニメに登場する三姉妹の三女・千秋)から始まる。

この物語は、南家三姉妹の平凡な日常を淡々と描く物です。

過度な期待はしないでください。

あと、部屋は明るくして、TVから3メートルは離れて見やがって下さい。


これを読んでいただくだけで、雰囲気はわかっていただけるかと思うが、このアニメ全般に流れている空気は変である。

ここに描かれているのは、確かに、日常の風景ではあるが、平凡な日常では決してない。それは、どこかシュールな日常なのである。



それでは、この「みなみけ」の”変さ”を最も端的に示しているエピソード、第5話「海に行こうよ」の前半部分を振り返ってみることにする。



連日、猛暑が続く夏のある日、次女・夏奈の提案により、海に行くことになった南家の三姉妹。水着を試着してみると、三人の水着のどれもがキツくなっていることに気付き、次女・夏奈と三女・千秋が水着を買いに行く。

ところが、水着も揃い、さて次の日は海へ行こうという前の晩、雨が降っている。問題はここからである。



一計を案じた次女・夏奈は、なんと三女・千秋をテルテル坊主のように簀巻きにして天井から吊るしてしまうのだ。

おそらく、普通のドラマであれば、母親役の長女・春香が「そんなことやめなさい!」とばかりに止めに入り、一件落着というところではないだろうか。

例えば、「サザエさん」で、カツオがタラちゃんを天井から吊るそうとしたら、サザエさんが絶対に怒り、カツオは大目玉を食らうことであろう。ていうか、いくらヤンチャなカツオだって、タラちゃんを吊るそうなどとはしないであろう。



ところが、この「みなみけ」は違うのである。

なんと、三女・千秋は次女・夏奈にテルテル坊主にされて天井から吊るされるだけでない。そればかりか、普段は優しく面倒見のいい長女・春香は、この虐待を見逃すどころではなく、「頑張って、千秋、明日のお天気はあなたに託すわ」と言い、平然としているのである。

しかも、その千秋は、「三日三晩、働き詰めでお疲れでしょう、雨雲さま、水不足に備えてしばしお休みになってください」と、雨雲に向って言うと、なんと、雨は止み、晴れてしまうのだ。

まぁ、千秋のセリフで雨が止むというところだけ取り出せば、ギャグとして無い訳ではないと思われるが、小学5年生の妹を、中学2年生と高校2年生の姉二人が天井から吊るすというのは、ギャグという以上。それは、むしろ、ブラック・シュールな世界と言われるべきものではないだろうか。



僕は今まで多くのアニメを観てきた。その中ではかなり荒唐無稽な世界観やSF的仕掛け、変なキャラクタも登場してきた。例えば、涼宮ハルヒは、その自己紹介において、「ただの人間には興味ありません!この中に、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者が いたら、あたしのところに来なさいっ!以上!」という位、変な少女であったが、彼女の異常さは、周囲にいる例えば、キョンの常識的なツッコミによって、その都度、オチが付けられていたがゆえに、視聴者は安心してみることが出来たのである。

ところが、この「みなみけ」では、三姉妹とも、どこか変なので、いくつかのシーンで、上記のテルテル坊主の一件のような、まさに「宙吊り的シュール」が現出するのである。

おそらく、この突然、日常世界に現れる不安感こそ、このアニメの醍醐味に違いない!と僕はとりあえず納得した。



さて、このアニメのもう一つの特徴は、全話13話中、彼女達の境遇については全く語られないということである。つまり、何故、彼女達は三人で暮しているのか?父母はどうしてしまったのか?彼女達はどのようにして生計を立てているのか?などといった、普通であれば物語を理解するのに当然必要だと思われる疑問は全く回答されないまま、話が進むのである。



例えば、三人の性格を簡単に言うならば、長女・春香は、面倒見が良くおっとりしているし、次女・夏奈は愚かだが元気、そして三女・千秋は博識で頭がいいが毒舌である。

一般的に言えば、人間の性格形成には遺伝的(先天的)要因と社会的(後天的)要因によると言われているが、この三姉妹の性格から"逆算"しても、その要因にたどり着くことは難しいだろう。いや、むしろ、そうした"逆算"的詮索は、意味のないことなのかもしれない。



先ほども例に出したが、昭和の日常系アニメの代表作「サザエさん」のそれぞれの登場人物が、当時の典型的な主婦であり、旦那であり子供達であり、彼らの心情や行動パターンは何も考えずに理解可能であった。カツオやワカメは子供らしい子供であるし、波平やフネは大人らしい大人である。

ところが、この平成の日常系アニメ「みなみけ」では、そのいわゆる常識的な「らしさ」に対して抵抗するところで物語は成り立っている。特に、三女・千秋は小学5年生とは思えないほど、醒めた視線で世界を見ている。特に、次女・夏奈に対しての態度は辛らつだ。

例えば、以下は、第9話「三姉妹日和」での次女・夏奈と三女・千秋との会話である。

夏奈:お前は私のことをいつも、馬鹿というけど、本当はどう思っているのか、夜を徹して語り明かそうぜ。

千秋:あ~、そうか、それは私が至らなかった。言葉が足りなかった。

    いや、本当なら、お前がどれほどの馬鹿か、千の言葉を用いて罵ってやりたいところだよ。

    でも、いかんせん、私の舌はそんなに速くは回らないんだ。

    はがゆいよ。もっと言いたいことはあるのに。

    馬鹿野郎のひとことに気持ちを込めるしかないんだ。



おそらく、この三女・千秋のセリフに象徴されるシュールな言葉こそが、平成の日常系アニメというものなのであろう。



さて、最後に、このアニメを読み解く上で一つ気になったシーンだけ上げておきたい。それは第7話「いろんな顔」の図書館のシーンである。ここで次女・夏奈は、同級生の藤岡と偶然に出会うのであるが、その背景にある本から、この「みなみけ」が、どのような文学・映画作品を背景として出来上がっているのかを類推できるのではないかと思ったのである。

ちなみに、僕はアニメや映画で図書館が出てくるときは、必ず、そこに写っている本を確認することにしている。そうすると意外なことがわかってくるからだ。例えば、「恋空」という映画がある。その映画の冒頭近くで主人公・ミカが落とした携帯電話を図書館で見つけるシーンが出てくるが、そこに並んでいる「日々の泡」(ボリス・ヴィアン)、「花咲く乙女たちのかげに」(マルセル・プルースト)、「幽霊たち」(ポール・オースター)といった本が、実はこの映画を読む上で重要なヒントになっているのである。(ご興味のある方は、「恋空」ツッコミ所と絶妙な隠喩の微妙な混在参照してください)

それと同じように、このシーンの背景に顔を見せる「仮面の宣告」「太雪」といった作品名、小津高次郎といった著者名を見ると、「みなみけ」の三人姉妹は「細雪」の四人姉妹のパロディであり、このアニメに登場する南冬馬やマコトの性の揺らぎは三島作品の影響を思わせ、舞台がほとんどが和室(しかもローアングル)で少なくとも長女・春香と三女・千秋はいつも正座をしていることの遠因が、それとなく納得出来てしまうのであった。



まさむね



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2012年3月26日 (月)

残念ながら、今場所の把瑠都は、まだ横綱になるだけの器がなかったということか。

大相撲・春場所が終わった。

終わってみれば、最後は、横綱・白鵬の貫禄の優勝。これで22回目、あの貴乃花と並んだ。

おそらく、今年中に北の湖や朝青龍の記録を塗り替え、大鵬、千代の富士の記録に迫ることであろう、いや、彼ならば史上最高の優勝回数も決して夢ではないだろう。本当に凄い男である。

もし、彼に敵がいるとすれば、体調かもしれない。優勝インタビューの時に、中終盤の一瞬の失速に関して、古傷云々と語っていたが、それがどこの傷なのか、どの程度、傷なのだろうか?

敵に弱みを見せたくないのか、具体的には語ってはいなかったが、気になるところではある。



しかし、僕にとっての今場所の見所は、把瑠都の綱取りが成るかどうかというその一点だった。その意味で、誠に残念な結果となってしまった。



思えば、11日目の結びの一番の一つ前の相撲、把瑠都対琴欧洲戦で、一方的に把瑠都が敗れたあの瞬間に、僕にとっての今場所の興味は無くなってしまったと言ってもいいかもしれない。

敗戦後、本当に悔しそうな顔をしていた把瑠都。結びの一番の一つ前で相撲を取った力士は、勝敗に関係なく、土俵際に残って結びを一番を見なければいけないことになっているのだが、あの時ほど、それが残酷に思えたことはなかった。

把瑠都は、仕切りの時も、取り組みの時も、終始、下を向いていた。目には涙を浮かべていたようにも見えた。いつも陽気な把瑠都であるが、あんな把瑠都は始めて見た。



今更ではあるが、相撲というものは、スポーツとは違う別の何かである。

例えば、力士達は花道から姿を現してから、引っ込むまでの間、力士の顔となる。出来うる限り感情は抑え、個人としての顔は見せないものである。おそらく、土俵上での塩撒き、四股、仕切りといった仕草や、髷、マワシといった姿は、つまり大相撲の伝統と呼ばれる一連の所作は、徹底的に個人を消すために存在するのである。

そして、ある程度、個人を消すことに成功しているからこそ、どんな不祥事があったとしても、人気の大横綱が引退したとしても、大相撲は続いているのである。そんなシステムを作り上げた大相撲協会は、一見、時代遅れの旧弊のようにも見られがちではあるが、実は、相当に周到で老獪な組織なのかもしれない。



そういえば、今場所の最初、白鵬はインタビューの中で「相撲とはスポーツではなく、日本そのものである」というようなことを語っていた。

その言葉を、先ほどの文脈で解釈するならば、大相撲というものが個人を徹底的に消そうとするシステムであることとも関係しているのかもしれない。



ご存知の通り、日本では、共同体の中の個人は、決して個人ではない。

例えば、会社における部長とは、個人の本当の性格は別にして、部長としての役割を演じる人のことをいう。いい部長というのは、その役割を演じきれる人のことを言うのだ。

おそらく、白鵬というモンゴルから来た聡明な青年は、そのことを理解しているのだろう。彼は、白鵬である間は、決してムンフバティーン・ダワージャルガルとしての顔を見せることはない。彼が自身の怪我について、ほとんど語らないのは、それが横綱として相応しくない行為と考えているからかもしれない。彼はその意味でも十分横綱の資格があるのだ。



一方で、琴欧洲の一番で完敗を喫し、土俵下で、大関としての顔を一瞬、忘れて、カイド・ホォーヴェルソンの顔を見せてしまった把瑠都は、その意味でもまだまだ横綱には遠いと思わされた。おそらく、それは強弱の問題ではない。彼には大相撲という共同体において、横綱という役割を演じるだけの器がまだ備わっていないということなのである。

いずれにしても、把瑠都の綱取りへの挑戦は、まだまだこれからである。また、来場所から心機一転、頑張って欲しい!



まさむね

2012年3月23日 (金)

「俺たちに翼はない」は単なる美少女アニメではなかった!

70年代末、東横線・自由が丘駅前の映画館には、「地主のヒヒじじいが、借金を返せなくなった小作人の娘を陵辱する」というようなモチーフの成人映画が、いつもかかっていた。あるいは、日常とはかけ離れたアーティスティックなエッチシーンにお目にかかることもあった。暇な大学生だった僕らはそんな映画館に、よく足を運んでいた。



おそらく、当時の映画監督達は、限られた表現手段の中で、心の中にくすぶる反体制、反封建主義、シュールレアリズム、ダダイズムといった思想を作品に込めていたのであろう。

それらの映画は、表面的にはピンク映画であったが、実は、思想・芸術映画もであったのだ。

全共闘世代の残滓のような熱が、それらの「消耗品フィルム」をギリギリのところで作品に仕上げていた。僕らは、エッチシーンを観ると同時に、そんな徳俵一枚残ったこだわりの表現に触れていたのだと思う。30年経った今でも、僕の頭にあの頃の「自由が丘劇場」が思い出されるのは、そのためである。

いい悪いは別にして、僕にとって自由が丘とは、今でも、オシャレな街なのでは断じて無く、時代遅れの熱に触れた、あの記憶の中の場所である。



さて、僕が冒頭のような話を書いたのは、先日「俺たちに翼はない」というアニメを観たからである。

このアニメは元々は、恋愛アドベンチャーゲーム(18禁)だったものをアニメ化したもので、ゲームをしていない視聴者(それに加えて、アニメ慣れしていない視聴者)にとっては、次から次へと登場する美少女達の名前とキャラを識別していくだけでも難儀で、しかもパンチラ以上、乳首出し未満のエロチックなシーンが、これでもかこれでもかと続出するものだから、いわゆるその道のオタク以外にはハードルの高いアニメとして、多くの善男善女を「3話切り」させたという伝説のアニメである。



実は、僕も最初のうちは訳がわからなかった。誰が主人公なのかすら理解不能だったのである。しかし、3話を乗り切り、4話、5話、6話と観進んでいくにつれ、このアニメの奥底に潜む、陰鬱なるモノに気付くようになる。実は、何人も出てきた男子達とは多重人格障害である一人の男の子・羽田鷹志(はねだようじ:以下、ヨウジと略す)が生み出した複数の人格だったのである。

そして、それらの男の子は場所と時間を棲み分けて存在しているのだ。以下、簡単に整理してみる。

羽田鷹志(はねだ たかし)・・・無気力で、押しが弱い高校生。昼間、学校に登場。

千歳鷲介(ちとせ しゅうすけ)・・・明るく社交的。夕方~夜のレストランでアルバイト。

成田隼人(なりた はやと)・・・交友関係が広く、喧嘩が強い。深夜のストリートを徘徊。

伊丹伽楼羅(いたみかるら)・・・鷹志の妄想世界の国王。現実離れしている。


そして、それぞれの男の子(伽楼羅以外)の周りには、それぞれの時間と場所に合った、美少女達が大量に登場していくるのである。つまり、いうなれば、様々なタイプの美少女達を登場させるために、このアニメ(元はゲーム)では主人公の多重人格障害という精神疾患を活用するという構造になっているのだ。

例えば、「Steins;Gate」におけるタイムリープ、「魔法少女まどか☆マギカ」における魔法、「千と千尋の神隠し」における異界、「怪-ayakashi-化猫」における物の怪といった具合に、アニメをアニメたらせるためには、いわゆる架空の設定を物語に取り込むことは常道であるが、この「俺たちに翼はない」では、現実に存在する病理を設定として使用しているのだ。ファンタジー表現化しているとはいえ、まさに冒険である。これには驚かされた。おそらく、エンターテイメントとしてはギリギリの判断だったのではないかと想像される。



しかし、このように、いわゆる「一歩踏み込んだ」設定を決断したがゆえに、このアニメは、美少女アニメという表面的なエロスと華やかさとは裏腹の、シュールな陰鬱さを内包することになる。僕は、そんな設定に、あの自由が丘のピンク映画で感じたのと同質の熱を感じるのである。



思えば、このアニメは、その冒頭から、何もない場所(ならくの底)で一人アナログテレビを見る少年の後姿が何度も映されていたが、実は、この孤独な少年こそ、多重人格障害のヨウジだったのである。

そして、少年は、カチャカチャとチャンネルを合わせて、ブラウン管に映し出される三人の別人格と周囲の美少女によって織り成される日々の生活をただ観るだけの存在である。

ヨウジにとっては、実は自分自身の事であるにもかかわらず、鷹志、鷲介、隼人が経験する現実の街場における苦労、努力、葛藤といったものは他人事にすぎない。それゆえに、そこで得られる成功も失敗も、大した問題とは認識されていない。ただ、それぞれのキャラがその属性の通りに動いているだけに見えているのである。

また、その一方で、美少女達のエロティックな肢体を堪能している。しかも、彼は、そのような境遇を、(自覚的には)幼い頃に犯した罪に対する罰として認識してはいるものの、(無意識的には、)そこに居心地の良さすら感じているのではないだろうか。



僕は、このようなヨウジ(=幼児)の惨めな後ろ姿を繰り返す流すこのアニメに、かなりオブラードには包んではいるが美少女アニメに耽溺するオタクを冷たく客観視しようとする意志のようなものを感じるのだ。特に使用しているテレビがチャンネル回転式の旧式のアナログテレビであるとことに、この少年の姿が、実は、現在の中高年の少年期を思い出させるような設定となっているところにも注目してしまう。

それはまるで、あの『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版「Air/まごころを、君に」』において庵野秀明監督が、彼らを実際の画面に映し出すことによって、提示したオタクに対する揶揄を髣髴させる。

実際、この「俺たちに翼はない」の最終話は、まるでエヴァのオマージュとでも言いうるような表現が見られるではないか。

例えば、ヨウジが多重人格障害に陥った原因を、おそらく、ヨウジ自身が書いた母親の似顔絵の連続絵で表現する。

また、ヨウジの母親は、いとこの羽田小鳩(はねだこばと)と仲良くしなさいという一方で、機嫌の悪いときにはヨウジと小鳩との関係に、自分の旦那と浮気相手との関係を投影して、小鳩に辛くあたる。つまり、ヨウジの多重人格障害は母親から受けた単なる仕打ちではなく、ダブルバインド的態度によって、引き起こされたのだということがほのめかされるのであるが、これは、「エヴァ」においてシンジの苦悩の根本原因が幼児期のネグレクトにあったということを描いた、あのエグい表現を思い出させるのである。



つまり、このアニメは、90%は、オタクの欲求に忠実であろうとする典型的な美少女アニメでありながら、残りの10%で、そこからはみ出ようとするエヴァ的な挑戦が見られるのである。そこが、「俺たちに翼はない」を最もスリリングにしている点である。



もっとも、このアニメの最終回は、「エヴァ」のような破滅的展開を周到に避ける。

それはおそらく、エンターテイメントとしての礼儀のようなものであろう。

小鳩と一緒に、子供の頃の記憶を辿る旅をするヨウジは、自分の多重人格障害の原因を、母殺しにあるということを「直視」し、しかし、実際の母の死は自殺であったことを知り、最終的には、自分が犯した行為は小鳩を助けるためだったという理由で、自分自身を免罪し、人格統合を決意する。そして、終には、ならくの底のテレビを消して、街場に復帰していくのだ。

そして、画面は第一話の冒頭と同じ平和な通学シーンが繰り返される。つまり、平穏な日常が取り戻されたところで、ハッピーエンドとなって話を終えるのである。さらに、一つ前のシーンではあるが「僕らには翼はないことはないらしいぞ」などという表題とは逆の幸福に満ち溢れたナレーションまで加えるという念の入れようである。

勿論、このような最終話を、偽善的だとか、安易だとか、キレイ過ぎるなどと批判することは可能かもしれないが、おそらくそこを攻めるのは酷に違いない。むしろ、多重人格障害を物語的仕掛けに使ったことの落とし前としては、地味なセリフとしてだが、これからも治療は続くと言及させたところに良識は感じるし、その点、リアルではなくとも、リアリティは保持していると評価すべきではないだろうか。



さて、一般的に言えば、アニメ業界では(これはゲーム業界やアイドル業界等にもいえることだが)、その表現がハイコンテクスト化し、ユーザーの嗜好に合わせてどんどんと先鋭化していくことによって、市場自体が先細りしていくことが懸念されている。



しかし、「俺たちに翼はない」のように、ユーザーの嗜好の範囲内でも、もがくようにして表現の可能性を広げていこうとするような作品に出会うと、その目はまだ死んでいないに違いないと、かつてのピンク映画、あるいはロマンポルノが、若松孝二、滝田洋二郎、黒沢清、周防正行、相米慎二といった次代を担う才能を多数生み出したのと同じような期待を、僕はしてみたいのである。



さて、最後に、そういった作者の意欲を想像させる印象的なシーンを一つあげてみよう。それは、第11話。物語のヒロインの一人、玉泉日和子(たまいずみひよこ)はデビュー作「ほほえみインサイド」というラブストーリーで大ヒットをするが、二作目の「米寿」という老人を主人公にした地味な小説の不評に悩むというシーンである。ここで彼女は「本当に書きたい作品」を書こうとする表現者と「客に媚びる商品」を書かなければならないプロフェッショナルの狭間で苦悩するのであるが、最終的には、鷲介の助言によって、より多くの人に対して、とにかく作品を読んでもらって判断してもらおうという結論に達するのだ。

おそらく、その姿は、現状の美少女アニメ業界において作者達が置かれている厳しい境遇と、多かれ少なかれシンクロしていることが読み取れる、いや、多分、そのように読み取らせるように描かれているのではないかと思うのである。



まさむね



この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2012年3月21日 (水)

「怪~ayakashi~化猫」 何故、男は薬売りなのか?

怪~ayakashi~化猫」は2006年にフジテレビの深夜アニメ枠で放送された和風のホラーアニメである。

全11話のシリーズで、「化猫」の他、「四谷怪談」「天守物語」の二作品もあるが、ここでは特に、その中でも名作との誉れが高い「化猫」について語ってみたいと思う。



まずは、このアニメを観て、ほぼ全員が感じること。、それは絵の独特な美しさである。錦絵のような発色と構図、そして千代紙のようなテクスチャが使用されており、この凝ったアニメーションを観ていると、現代日本アニメの源流は江戸の町人文化にこそあったのだというような一言も言いたくなるし、何よりも、その仕事量の多さと仕事質の繊細さに圧倒される。

勿論、それらの色をふんだんに使用するため、武家の屋敷の中に、過剰な襖絵や歌舞伎の緞帳があったり、仕舞いには奥方が花魁のような髪型をしているなど、多少の無理はあったりもするのだが、「そんな指摘は、野暮だぜ!」とでも言いたげな外連味たっぷりの演出は、それはそれで許せてしまうから、勢いというのはどうにも怖いものである。

ただ一つ、野暮を承知で家紋主義者としての小言を言わせていただくならば、この坂井家の家紋が丸に井桁菱なのか、丸に釘抜きなのかが微妙なところが気になるのである。一般的に言えば、坂井というその名字からして丸に井桁菱が正しいのであろうが、例えば、屋敷の正面にかかった大きな暖簾が丸に釘抜きだったり、丸に井桁菱だったりと、時々ブレるもんだから、もしかしたら、このあたりは個々のアニメーターの裁量に任されていて全体のディレクションとしては「どうでもいい」点なのかとも想像してしまい、ほんの1ミリ位、残念なところではある。



さて、そういった絵画的な見所とは別に、僕が気にいったのは、このアニメの物語的構造。その凝った設定にあった。



一般的にいえば、妖怪退治モノの典型では、妖怪の出現に困った人々を、ヒーローが妖怪を退治することによって救うというものであろう。いわゆる単純な勧善懲悪モノである。

次に、これがちょっと複雑になると、妖怪にも妖怪の事情があるという”厚み”が加わる。

「ウルトラセブン」や「ゲゲゲの鬼太郎」など60年代~70年代の少年アニメの主題としてよく見られるのであるが、人間の業によって、普段は大人しい動物が怒り、妖怪化してしまうというパターンである。

「元はと言えば、悪いのは欲に目が眩んだ人間だが、しかし、かと言って人間に害を与える妖怪(怪獣)は退治されなければならない」というような話が、その典型である。



そして、一見、この「化猫」もそのパターンのようにも思えるのだ。それは、この物語で化け猫を退治する薬売りの男の以下のようなセリフにも現れている。

お前を為したのは 人ではあるが

人の世にある物の怪は 斬らねばならぬ


実は、この化け猫とは、大きな武家屋敷の隠し部屋で、そこの主人にてごめにされた女性の怨念が猫に乗り移った妖怪だったのである。

そして、この屋敷から嫁に出ようとしていた娘を殺し、今まさに、屋敷の住人全員を殺そうとしていた化け猫を、謎の薬売りの男が退治するというのが、このアニメの表向きの展開である。

しかし、この物語はそんな単純ではなかった。薬売りは、化け猫を倒すのに使う「退魔の剣」という武器を使用可能にするために、物の怪の正体を、そして、何故、物の怪がこのように暴れるのかを、剣に理解させなければならないという。それがこのアニメの設定なのである。

つまり、薬売りが化け猫を倒すためには、全ての真相が解明されなければならないのだ。



最初は、自分の罪状を軽く見せようと、(あるいは自己欺瞞によって)偽りの告白をする屋敷の主人であるが、当然それでは「退魔の剣」は抜けない。

ピンチに陥る薬売りであるが、ここで、不思議なことが起きる。

化け猫が、その薬売りを、自分の過去の記憶の世界に引き入れるのだ。そして、結果的には、薬売りと剣は過去の真実を知り、それによって、化け猫は、退治されてしまうのである。

薬売りは、真実を知った後、「退魔の剣」を抜き、化け猫に対して以下のように叫ぶ。

この地(血?)、この縁(えにし)に囚われるな!

清め払うぞ!赦せ!


つまり、薬売りは化け猫を倒そうとするのではなく、治そう(清め払おう)とするのだ。化け猫は、自らの過去を薬売りに吐露することによって、自ら進んで「退魔の剣」に斬られようとしたと見えなくもないのである。ここには、まるで、精神分析される患者(=化け猫)と精神分析医(=薬売り)との関係のようなものがある。おそらくこれがこのアニメの、判りにくくも、ユニークなところである。

あんたが殺されようが殺されまいがどうでもいい、俺はアレを切らねばならぬ。そのためにアンタの話が必要なんだ。


これは、男が、屋敷の主人から話を聞こうとする時に、主人に対して言うセリフであるが、このセリフからも理解できるように、この薬売りの男は、物の怪を退治して人間を救うことを目的としているのではない。物の怪化してしまった人間(+動物)を切開し、その魂を治癒することの方が目的なのである。

おそらく、男が剣士ではなく、あくまでも薬売りという、患者を治す職業なのはそのためである。



闘いが終わり、猫の供養も済んだ後、花嫁衣裳の女性と猫の霊が、この屋敷の敷居をまたいで楽しそうに外に出るシーンがあり、ジーンとさせるが、この世に不安や不幸をもたらす怨霊(成仏できない霊)に対して、その思いのたけを語らせることによって、最終的には成仏させる(自由にさせる)という構造は、まさに、世阿弥によって完成された日本の伝統芸能・夢幻能の構造と同じである。



そして、花嫁と猫と同時に、この屋敷で働いていた女中と若い武士も、これからの自分達の人生に向けて、この屋敷を後にするその結末は、あまりにもすがすがしい。もしかしたら、このホラー時代劇アニメの快感は、この一瞬のすがすがしさにあると言ってもいいほどである。

そして、重苦しい共同体的空気から抜け出た一瞬のすがすがしさは、例えばブラック企業から足を洗う新入社員の体験談を耳にするまでもなく、現在の日本社会にもまだ十分、リアリティのある瞬間であり続けているようにも思える。いいか悪いかは別にして。



まさむね



この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2012年3月14日 (水)

「Steins;Gate」 大学一年生の夏の秋葉原の物語

思い返せば、人生のうちで最も好きなことが出来た時期というのが、大学一年生の夏休みという人は多いのではないだろうか。



そんな人生のエアポケットのような「あの暑い夏」に、秋葉原という東京でも特にユニークな街にたたずんで、思わず妄想にふけってみる。

そんな至福な時間の一瞬の妄想をアニメにしたかのような作品が、この「Steins;Gate(シュタインズゲート)」である。



実は、僕がこの秋葉原を最もユニークな街と書いたのには理由がある。そこは、元々何も無い土地だったがゆえに、つまり、土地の記憶(霊)が全く無かったがゆえに、逆に何にでもなれるような場所だったのである。

ご存知の方も多いかと思うが、秋葉原は、江戸時代、火除地であった。火除地というのは、その時代に火事の類焼を防ぐために、敢えて空き地にした場所のことである。

一説によれば、アキバとは、そこが、「空き場」だったがゆえに付けられた名前とも言われているのである。



それが明治以降、貨物集積所、青果市場、闇市、電気街、パソコン街、そして萌え文化の中心地というように、秋葉原は、その時代時代に合わせて、顔を変えてきた。元々、何でも無かったがゆえに、何にでもなれる場所、それが秋葉原なのである。

そう言えば、この「Steins;Gate」の中にも、秋葉原が萌えの街となったのは、偶然であったかのようなエピソードが出てくるし、あるいは、柳林神社という産土社も出てくるが、そこにおわす狛犬の形状から、その神社が戦後に建て直された神社(=新しく神を宿らせた場所)に違いないということを類推させるのであった。



ちなみに、江戸の火除地だった場所として秋葉原と並んで有名なのが、九段下である。

そう、靖国神社のある場所だ。ここも秋葉原同様に、元々何でも無い場所であったが、明治以降に天皇のために死んだ兵士を顕彰する聖なる場所としての新たなる意味が付加された。そして、それ以降、秋葉原とは対照的に、ある一つの固定的な意味を担った場所として現在も続いている。

秋葉原と靖国神社、この二つの火除地(=空き場)は、何の因果か、日本で最も変化する街と、日本で最も変化しづらい神社に、あるいは、日本の首相が真っ先に街頭演説をしたがる場所と、日本の首相が足を踏み入れることの出来ない場所、さらに言えば、日本で最も軟弱な文化の街と、日本で最も硬派な神社、というような対照的な場所になっているというのは、ある意味で興味深い。



さて、話を戻そう。

つまり、僕が言いたかったのは、秋葉原という、元々何でも無かった場所(つまり、それが故に何にでもなれる空間)と、人生において、最も何者でもない大学一年の夏休み(つまり、何にでもなれると妄想出来るような時間)がクロスした時空間を舞台にした物語だからこそ、この「Steins;Gate」は、生々しくも僕らの快感を刺激し、想像力を喚起させるのだ、というようなことである。



例えば、この物語の登場人物達(ラボメン)は、秋葉原の裏路地の雑居ビルの二階の一室(未来ガジェット研究所)に居場所を求めてやって来ては、そこで、ダラダラとした時間を過ごしながら好き勝手なことをしている。そこは資本主義的な労働や会社的な組織、経済合理的な動機とは無縁で自由な時空間...



つまり、未来ガジェット研究所こそは、大学一年の夏という時間と秋葉原という空間が生み出したユートピアなのである。



おそらく、多くの視聴者にとって、このアニメの魅力は、登場人物達が巻き込まれていく壮大なSF的戦闘や、それを構成するための緻密なストーリー以上に、むしろ、外から隔絶されたダラダラとしたユートピア的日常を擬似的に共有出来る、その居心地の良さの方にあるのだ。その意味で言えば、この「Steins;Gate」は「ハルヒ」や「けいおん」と同じような日常系アニメの系列にある作品である。



また、さらに加えるならば、このアニメを特徴づける世界線を巡る激しいストーリー展開は、逆に、その時空間(未来ガジェット研究所)の居心地の良さを際立たせるためのネタに過ぎないとすら思われるのである。



それに加えて、僕がこのアニメに大変、興味を抱くのは、主人公・岡部倫太郎(通称・オカリン)が、実は、人類の未来に関わるような死闘を行っているにも関わらず、その舞台となる秋葉原の街は、ほとんど、その闘いとは無関係に、日常を保っているというようなところである。

おそらく、同じくサイバー的な意匠を身にまといながら、現実世界の人々を巻き込んで展開する「東のエデン」や「サマーウォーズ」といったアニメに対して、この「Steins;Gate」が特徴的なのは、ここで行われている闘いが、リアル世界とは、ほぼ無関係に展開しているという点ではないだろうか。



勿論、こうした設定は、話の筋書上から言うならば、オカリンの闘いは、彼にしか理解出来ない次元のものであるから、ということなのであるが、僕には、「Steins;Gate」が選択した、この設定は、むしろ、外部に無視されるということが、閉じられた組織にとっては、ある種の恍惚感をもたらすという原則に通じているように思えるのだ。



またその恍惚感は、おそらく、オタクが、その趣味を、一方で、一般の人々に理解されたいと思う反面、他方では、外部の人から無視される(あるいは蔑まれる)ことによってこそ、快感を感じてしまうという、あの二面性ともパラレルであるし、さらに言えば、ある種のカルト宗教的な恍惚にも通じているのではないだろうか。



そして、最後に付け加えるならば、こうしたねじれた快楽が表現されるのに最も相応しい舞台こそ、秋葉原をおいて他には無いようにも思えるのである...ということを書く僕の頭の中には、なんとなく、未来がジェット研究所とあのマハポーシャがダブるのであった。



まさむね



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2012年3月 5日 (月)

ビートルズ資料館は竜宮城のようなところだった

昨日、JUN LEMONさんが学芸員をされている「ビートルズ資料館」によしむねさんとお邪魔してきた。



場所は船橋。アパートの1Fの2Fに展示室とオーディオ・ルームがあり、それぞれ圧巻。

展示室には、ビートルズ来日当時の雑誌が数々あり、一度、ページをめくるともうそこには60年代のカオスが顔を出す。

その中でも目を引いたのが竹中労責任編集の話の「特集 臨時増刊 THE BEATLES REPORT」。

思えば、竹中労という人は常に闘っていたんだなぁ。ビートルズ来日に潜む”闇の力”を糾弾するという内容で、当時は全く売れなかったそうだ。それはそうだ。ビートルマニアの女の子にとって、竹中のテーマはあまりにも重い。



ところが、現在ではオークションでは一万円の値がつき、復刻版も出ているという。

いい仕事をすれば、歴史が評価してくれるといういい見本でもある。



その他、資料館には、ビートルズの武道館のチケット、来日時のジョージとジョンの自筆サイン、そしてなんとポールとジョンの出生証明書など、面白い品が目白押し。

ちなみに、このポールとジョンの出生証明書というのは、誰でも取得できるらしい。でも、わざわざ、イギリスに連絡して取り寄せてしまうところがJUNさんの凄いところだ。



一方で、2Fのオーディオ・ルームには、ビートルズ関連の世界各国のレコード、CDがある。

僕はポールの「JUNK」、よしむねさんは「ROCK'N’ROLL MUSIC」「SOMETHING」をリクエスト。やっぱり、i-podとは音の迫力が全く違うなぁ。本物だ!



さて、一通り、見せていただいた後、ティータイム。

ビートルズ談義に花が咲く。JUNさん曰く、ビートルズの特徴はレンジが広いこと。

初期のロックンロールから、中期のバラードロック、SGTで音の金字塔(懐かしい言葉だ)を立てたかと思えば、ホワイトアルバムであらゆるジャンルの音楽に挑戦、最後は至高の名作・アビーロードで締めた。やはりビートルズは比類なき存在である。

確かに、アルバムジャケットを並べてみると、これが一つのバンドの7年間の遷移か?と思うくらい劇的な変貌を遂げている。

ビートルズの素晴らしさは、決して一つのところに留まらずに常に進歩し続けたことである。そして、その進歩が見事に時代とシンクロしていたことだ。

これこそ奇跡であると、思わず、三人(僕とよしむねさんとJUNさん)は顔を見合わせて、うなずく。



おそらく、現在のバンドに欠けているのは、この成長(チャレンジ精神)ではないだろうか。

誰とは言わないが、ある一つのパターンで売れてしまうと、その殻から出ようとしないアーティストがあまりにも多すぎる。勿論、ユーザーもそのアーティストのそういったスタイルを好むわけだから、いたずらにスタイルを変えるというのは、マーケッティングという観点でいえば、あまりにリスキーである...というのはよくわかる。

ただ、僕らは決してマーケッティングの結果としての商品を聴きたいのではないはずだ。

そんなものではなく、アーティストが何かに挑戦し、成長する、その生き様をも含めたスリリングな瞬間に、彼らが作り出す「音」を通して出会いたいのである。



もしかしたら、その意味で、前回のエントリーで触れた富野由悠季さん(やアントニオ猪木)が目指そうとした世界に近いのかもしれない。(ご興味のあるかたは「魔法少女まどか☆マギカ」とジャイアント馬場と古今集とをご覧下さい。)



それにしても、JUNさんのビートルズ談義は尽きない。しかも、全ての質問に丁寧に答えていただける。間違いなく、この「ビートルズ資料館」で一番貴重なのは、(勿論、展示物も素晴らしいのだが..)JUNさんの存在である。

とにかく、ここに来れば、身も心もビートルズ漬けになれる、ここはそんな空間なのである。



公式の開館は、3月20日(火・祝)。ご興味のある方はコチラより、予約してください。



JUNさん曰く、まだビートルに触れたことのないビートルバージン(これは僕の造語)の方、ビートルズを研究対象にしようと思っている大学生、院生の方は特に、足を運んでいただきたいとのことです。

というのも、元々、JUNさんがこの資料館を作ろうとしたきっかけは、ビートルズという20世紀最大の文化遺産を、次世代に引き継いでもらいたいと思ったからだという。

僕もJUNさんと同じ世代だが、その気持ちは物凄くよくわかる。おそらく、僕らの使命はそれぞれ個々人のスタンスは違えども、そして一人一人では微力ではあるが、そうしていいモノを後世に残し、若い人々に、自分の可能性に目を向けさせてあげることだからだ。



そして、そのための対象として、ビートルズこそは最適なのである。



そういえば、オーディオルームで、僕らは、JUNさんにビートルズデビュー前の荒削りな「I'LL FOLLOW THE SUN」と、フォーセールに収録された、完成品としての「I'LL FOLLOW THE SUN」の両方を聴き比べさせていただいた。

僕とよしむねさんは、その2バージョンを耳にして、あまりにも激しい短期間での進歩に驚く。

そして、アーティストにとって、大事なのは完成されたものではなく、未完の可能性だということに、改めて気付かされる。



もしも、無限の時間があれば、ここで、無限にビートルズを聴き、ビートルズ関連の書物を読み漁り、そしてビートルズについて、時を忘れて、語り合い続けていたい!

ここは、まるで「竜宮城」だ、そんな夢想をしながら僕らは資料館を後にしたのでした。



まさむね



※直、このページの画像は「ビートルズ資料館」より拝借しております。



THE BEATLES 全曲レビュー



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2012年3月 3日 (土)

「魔法少女まどか☆マギカ」とジャイアント馬場と古今集と

ちょっと前の話であるが、今年の文化庁メディア芸術祭の内覧会において、あの富野由悠季監督が「なんで、まどか☆マギカが一番なんだ!」と、審査員の一人の氷川竜介氏に詰め寄ったという出来事があり、それを氷川氏がツイートしたことで、ちょっとした話題となった。



それに対して、オタキングこと岡田斗司夫氏は、ニコ生シンクタンク2月号で以下のような解説をされていた。



岡田氏によれば、そもそも、富野さんが自身の作品の中で描こうとしたキャラクタと、「まどか☆マギカ」の中で描かれているキャラとは違うものだという。

キャラクタとは、作品の中に置かれ、物語が進むに連れて、紆余曲折を経て、どんどん厚みが増すような性質を持っているが、キャラは、ある特定の属性を持って物語に配置されるが、その後、そうした厚み(成長)を増すようにはならないのである。

そして、それは多分に、視聴者の嗜好によるものだと岡田氏は話を進める。



「まどか☆マギカ」を好きな人はキャラが好きなのであって、キャラクタのように物語の中で成長してしまうと、純粋性が壊れてしまうように感じてしまうのではないかというのだ。



そして、彼らが見たいのものは、キャラ同士の決め台詞の応酬であってその中のニュアンスというのは僕達が受け取るから、創り手はキャラ同士の応酬をやってくれたら、そこから行間を読むみたいにして自分達はセリフの間にあるものを受け取るからそれでいいんだという考え方であると推察する。

一方、それに対して富野さんがやろうとしたのは、一つのキャラが製作者に与えられた属性以外のものを身につけようとしている瞬間をみたいなものを出すことであり、それこそが、キャラクタに血肉を通わすということだったのではないのかというのだ。



さらに、岡田氏はこの違いを、時代の違いに求める。つまり、富野さんがロボットアニメを創作していた頃、アニメには、市民権がなかった。

そんな状況に対して、どうやったら、アニメが、文芸とか映画のような「本当の芸術」に追いつき、追い越すことが出来るのかというチャレンジをほとんど一人でやったのが富野さん、というのが岡田氏の富野さんに対する最大限の賛美である。



ただし、一方的に富野さんだけを持ち上げているわけではないのが岡田氏の面白いところである。

彼は、逆に、富野さんこそ、現在における作品と視聴者との関係性を理解できていないのではないかと、以下のようにまとめる。



現在のアニメとアニメ視聴者との関係性は、富野さんが思っているより、もうちょっとレベルが高くなっている。それは、見ている人間もクリエイトに参加しているからである。彼らは、「まどか☆マギカ」という作品よりも、「まどか☆マギカ」を見ながら、それをお互いネットで話し合ったりして自分達の中でまどかまどか像を作るということを含めての作品と考えている、つまり、作品がクラウド化している。ただし、それを、作品と考えるかどうかは別の話であるが...


さらに上記の発言に加えて、岡田氏は現代の視聴者の反成長の姿勢が、富野的ビルディングスロマンよりも、非成長的な「まどか☆マギカ」の方を好むのではないかというオタク論に話を進め、それはそれで誠に興味深いのであるが、これに関しては、このエントリーにおける本筋ではないので、また後日語ってみたいと思う。

以上、若干の補足と意訳をさせていただいたが、これが岡田氏の論旨である(正確にお知りになりたい方は、「ニコ生シンクタンク2月号」をご覧下さい。)。



さて、以下は僕の感想である。



これを聴いて、即、僕の頭に浮かんだのが、柄谷行人の「日本近代文学の起源」であった。

この本は1980年に出版された文芸評論である。

ここにおいて柄谷氏は、明治の近代化以降、「風景」「文学」「児童」「内面」といった概念が、この時期に自明なもの(起源を覆い隠すもの)として出来上がってきた人工物であり、決して自然なものではないという刺激的な論考をしている。

近年、東浩紀氏あたりも評価していたように記憶しているが、80年代初頭に文学部に在籍した者にとっては必読の書であった(、かも)。



何故、ここでこんな昔の本を持ち出してしまったのかといえば、僕は、この本を読んで以来、それまで、自然に感情移入していた映画や小説、そして当時最も入れ込んでいたプロレスといったものの見方が変ってしまったからであり、それはとりもなおさず、岡田氏が言うところの厚み思想、あるいは深み思想に対して、僕が、違和感を感じるようになった当時(80年代前半)のことを今、思い出してしまったからである。



以下、判りやすい例なのでプロレスについて語ってみたいと思う。



70年代後半~80年代前半のプロレスシーン(論壇)は、ほとんど猪木一色であった。猪木のプロレスというものは、当時、その思想的イデオローグであった村松友視氏が名著「私、プロレスの味方です」の中で書いているように、「暗黙の了解が壊れる瞬間があると信じるロマンの目」によって成り立つようないわゆる「過激なプロレス」であった。

それは、先の岡田氏の文脈で言えば、まさに「一つのキャラが製作者に与えられた属性以外のものを身につけようとしている瞬間」を描き出そうとするプロレスだったのである。

当時の猪木は、モハメッド・アリ、ザ・モンスターマン、ウィリーウィリアムス、といった格闘家と闘う一方で、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、ローランド・ボック、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガンなどといった一流のレスラーと対戦するごとに成長し、苦悩し、時に英雄となり、一転、ヒールとなる、また同時に、プロレスというジャンル自身をも進化させていったのだ。あの時代、猪木は、まさに、最強にスリリングな存在だったのである。

おそらく、岡田氏が言うように、富野さんが、本当の文化に対するコンプレックスに対抗するために、アニメをキャラクター化するという独自の手法をあみだしたと全くパラレルに、猪木は柔道や空手といった本物の格闘技や、従来のプロレス(プロレス内プロレス)に対するコンプレックスを異種格闘技戦、あるいは、過激なプロレス発明することによって乗り越えようとしていったのではないか。

ちなみに、そんな猪木の全盛時代と、富野さんによる初代ガンダムシリーズが放映され、ブームとなっていた時期とが重なるというのは示唆的である。



しかし、僕は、「日本近代文学の起源」に衝撃を受けて以来、そんな猪木の勇姿が、不自然さに満ちたものに感じられ、逆に、多くのプロレスファンにウソ臭いと言われていたジャイアント・馬場に対してこそ、シンパシーを感じるようになってしまったのである。

そして、それを今、振り返ってみて、富野的教養主義と「まどか☆マギカ」の対比でいうならば、まさに、猪木的なキャラクター(プロレス)よりも、馬場さん的なキャラ(プロレス)に愛着を感じるようになっていた、ということなのだと思う。



確かに、猪木による、常に進化し続ける過激なプロレスに対して、馬場の世界(全日本プロレス)は、それこそ、ブッチャー、シークといった悪玉やファンク兄弟やミル・マスカラスという善玉を配した、安定したキャラプロレスが繰り広げられていた。

そのリングには、それぞれのレスラーがキャラを演じることだけを求められた牧歌的な世界があったのである。

そして、僕には、その世界が、ちょうど明治以降の近代的的制度によって過去へ追いやられてしまっていた江戸文化の香りにも通じるものとして感じられていたのだ。



例えば、ブッチャーやシークといった悪役に痛めつけられる鶴田を見るに見かねてリングに飛び込む馬場さんの姿は、まるで歌舞伎十八番の一つ『暫』における市川團十郎演じる鎌倉権五郎景政の登場のようであった。そこにあったのは、まさに、「決まりきったキャラ同士の台詞の応酬」(岡田氏)を見せてくれれば、それで観客が満足する世界である。



しかし、実はそれだけではない。そこには観る人にしか観られない、「通」それぞれの(勝手な)見識があったのである。

勿論、当時はネットなどは無いのではっきりは証明しようもないが、観客は一人一人、いつも決まりきった馬場さんの風体や仕草を、それぞれに無意識的にでも解釈していたのだと思う。ある者はそこに、高度経済成長の夢を投影し、別の者は、戦前の日本兵の朴訥な精神を見る。また、ある者は、田舎に残した祖父の背中の曲がった労務風景を思い浮かべて涙したり、別の者は、そこに七福神的な異形による来訪姿を見たかもしれない。



僕は、個人的には「馬場さんの居るリングは、ニュートン力学の物理法則をも超越している、何故なら、ブッチャーはわざわざ、馬場さんの振り上げた足に吸い込まれ、十六文キックを受け、さらに加速度をつけてリングに落ちて行くではないか。」などとつぶやいていたものである。



そう考えると、僕が、この歳になっても未だに「まどか☆マギカ」のようなアニメに対して興味を抱き続けてしまうのも、そして、家紋のような歴史に埋もれた意匠に対しても過剰な意味付けをして楽しんでしまうのも、その根源には馬場さん的なものへの愛情があるのではないかと考える次第である。



さて、話を「まどか☆マギカ」に戻す。



このブログを続けて読んでいただいている方にはお分かりとは思うが、僕はこのアニメで最も気になっている登場人物は、美樹さやかである(ご興味があれば「魔女になったSAYAKAの武器はなぜ、車輪なのか」「「魔法少女まどか☆マギカ」を信じるファンであるならば、誰しもが「美樹さやか -恋愛成就- 御守り」こそ身につけるべきである。」など参照下さい。)。彼女はその運命に従って、魔法少女となり、失恋し、闘いにくたびれ果てて、魔女になり、しかし、最後にはまどかによって救済されるという、このアニメの中では突出して痛々しいキャラである。



しかし、その最後の去り際が素晴らしいので、そのことを、ここに記しておきたいと思う。



最終回、まどかと二人で、片思いの上條君という少年(さやかの願いによって手が治る)の演奏を見ている。

既に死んでいるさやかには、上條君を眺めることしか出来ないのだ。

彼女は静かに、上條君への想いを諦め、その場から消える。

上條君は、その演奏を終えて、一息をつく。

その瞬間に、一陣の風が吹き、彼は、フッと何かに気づく。 そして、彼は口の中で「さやか」とつぶやくのだ。

これは明らかに、「秋きぬと 目には『さやか』に 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」 という藤原敏行の和歌(古今集に収録)の、和歌からアニメへの擬似的本歌取りかと思われる。

このような演出にこそ、近代以前の日本文化をさりげなく踏襲する「まどか☆マギカ」的な意味での奥深さを垣間見ることが出来る。ただし、それは、決して近代以降の日本文学が価値を置くような(「こころ」の先生や「路傍の石」の吾一が持つような)意味での奥深さではないのである。



もしかしたら、「まどか☆マギカ」の前に置くべきなのは、エヴァやガンダムではなく、ジャイアント馬場であり、世阿弥の能「葵上」であり、「古事記」や「古今集」であり、あるいは近松門左衛門の心中物なのかもしれない。



しかし、最後に言いたいことは、僕は、いくら猪木的キャラクターよりも、馬場さんのキャラの方が好みだとしても、あるいは、「成長」という概念も、近代以降、人工的に産み出されたものであるといった柄谷氏の批評に感銘を受けていたとしても、猪木的な、そして、おそらく富野(ガンダム)的な、自身の作品(闘い)が進化していくことが同時に、そのジャンルが進化し、さらにいえば、それが生み出された時代と連動しているのだという実感されうるような幸福な関係を築き上げた偉大なクリエイターのエネルギーに対しては惜しげもなく、天才という言葉をささげたいと思う。



まさむね



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