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2012年3月23日 (金)

「俺たちに翼はない」は単なる美少女アニメではなかった!

70年代末、東横線・自由が丘駅前の映画館には、「地主のヒヒじじいが、借金を返せなくなった小作人の娘を陵辱する」というようなモチーフの成人映画が、いつもかかっていた。あるいは、日常とはかけ離れたアーティスティックなエッチシーンにお目にかかることもあった。暇な大学生だった僕らはそんな映画館に、よく足を運んでいた。



おそらく、当時の映画監督達は、限られた表現手段の中で、心の中にくすぶる反体制、反封建主義、シュールレアリズム、ダダイズムといった思想を作品に込めていたのであろう。

それらの映画は、表面的にはピンク映画であったが、実は、思想・芸術映画もであったのだ。

全共闘世代の残滓のような熱が、それらの「消耗品フィルム」をギリギリのところで作品に仕上げていた。僕らは、エッチシーンを観ると同時に、そんな徳俵一枚残ったこだわりの表現に触れていたのだと思う。30年経った今でも、僕の頭にあの頃の「自由が丘劇場」が思い出されるのは、そのためである。

いい悪いは別にして、僕にとって自由が丘とは、今でも、オシャレな街なのでは断じて無く、時代遅れの熱に触れた、あの記憶の中の場所である。



さて、僕が冒頭のような話を書いたのは、先日「俺たちに翼はない」というアニメを観たからである。

このアニメは元々は、恋愛アドベンチャーゲーム(18禁)だったものをアニメ化したもので、ゲームをしていない視聴者(それに加えて、アニメ慣れしていない視聴者)にとっては、次から次へと登場する美少女達の名前とキャラを識別していくだけでも難儀で、しかもパンチラ以上、乳首出し未満のエロチックなシーンが、これでもかこれでもかと続出するものだから、いわゆるその道のオタク以外にはハードルの高いアニメとして、多くの善男善女を「3話切り」させたという伝説のアニメである。



実は、僕も最初のうちは訳がわからなかった。誰が主人公なのかすら理解不能だったのである。しかし、3話を乗り切り、4話、5話、6話と観進んでいくにつれ、このアニメの奥底に潜む、陰鬱なるモノに気付くようになる。実は、何人も出てきた男子達とは多重人格障害である一人の男の子・羽田鷹志(はねだようじ:以下、ヨウジと略す)が生み出した複数の人格だったのである。

そして、それらの男の子は場所と時間を棲み分けて存在しているのだ。以下、簡単に整理してみる。

羽田鷹志(はねだ たかし)・・・無気力で、押しが弱い高校生。昼間、学校に登場。

千歳鷲介(ちとせ しゅうすけ)・・・明るく社交的。夕方~夜のレストランでアルバイト。

成田隼人(なりた はやと)・・・交友関係が広く、喧嘩が強い。深夜のストリートを徘徊。

伊丹伽楼羅(いたみかるら)・・・鷹志の妄想世界の国王。現実離れしている。


そして、それぞれの男の子(伽楼羅以外)の周りには、それぞれの時間と場所に合った、美少女達が大量に登場していくるのである。つまり、いうなれば、様々なタイプの美少女達を登場させるために、このアニメ(元はゲーム)では主人公の多重人格障害という精神疾患を活用するという構造になっているのだ。

例えば、「Steins;Gate」におけるタイムリープ、「魔法少女まどか☆マギカ」における魔法、「千と千尋の神隠し」における異界、「怪-ayakashi-化猫」における物の怪といった具合に、アニメをアニメたらせるためには、いわゆる架空の設定を物語に取り込むことは常道であるが、この「俺たちに翼はない」では、現実に存在する病理を設定として使用しているのだ。ファンタジー表現化しているとはいえ、まさに冒険である。これには驚かされた。おそらく、エンターテイメントとしてはギリギリの判断だったのではないかと想像される。



しかし、このように、いわゆる「一歩踏み込んだ」設定を決断したがゆえに、このアニメは、美少女アニメという表面的なエロスと華やかさとは裏腹の、シュールな陰鬱さを内包することになる。僕は、そんな設定に、あの自由が丘のピンク映画で感じたのと同質の熱を感じるのである。



思えば、このアニメは、その冒頭から、何もない場所(ならくの底)で一人アナログテレビを見る少年の後姿が何度も映されていたが、実は、この孤独な少年こそ、多重人格障害のヨウジだったのである。

そして、少年は、カチャカチャとチャンネルを合わせて、ブラウン管に映し出される三人の別人格と周囲の美少女によって織り成される日々の生活をただ観るだけの存在である。

ヨウジにとっては、実は自分自身の事であるにもかかわらず、鷹志、鷲介、隼人が経験する現実の街場における苦労、努力、葛藤といったものは他人事にすぎない。それゆえに、そこで得られる成功も失敗も、大した問題とは認識されていない。ただ、それぞれのキャラがその属性の通りに動いているだけに見えているのである。

また、その一方で、美少女達のエロティックな肢体を堪能している。しかも、彼は、そのような境遇を、(自覚的には)幼い頃に犯した罪に対する罰として認識してはいるものの、(無意識的には、)そこに居心地の良さすら感じているのではないだろうか。



僕は、このようなヨウジ(=幼児)の惨めな後ろ姿を繰り返す流すこのアニメに、かなりオブラードには包んではいるが美少女アニメに耽溺するオタクを冷たく客観視しようとする意志のようなものを感じるのだ。特に使用しているテレビがチャンネル回転式の旧式のアナログテレビであるとことに、この少年の姿が、実は、現在の中高年の少年期を思い出させるような設定となっているところにも注目してしまう。

それはまるで、あの『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版「Air/まごころを、君に」』において庵野秀明監督が、彼らを実際の画面に映し出すことによって、提示したオタクに対する揶揄を髣髴させる。

実際、この「俺たちに翼はない」の最終話は、まるでエヴァのオマージュとでも言いうるような表現が見られるではないか。

例えば、ヨウジが多重人格障害に陥った原因を、おそらく、ヨウジ自身が書いた母親の似顔絵の連続絵で表現する。

また、ヨウジの母親は、いとこの羽田小鳩(はねだこばと)と仲良くしなさいという一方で、機嫌の悪いときにはヨウジと小鳩との関係に、自分の旦那と浮気相手との関係を投影して、小鳩に辛くあたる。つまり、ヨウジの多重人格障害は母親から受けた単なる仕打ちではなく、ダブルバインド的態度によって、引き起こされたのだということがほのめかされるのであるが、これは、「エヴァ」においてシンジの苦悩の根本原因が幼児期のネグレクトにあったということを描いた、あのエグい表現を思い出させるのである。



つまり、このアニメは、90%は、オタクの欲求に忠実であろうとする典型的な美少女アニメでありながら、残りの10%で、そこからはみ出ようとするエヴァ的な挑戦が見られるのである。そこが、「俺たちに翼はない」を最もスリリングにしている点である。



もっとも、このアニメの最終回は、「エヴァ」のような破滅的展開を周到に避ける。

それはおそらく、エンターテイメントとしての礼儀のようなものであろう。

小鳩と一緒に、子供の頃の記憶を辿る旅をするヨウジは、自分の多重人格障害の原因を、母殺しにあるということを「直視」し、しかし、実際の母の死は自殺であったことを知り、最終的には、自分が犯した行為は小鳩を助けるためだったという理由で、自分自身を免罪し、人格統合を決意する。そして、終には、ならくの底のテレビを消して、街場に復帰していくのだ。

そして、画面は第一話の冒頭と同じ平和な通学シーンが繰り返される。つまり、平穏な日常が取り戻されたところで、ハッピーエンドとなって話を終えるのである。さらに、一つ前のシーンではあるが「僕らには翼はないことはないらしいぞ」などという表題とは逆の幸福に満ち溢れたナレーションまで加えるという念の入れようである。

勿論、このような最終話を、偽善的だとか、安易だとか、キレイ過ぎるなどと批判することは可能かもしれないが、おそらくそこを攻めるのは酷に違いない。むしろ、多重人格障害を物語的仕掛けに使ったことの落とし前としては、地味なセリフとしてだが、これからも治療は続くと言及させたところに良識は感じるし、その点、リアルではなくとも、リアリティは保持していると評価すべきではないだろうか。



さて、一般的に言えば、アニメ業界では(これはゲーム業界やアイドル業界等にもいえることだが)、その表現がハイコンテクスト化し、ユーザーの嗜好に合わせてどんどんと先鋭化していくことによって、市場自体が先細りしていくことが懸念されている。



しかし、「俺たちに翼はない」のように、ユーザーの嗜好の範囲内でも、もがくようにして表現の可能性を広げていこうとするような作品に出会うと、その目はまだ死んでいないに違いないと、かつてのピンク映画、あるいはロマンポルノが、若松孝二、滝田洋二郎、黒沢清、周防正行、相米慎二といった次代を担う才能を多数生み出したのと同じような期待を、僕はしてみたいのである。



さて、最後に、そういった作者の意欲を想像させる印象的なシーンを一つあげてみよう。それは、第11話。物語のヒロインの一人、玉泉日和子(たまいずみひよこ)はデビュー作「ほほえみインサイド」というラブストーリーで大ヒットをするが、二作目の「米寿」という老人を主人公にした地味な小説の不評に悩むというシーンである。ここで彼女は「本当に書きたい作品」を書こうとする表現者と「客に媚びる商品」を書かなければならないプロフェッショナルの狭間で苦悩するのであるが、最終的には、鷲介の助言によって、より多くの人に対して、とにかく作品を読んでもらって判断してもらおうという結論に達するのだ。

おそらく、その姿は、現状の美少女アニメ業界において作者達が置かれている厳しい境遇と、多かれ少なかれシンクロしていることが読み取れる、いや、多分、そのように読み取らせるように描かれているのではないかと思うのである。



まさむね



この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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