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2012年3月14日 (水)

「Steins;Gate」 大学一年生の夏の秋葉原の物語

思い返せば、人生のうちで最も好きなことが出来た時期というのが、大学一年生の夏休みという人は多いのではないだろうか。



そんな人生のエアポケットのような「あの暑い夏」に、秋葉原という東京でも特にユニークな街にたたずんで、思わず妄想にふけってみる。

そんな至福な時間の一瞬の妄想をアニメにしたかのような作品が、この「Steins;Gate(シュタインズゲート)」である。



実は、僕がこの秋葉原を最もユニークな街と書いたのには理由がある。そこは、元々何も無い土地だったがゆえに、つまり、土地の記憶(霊)が全く無かったがゆえに、逆に何にでもなれるような場所だったのである。

ご存知の方も多いかと思うが、秋葉原は、江戸時代、火除地であった。火除地というのは、その時代に火事の類焼を防ぐために、敢えて空き地にした場所のことである。

一説によれば、アキバとは、そこが、「空き場」だったがゆえに付けられた名前とも言われているのである。



それが明治以降、貨物集積所、青果市場、闇市、電気街、パソコン街、そして萌え文化の中心地というように、秋葉原は、その時代時代に合わせて、顔を変えてきた。元々、何でも無かったがゆえに、何にでもなれる場所、それが秋葉原なのである。

そう言えば、この「Steins;Gate」の中にも、秋葉原が萌えの街となったのは、偶然であったかのようなエピソードが出てくるし、あるいは、柳林神社という産土社も出てくるが、そこにおわす狛犬の形状から、その神社が戦後に建て直された神社(=新しく神を宿らせた場所)に違いないということを類推させるのであった。



ちなみに、江戸の火除地だった場所として秋葉原と並んで有名なのが、九段下である。

そう、靖国神社のある場所だ。ここも秋葉原同様に、元々何でも無い場所であったが、明治以降に天皇のために死んだ兵士を顕彰する聖なる場所としての新たなる意味が付加された。そして、それ以降、秋葉原とは対照的に、ある一つの固定的な意味を担った場所として現在も続いている。

秋葉原と靖国神社、この二つの火除地(=空き場)は、何の因果か、日本で最も変化する街と、日本で最も変化しづらい神社に、あるいは、日本の首相が真っ先に街頭演説をしたがる場所と、日本の首相が足を踏み入れることの出来ない場所、さらに言えば、日本で最も軟弱な文化の街と、日本で最も硬派な神社、というような対照的な場所になっているというのは、ある意味で興味深い。



さて、話を戻そう。

つまり、僕が言いたかったのは、秋葉原という、元々何でも無かった場所(つまり、それが故に何にでもなれる空間)と、人生において、最も何者でもない大学一年の夏休み(つまり、何にでもなれると妄想出来るような時間)がクロスした時空間を舞台にした物語だからこそ、この「Steins;Gate」は、生々しくも僕らの快感を刺激し、想像力を喚起させるのだ、というようなことである。



例えば、この物語の登場人物達(ラボメン)は、秋葉原の裏路地の雑居ビルの二階の一室(未来ガジェット研究所)に居場所を求めてやって来ては、そこで、ダラダラとした時間を過ごしながら好き勝手なことをしている。そこは資本主義的な労働や会社的な組織、経済合理的な動機とは無縁で自由な時空間...



つまり、未来ガジェット研究所こそは、大学一年の夏という時間と秋葉原という空間が生み出したユートピアなのである。



おそらく、多くの視聴者にとって、このアニメの魅力は、登場人物達が巻き込まれていく壮大なSF的戦闘や、それを構成するための緻密なストーリー以上に、むしろ、外から隔絶されたダラダラとしたユートピア的日常を擬似的に共有出来る、その居心地の良さの方にあるのだ。その意味で言えば、この「Steins;Gate」は「ハルヒ」や「けいおん」と同じような日常系アニメの系列にある作品である。



また、さらに加えるならば、このアニメを特徴づける世界線を巡る激しいストーリー展開は、逆に、その時空間(未来ガジェット研究所)の居心地の良さを際立たせるためのネタに過ぎないとすら思われるのである。



それに加えて、僕がこのアニメに大変、興味を抱くのは、主人公・岡部倫太郎(通称・オカリン)が、実は、人類の未来に関わるような死闘を行っているにも関わらず、その舞台となる秋葉原の街は、ほとんど、その闘いとは無関係に、日常を保っているというようなところである。

おそらく、同じくサイバー的な意匠を身にまといながら、現実世界の人々を巻き込んで展開する「東のエデン」や「サマーウォーズ」といったアニメに対して、この「Steins;Gate」が特徴的なのは、ここで行われている闘いが、リアル世界とは、ほぼ無関係に展開しているという点ではないだろうか。



勿論、こうした設定は、話の筋書上から言うならば、オカリンの闘いは、彼にしか理解出来ない次元のものであるから、ということなのであるが、僕には、「Steins;Gate」が選択した、この設定は、むしろ、外部に無視されるということが、閉じられた組織にとっては、ある種の恍惚感をもたらすという原則に通じているように思えるのだ。



またその恍惚感は、おそらく、オタクが、その趣味を、一方で、一般の人々に理解されたいと思う反面、他方では、外部の人から無視される(あるいは蔑まれる)ことによってこそ、快感を感じてしまうという、あの二面性ともパラレルであるし、さらに言えば、ある種のカルト宗教的な恍惚にも通じているのではないだろうか。



そして、最後に付け加えるならば、こうしたねじれた快楽が表現されるのに最も相応しい舞台こそ、秋葉原をおいて他には無いようにも思えるのである...ということを書く僕の頭の中には、なんとなく、未来がジェット研究所とあのマハポーシャがダブるのであった。



まさむね



この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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