「Fate/Zero」の第一期はまるで世界最強タッグ開幕セレモニーだ!
『Fate/Zero』の第一期(全13話)を観た。
この作品は、『Fate/stay night』という既存作品のスピンオフ作品で、著者はニトロプラス所属の脚本家・虚淵玄氏である。ご存知の方も多いかと思うが彼は「魔法少女まどか☆マギカ」の脚本も担当している。
本来だったら、スピンオフ作品ということならば『Fate/stay night』の方から観るのが本道なのだろうが、ネット上の評判ではこの『Fate/Zero』の方が出来がいいとの意見も、多数、見られたため、こちらから鑑賞することにした。
結果としては、その選択は間違いなかったと思う。
難易度の高い箇所がなかったこともないが、それも、最後まで完観すれば、ほぼ、理解できるに違いない。そして、その後に、ゆっくりと『Fate/stay night』を観ればいい。『Fate/Zero』は『Fate/stay night』よりも10年前の話だという。ということは、時系列的に言えば、それはそれで正しい見方ではなかっただろうかと思った。
さて、内容に関してであるが、正直この第一期は4月から放送が始まった第二期の"壮大な予告編"といったところである。しかし、それは極上の予告編であった。世界観は開示され、おそらく、メインパーソナリティは出揃い、僕の期待をこれ以上にないほどに高まらせてくれたからである。
ごくごく簡単に言ってしまえば、この『Fate/Zero』は、「いかなる奇跡でも叶えるという『聖杯』を求めて、7人のマスター(魔術師)とサーヴァント(英霊)がタッグを組んで死闘を繰り広げる」物語である。
この物語が面白いのは、その7人のマスターの思惑と、それぞれに従うサーヴァントの戦闘目的が異なっているところ、そしてそれに加えて、それぞれの"タッグチーム"の相性の良し悪しがあったり、モチベーションに落差があったりするところである。さらに、興味深いのは、サーヴァントというのが、古代以来、語り継がれてきた伝説を元にした英雄達が転生した姿であるがゆえに、それぞれが過去の物語の因縁に囚われているというところだ。
つまり、サーヴァントの中には、たんにマスターの従者として敵を倒して『聖杯』を手にするために合理的に動くのではなく、この戦いを過去の自分の因縁を克服する"リベンジ"の機会として捉えている者が何人も存在するという設定が面白いのである。
この世界(現界)になんらかの未練を残したモノが、よみがえり、その怨念を克服することによって異界へと去っていくという物語は、世阿弥の夢幻能の構造とほぼ等しい。異なるのは、能においては、僧侶が怨霊の話を傾聴し理解することによって成仏されるのを典型とする、静かな芝居であるのに対して、この『Fate/Zero』では、この世(伝説の中)になんらかの悔恨を残した勇者達は闘争を通して、その過去を克服していこうとする点である。
しかし、この物語では、その構造(の核の一部)を、能という日本の古典芸能と同型にすることによって、日本人にとって、かなり座りのいい作品に仕上げているなぁというのが僕の印象である。それは、同じ虚淵玄氏の作品「魔法少女まどか☆マギカ」において、「絶望(穢れ)がある臨界点を超えると、魔法少女は魔女に変身してしまい、もう元に戻れないどころか、人格を失って、社会に厄災をもたらす」という設定が、「激しい怨念を残して亡くなった人々は、現世にとどまり、様々な不幸をもたらす」という日本古来の怨霊思想と通底しているように見えるのとアナロジカルな話である。
ここで、話を整理するために、7つの陣営について表にしてみたいと思う。このエントリーを理解していただくための表なので、本当はずっと複雑な人間模様、令呪や宝具、魔術家系といったギミックがあるのところを、ネグってかなり簡略化していること、ご了解下さい。
マスター | マスターの目的 | サーヴァント | サーヴァントの真名 | サーヴァントの目的 | 二人の相性 |
衛宮切嗣 | 世界平和を実現したい | セイバー | アーサー・ペンドラゴン | 故国の復活させたい | 悪い |
遠坂時臣 | 根源に至りたい | アーチャー | ギルガメッシュ | 当然「聖杯」は自分のもの! | 微妙 |
言峰綺礼 | 時臣の補佐だが内心、不明確 | アサシン | ハサン・サッバーハ | (不明) | 良好 |
ウェイバー | 周囲を見返したい | ライダー | イスカンダル | 現世の人間として受肉したい | なんだかんだ良好 |
ケイネス | 経歴に箔をつけたい | ランサー | ディルムッド・オディナ | 騎士として忠誠を貫きたい | 波乱含み |
間桐雁夜 | 時臣の娘を救いたい | バーサーカー | (不明) | (不明) | (不明) |
雨生龍之介 | 殺人を楽しみたい | キャスター | 青髭 | 背徳を極めたい | 超良好 |
この表を見ていただくと、それぞれの陣営の目的の"正しさ"とマスターとサーヴァントの相性とが"反比例"していることが一目瞭然でお分かりいただけるかと思う。


また、後述するが、ケイネス=ランサー組には、ランサーの因縁とケイネスの妻という存在をはさむと波乱を含んで見えるし、時臣=アーチャー組は個々の実力は申し分ないがそれぞれまるで別の方向を向いている。時臣の願望は魔術師としての最高の場所(世界の外)に出ることなのに対して、アーチャーは、俗世界での栄華を極めることにこそ価値を置くからである。
さらに、動機だけ見れば、感情移入しやすいのは、雁夜だと思われるが、ペアであるサーヴァント(黒い騎士)は逆に感情移入を拒む、よくわからない存在である。このあたりのアンバランスが面白いところだ。
もっとも、視聴者にとって一番、親しみが沸くのはウェイバー=ライダー組に違いない。この組が面白いのは、マスターであるウェイバーが、最初は絵に描いたような未熟者なのだが、ライダーの大きな器に触れることによって徐々に成長するのと平行して、ライダーも、ウェイバーのことを理解しだすという、二人の友情関係に前向きの進展が見られるところである。
さて、先ほど、僕は、サーヴァントが持つ因縁について少し語ったが、一つ例を上げて説明してみたいと思う。


ケイネスは、魔術の名門アーチボルト家の嫡男として生まれた天才・魔術師である。彼からしてみれば、サーヴァントのランサーはただの「戦闘機械」であればいい存在だ。しかし、一方のランサーの真名はディルムッド・オディナという騎士である。勝負に勝ち、主君に忠誠を示すことも重要であるが、「サーヴァントである以前に一人の騎士なのです。」と述べているように、正々堂々と勝負をするということに価値を置かざるをえない存在、それが彼の因縁なのである。
ちなみに、ディルムッド・オディナとは、ケルト神話に登場する戦士であり、知らず知らずのうちに女性を虜にしてしまう魔性のホクロを持っているがゆえに、主君の妻と不義を犯し主君を裏切ってしまったと言われている。それゆえに、今回の聖杯戦争では、何としても、そういった自分のおぞましい過去を克服したいと考えている。実は、ランサーにとって重要なのは、「聖杯」を手に入れること自体ではなく、その過程をどのように生きるのか?という美学なのである。
しかし、マスターのケイネスは、そんなランサーの過去の因縁を薄々気付いている。それがゆえに、妻を間に挟んだ関係においてランサーは気を許すことが出来ないのだ。
第一期では、セイバーとの戦闘に名勝負を魅せてくれたランサーだが、第二期では、その戦いの行方と同時に、彼が持つ宿命的悲劇性が、どのように物語を彩っていくのかが楽しみである。


アーサーは、伝説の王としてブリテンに君臨するが、その死後、国はアングロサクソンに征服されてしまう。また、イスカンダルは一時はマケドニアからペルシャに渡る大帝国を築き上げるが、30代そこそこの若さで亡くなってしまい、オケアノス(地の果ての海)を見ることはかなわぬ夢となってしまった。
そして、それぞれ二人の願いは、この聖杯戦争に託される。アーサーは「聖杯」による奇跡で故国ブリテンの復活を願い、イスカンダルは、夭折によって絶たれたオケアノスへ向けて征服への旅を続けるために受肉したい(生身の人間になりたい)と願うのである。
このような彼らの願いを目の当たりにすると、もしかしたら、人は何度生まれ変わっても、前世と同じような生き方でしか生きられないのではないか?という気になってくる。それは親鸞がいうところの"業"にも通じる、なんてことをちょっと考えてしまった。
そういえば、『Fate/Zero』の中には興味深いシーンがあった。


アーチャーは、ほとんど発言はしないが、王とは法による統治をするものというようなことを仄めかす。
一方、セイバーは、王とは、正しい国を作るという理想に殉じるべき存在であると説く。
それに対して反論したのがライダーは、王とは人民が憧憬させ、導くべき存在になるべきではないのかと、セイバーを問い詰める。
ここでセイバーとライダーの価値観は対極を示すのだ。
言い換えれば、セイバーは「国とはこうあるべき」という理想を抱いた王が、それに基づいて統治するのがいい政治であるということを主張し、ライダーはミメーシスを起こしうるような魅力的な人間が、国王となり人民を引っ張っていくことによって、結果的に国がよくなるというよりも、人々は幸せになるという哲学でセイバーに反駁したのである。


ということは、結果的に言葉少なに「法」による統治を語ったアーチャーの治政論が有効なのだろうか...
おそらく、この結論(作者が選ぶ価値観)も、第二期で、それなりの形で示されるのではないかというのが僕は期待である。ワクワク。
最後に一言。多少、年代を感じさせる感想で恐縮であるが、かつての世界最強タッグリーグ戦の開幕セレモニーのリング上に出揃ったレスラー達(馬場、鶴田、天龍、ハンセン、ブロディー、テリー、ブッチャー、シン等)を目の前にした時の興奮がよみがえって来る。
まさむね
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