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2012年4月19日 (木)

「天空の城ラピュタ」 ムスカは何故、シータの心をつかめなかったのか

先日の「風の谷のナウシカ」に続き、今日は「天空の城ラピュタ」を観た。こちらも初めてである。



この作品も大抵の日本人は見ているような超有名なアニメであるということは知っていた。それを、今になって初めて観るのだから、僕もどうかしている。

僕は一体、今まで何をやってきたのだろうか、と思わざるを得ない。

おそらく、ほとんどのことは既に語りつくされているだろうとは思うが、それらは無視して、僕なりにこのアニメについて語ってみたいと思う。



あらすじや、登場人物の説明は省かせていただく。



このアニメは、最初から意味ありげなシーンによって始まる。

海賊(空賊?)の襲来を受ける直前の飛行船。部屋には浮かない顔をした少女(以下、シータと記す)が外を見ている。その少女がサングラスをかけた男から片手で食事を差し出され、それを黙って拒絶する。

そんなシーンである。



宮崎アニメにおいて食事というのは特別な意味を持っている。相手からもらった食べ物を食べるということは相手を受け入れたということであり、共に食事をした相手は決して(最終的には)敵とはならない。それは法則のようなものだ。

典型的な例は、「もののけ姫」におけるジコ坊とアシタカの関係である。物語の終盤、アシタカはジコ坊とは一騎打ちになるが、決して殺し合いにはならない。

それは、物語の前半で、二人は食事を共にしているから、というのが僕の説である。



話を「ラピュタ」に戻す。僕が勝手に考えた宮崎アニメにおける食事の法則が正しいのであれば、シータは、このサングラス組に対して、今後、共食しない限り、敵対し続けるに違いない。



さて物語が進み、場面は地上の世界。一人の少年(以下、パズーと記す)が肉団子スープを買い、それを持って帰る途中に、空から降りてくるシータを見つけ、抱きかかえようとする。

しかし、手に持った肉団子スープが邪魔なので、それを一旦、地面に置く。その後すぐに、親方から呼ばれて階下に降りる。シータは置いていくが、肉団子だけは持っていく。そして、その肉団子を、ちゃんと棚の上に置く。



これら一連の肉団子を丁寧に取り扱うパズーのシーンは重要だ。

というのも、先ほどのサングラスが片手でトレーをつかんでいるのに対して、パズーは食べ物を大事にする少年であるということを対比として示しているからだ。

これだけで、サングラスは「悪い奴」、少年は「いい奴」だということが直感的にわかるのである(少々強引かもしれないですが...)。



そして、その後、親方に頼まれて、エレベータの操作をするのだが、おそらくそれは、初めてパズーが任された(多分、憧れの)仕事だったのだろう。彼は本当に楽しそうにその仕事をすることでそれはわかる。

実は宮崎アニメでは、労働というのも食事と並んで大事なモチーフである。子供は仕事をまかされることによって大人になっていくというのは、「魔女の宅急便」のキキ、「千と千尋の神隠し」の千尋にも受け継がれているが、それは暗黙のうちに成長を表しているのである。



次の日の朝、シータはパズーの部屋で目覚める。パズーの吹くトランペットの音で目を覚ます。

二人は屋根の上で鳩に餌を与える。ここで食べ物と鳩を介して、パズーとシータは明らかに、信頼関係を築く。

それは、その直後、シータは親から誰にも見せてはいけないと言われていた飛行石の首飾り(しかも、サングラス、海賊にあれほど狙われていた家宝なのに)を、なんの躊躇も無くパズーに手渡すことでもわかる。



次に出てくる食事のシーンは、二人が海賊と軍隊の追跡から逃れて、地底で二人で朝食を取る場面である。

目玉焼きを半分づつ乗せた食パンを、同じ食べ方で食べる二人。そして1つのリンゴを二つに割って食べる二人。この共食によって二人は完全に結ばれるのだ、多分。



いくつかの場面は飛ばして、場所は城の中。つかまったシータが一人部屋に隔離されている。

そこに先ほどのサングラス組の親玉であるムスカ大佐が部屋にやってくるが、シータはムスカからのプレゼントのドレスや豪華なベッドを拒絶して一人窓の側で丸くなって寝ている。

彼女の行動は徹底している。シータにとって、そういった豪奢なモノは全く意味をなさないのだ。



農村で育った彼女は、日々、農作業をして暮していた。彼女にとって重要なのは自分で働いて、自分で食べることなのである。おそらく、ヤクを飼っているということで、彼女が住んでいる村が決して気候温暖な土地ではないことがわかる。かなり、厳しい生活をしてきているに違いない。

そういえば、画面は戻るが、海賊から逃げている途中、パズーが一旦、シータに蒸気機関車に石炭をくべさせるシーンがあった。

一段落した後、パズーは「僕がやる!」と言うのだが、シータは「いいの、やらせて!」と答えている。このシーンも先ほどのパズーのエレベータ上げと同様、仕事に対する積極的な姿勢が見られる。また、一緒に働くことによって二人のキズナは益々強くなっていることがほのめかされる。と同時に、先ほど触れたパンとリンゴの朝食はこの労働があったからこそ、シータはいただけるのである。



結果論ではあるが、城の中で、ムスカはシータに対して、なにか、肉体労働をさせ、その後、一緒に食事をするべきだったのではないだろうか。ところが、逆に、豪華なモノを与えて心を惹こうとしてしまった。ここに彼の失敗があったと僕は思う。



さて、次に出てくる食事シーンはパズーの家での、海賊達による豪快な酒盛りシーンである。

ここで、ドーラ(海賊一家の母親)の下品で豪快な食事は、それだけで彼女が実は悪い人々ではなかったことを表現されているのだ。

そして、彼女達はパズーをつれて、再度、飛行石奪取に挑もうと、その場所を後にする。

ただし、パズーが海賊と共闘したにもかかわらず、この場面に彼らとの共食シーンがないのは、表面的には、話の流れ上、すぐに出発しなければならないということではあるが、僕はその根底には、パズーがこの食物をいただくだけの労働をまだしていないという事実も抑えておくべきだと考えている。



その後、城からシータを奪還したパズーとドーラ一家は自家製飛行船で、軍隊のゴリアテ(飛行戦艦)を追跡する。

そして、ここからしばらく、飛行船の中のドーラ一家とシータ、パズーとの共働、共食の時間が丁寧に描かれる。この過程を通して、海賊は完全に仲間になったことが表現されるのである。

さて、ここで一つ気になることを記しておきたい。実は、ラピュタというのは、スペイン語で(Laputa)、売春婦という意味だそうだ。それがゆえに、アメリカで公開されたときには、タイトルを変更せざるを得なかったということがWikipediaに書いてあった。

ラピュタという名前は『ガリバー旅行記』に出てくる飛行島の名前から引用されたというのが定説であるが、実は隠れダブルミーニングだったというわけである。

宮崎アニメにおける売春婦といえば、「千と千尋の神隠し」の湯屋=売春宿説が有名であるが、このシーンでもシータが食事を作っている所に、次々と男達がやってくる。これは、いわゆる「飯炊き女[1]」と客との関係を髣髴させる。

そういえば、あの古谷経衡氏もニコニコアニメ夜話第2回放送『天空の城ラピュタ』において、この「天空の城ラピュタ」は宮崎アニメには珍しくエロチックであるという指摘をされていたが、たしかに、シータとパズーは必要以上にスキンシップが多いようにも思える。

もしかしたら、ラピュタ=売春婦説というのは、宮崎駿一流の隠れギミックなのかもしれない。



さて、物語はここから、一気に、舞台を天空の城ラピュタに移す。

ここは、すでに700年前に住人が死に絶え(一部は地上に逃れ)た場所であるという。それにしても、このあたりの描写は本当に美しい。

たった一台、残されたロボットが無機的に動いているだけで、あとは小動物と植物に覆われている飛行島・ラピュタ。それはまるでカンボジアやインドネシアの奥地の遺跡のようだ。



しかし、ここは美しいことは確かであるが、何かが足りない。

そうだ。ここには、このアニメの前半に宮崎駿があれほどこだわって描き続けてきた労働が、そしておそらく食べ物も存在しないのである。

兵隊達はただ、金銀財宝を略奪し、ムスカは、ラピュタ人達が残した超文明に酔いしれる。



しかし、ここはシータにとっては、居続けられるような場所ではなかった。ムスカに一緒にここに住もうと勧められる(つまり求婚される)のであるが、彼女の心は全く動かなかった。

ここには労働の必要が存在しない、つまり、彼女の存在意義が全く見出せない場所だからである。

それゆえに、彼女は、滅びの呪文を唱えてラピュタの機能を再び閉ざしてしまうのだ。この呪文こそが、あの有名な国民的呪文「パルス!」である。

もしかしたら、このアニメにおける最大の疑問、何故、天空の城ラピュタは滅びたのか?の答えは、人々は労働を忘れたからということかもしれない。それが宮崎さんの答えではないかと僕は思う。



その結果、ラピュタ上の文明的部分は全て崩壊し、天空に浮かぶ大きな樹木としてだけ漂うような存在になる。ムスカや兵隊達は死に、シータとパズーとドーラ一家だけが助かる。

つまり、労働を共にし、共に食事をした者達だけが生き残るということである。



最後に、シータはムスカに言った言葉を引用してこのエントリーを終わりにしたいと思う。

どんなに恐ろしい武器を持っても、沢山のカワイそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ。


この土というのは、自然という意味でもあるが、僕は、地に足をつけて生きること、つまり、労働をしてそこから得たものを食べるという人間の基本的な営みのことを言っているようにも思える。

それは、働いてもいないのに、ただ与えられる食事を拒否した、このアニメ冒頭のシータの精神とつながっているからである。



まさむね



[1] 飯炊き女とは、江戸時代、大坂の曽根崎新地などの泊まり茶屋で、酒食の給仕をするとともに遊女を兼ねた女のこと。kotobankより。



この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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