2012年に観るとどことなく切ない「耳をすませば」
1995年公開のジブリ作品「耳をすませば」を観た。
原作は柊あおいの少女マンガ。監督は近藤喜文。宮崎駿は脚本・絵コンテ・制作プロデューサーとして関わっている。
内容は、一言で言ってしまえば、東京近郊の多摩地区を舞台にした受験を控えた中学三年生の少女の恋と成長の物語である。
特に、少女が、自分の心の中に生まれたある種の感情の正体を段々と恋だと認識していくその過程とか、恋というのものが素晴らしいことと同時に他人を傷つけるものでもあるという両面性に気付くその瞬間とかが、リアルに描かれていて、"現役"の人が観れば顔から火でも吹きたくなるかもしれない。
「坂道のアポロン」もそうであったが、この作品も登場人物の仕草やセリフの一つ一つが繊細で、愛おしい。しかも、音楽も素晴らしい。ジブリ作品の中でも最高傑作の一つであることは間違いないと思う。
おそらく、時代は90年代前半であろう。都営アパートらしき集合住宅(2DK位か?)に暮らす月島一家の家族構成は、両親と姉妹。
冒頭で、コンビニで牛乳を買ってきた主人公の雫の母親の「また、ビニール袋?牛乳一本なのに。」というセリフだけで、彼女が環境問題に意識が高い女性であることがそれとなくわかる。しかも、その母親は、40歳を過ぎているだろうに、大学院の修士課程に通っていて、中学生の娘に「あなた、好きで勉強してるんでしょ。」などと言われている。
さらに、姉の「生協で買い物」というちょっとしたフレーズを重ね合わせると、この家族は多摩地区あたりにありがちな、中の下流の知的「市民」家族であろうことが想像できる。
一方で、彼女の友人の夕子の家は、裕福そうな一軒家に住み、父親は家に帰ると野球を見ている。そして、母親は子犬を抱いている。想像逞しくするならば、おそらく、父親は民間の一流企業のサラリーマンなのだろう。あの頃、バブルの恩恵を受けていない地方公務員の現業はつつましやかなのに対して、民間は金回りが良かった。しかし、その二つの層の間には何のわだかまりも上下意識も無い。だから、夜、遅くだとしても、雫は夕子の家にあがりこんで普通に時間を過ごすのだ。勿論、公務員がうらやましいなどという価値観は無く、一億層中流が無意識に共有されていた...
上記はほんの一部に過ぎないが、このアニメでは、こうした丁寧なディテイルが全編にちりばめられていて、あの時代の普通の人々の息遣いが、まさに聴こえてくるかのようだ。
もっとも、このような、耳をすませば聴こえてくるようなディテイルも、多分に時代性を帯びていて、現在から見返してみると、若干のノスタルジーとして聴こえてくるし、もしかしたら、最近の若い人にはピンと来ないかもしれない。しかし、年寄りくささも気にせずに、その調に身を任せるのもまた、心地よいではないか。
また、アニメの中で何度も流される「カントリーロード」の音楽と、その背景に映し出される高台から見下ろされた東京都下の風景は、自動車が激しく往来する道路と狭い空間に密接して建てられた民家やビルなどによって構成されており、それは、「カントリーロード」の元歌で歌われているウェストバージニアの田園風景などとは、おそらく似ても似つかないが、しかし、「カントリーロード」を「コンクリートロード」と替えて笑いながら歌う少女達の笑顔や、イタリアへ職人修行に行こうとする少年の「お前のあの歌(「コンクリートロード」)を歌って頑張るからな!」というセリフには、ニヒリズムを明確に超えた「ここが我が故郷なのだ」という、ささやかな誇りとしたたかな希望を感じさせてくれる。
あるいは、こうも言えるかもしれない。いい悪いは別にして、僕らの民謡は、いつの間にか、西洋のカントリーミュージックになっている。これは戦後日本の文化、社会があまりにも自然にアメリカ化した結果であると。
しかし、このアニメで描かれている純朴な誇りと希望を、2012年の僕らが共有しているのかどうかと言えば、それはいささか躊躇が必要かもしれない。そこが、このアニメを現在に観ることの、どことない切なさと繋がっているように思われる。
物語は、坂の上にあるある西洋アンティークショップ(地球屋)に置いてあった一体のウサギの人形(バロン)が、戦争をはさんで、恋人と出会えなかった悲恋の物語と、同時に、この人形の持ち主であるお爺さんの悲しい青春の記憶の物語、そして、その人形をネタに雫が書き上げたファンタジー小説、さらに、その雫と、このお爺さんの孫である天沢聖司との恋愛の行方。この四つの恋の物語が絡みながら進行して行く。
その途中にさりげなく挿入される雫からバロンへの「あなたことは先から知っていたような気がするの。」という独り言や、お爺さんが、かつての恋人(ルイーズ)が帰ってくる夢を見て目を覚ました瞬間に雫が現れるというタイミングを勘案すると、露骨な想像力で力任せに「戦争で亡くなったルイーズの生まれ変わりとして雫が現れた」などという妄言も口に出してみたくもなるが、この作品の"現実を超えた何か"の寸前で止まる上品な倫理性の前では、これ以上、妄想を語ることは、極めて野暮な気もしてくる。
ただ、ここに登場してくるブタ猫のムーンについてだけは、敢えて語っておきたい。
というのも、僕が観たアニメの中には、しばしば、夢の世界へ案内したり、恋人達を遭わせたりといった場面にこのブタ猫が登場するのが気になっていたからである。例えば、「借り暮らしのアリエッティ」(2010年)におけるニーヤは、最初はアリエッティに対して危ない存在として登場するのだが、アリエッティと少年・翔を引き合わせるのもこの猫なのである。また、「老人Z」(1991年)におけるブタ猫・小春も、最後に、高沢老人に会いに来る妻・ハルが乗り移ったグロテスクな合体機械のための部品(コアプロセッサ)を運ぶという大事な役割をする。
そして、この「耳をすませば」のブタ猫・ムーンも、電車で雫の隣に乗ったかと思えば、都市空間の中の迷路のような場所を通って、彼女を恋人・翔とお爺さんが居る地球屋へと導く。それは、まるで、「迷宮物語」(1989年)の中の「ラビリンス*ラビリントス」でかくれんぼをしながら、少女(サチ)と一緒に幻想世界へ迷い込むブタ猫のチチロネを思い出させる。さらにいえば、「となりのトトロ」における猫バスもブタ猫と言えなくもない。そして、ご存知の通り、この猫バスは、現実界とあの世とを運行する。





かつて猫の妖怪といえば、人間の怨念が乗り移った化け猫と相場が決まっていたものだが、ここ二十年位の間で、縁結び、霊界先導としての猫という観念も生まれてきているということであろうか。昨今は、ネコ型人間という言葉もあるらしく、組織に縛られない自由な生き方として注目され始めているとも聞く。先日のエントリー(「デスノート」 名前が書かれると死ぬというあまりにも日本的な設定)との関連で言うならば、その名前がムーンだったり、オタマだったり、ムタだったりと相手と場所によって、名前を特定させないこのブタ猫は、まさに、自由の象徴なのではないだろうか。
しかし、その一方で、名前を知られるということが、相手に支配されることであるならば、最初から一方的に名前を知っていた天沢聖司は、その時点で、月島雫を支配していたいたとうことであり、図書カードで自分の名前を意識させるという高等戦術によって、逆に雫が彼に恋をするように仕向けたと言えなくもない。中学生にしては、見事な戦術である。
最後に、この物語が興味深いのは、大団円。丘の上で朝日を見ながら、結婚の約束をした翔と雫ではあるが、いざとなったら、あのブタ猫が戦闘機によって邪魔をしに来るかもしれない、そんな愉快な夢想の余地を残しているところである。それにしても、2012年の現在、あの翔と雫は、幸せなゴールインを迎えることが出来たのだろうか。それは、もしかしたら、残酷な問いかもしれない。
まさむね



簡単に言えば、このアニメは「名前を書いたら、その人物が死ぬ」というデスノートを巡る話である。
ご存知の通り、「千と千尋の神隠し」では、異界に迷い込んだ千尋という少女が、強引な契約によって油屋の支配人・湯婆婆に名前を奪われて、千と名付けられることによって、奴隷として働かされる物語であるが、ここで、千尋が湯婆婆との労働契約書にサインした時に、本来ならば「荻野千尋」と書くところを、荻の字の"火"を"大"と書く。つまりそこに偽名を書くのであるが、ここは、無意識的に、湯婆婆からの支配を完全なものにしたくないという千尋の無意識が働いたと考えられる。
確かに、この「デスノート」における二人の主人公・夜神月(やがみらいと)、L(エル)、両者とも、目的のためには手段を選ばないタイプの合理主義者だ。それはゼロ年代初頭の一時期に脚光を浴びたIT長者や株式のトレーダーのイメージなどをも髣髴させる。
それがゆえに、最後の最後(25話)の月(らいと)がL(エル)を殺すという一番大事な局面において、月(らいと)が、その確信的予測の最後の1ピースに日本アニメ的な行動を持ってきてしまうという、その不徹底さ、つまり、具体的に言えば、月(らいと)が、「弥海砂(あまねみさ)を愛する死神のレムが、L(エル)に逮捕されるのを阻止するために、自分が死ぬことを承知で、L(エル)を殺すに違いない」という、天才的(跳躍的)な推理をしてしまうその一瞬を、ただの無自覚な不徹底として捉えるべきなのか、あるいは、この作品も日本のアニメなのだというメタメッセージと捉えるべきなのか、という疑問的悩みを抱いてしまうのであった。
舞台は1966年の佐世保。横須賀から転向してきた西見薫が、土地の高校(佐世保東高校)に転向してきて、同級生のバンカラ学生・川渕千太郎や、その千太郎の幼馴染・迎律子と出会い、学園生活とジャズを通して友情や恋愛をはぐくんでいく物語である。
すぐに手が出るバンカラ高校生だったり...
さて、僕がこのアニメにおぼえたもう一つの親近感は、ここで描かれている高校生達がかかえる無自覚な衝動(おそらく性衝動)を、喧嘩や音楽といったものにぶつけるそのぶつけ方から来ている。
勿論、そういうのは実写でやればいいのに!という心持が僕の心の中にないわけではないが、迎律子ともう一人のヒロイン・深堀百合香、二人の美少女の顔の微妙で繊細な描き分けなどを見ていると、ただ髪の毛の色や長さだけで女の子を記号的に区別させようとするタイプのアニメに比べて、もしかしたら、このアニメはリアリティの地平において、新しい領域にまで到達しようとしているのではないか?などと期待もしたくなるのであった。
物語は、2059年。その舞台となるのはマクロス・フロンティアと呼ばれる宇宙移民船団。人類は、地球を出て安住の地を求めて銀河の中心に向けて旅をしている。ちなみに、このマクロス・フロンティアは、科学によって管理された閉じられた生態系となっていて、人々は文化的な生活を営んでいる。ただし、その空間は謎の異星生命体である外部の敵(バジュラ)によって脅かされており、軍隊やSMSという民間軍事プロバイダーは、常にそのバジュラとの苛烈な戦闘を繰り広げているのだ。
少年少女の日常生活と、人類の存亡を賭けた闘いがリンクしていくという意味で言えば、このアニメはセカイ系という解釈も可能であり、最終的には、異星生命体・バジュラが持つ特別なコミュニケーション方法を活用して、全宇宙を一つの意識化のもとに統合しようとする野望が敗れ去り、「
ところが、この「
それは、主人公の早乙女アルトが、元々歌舞伎役者の家に生まれた女形であったということを、敢えて伏線として捉え、彼は元々、彼ではなく、彼女であったという深読みも可能ではないかと考えられるからである。
さらに、彼が、子供の頃から天才的な女形であったにもかかわらず、父親から勘当されてまで役者としての道を捨てた理由が、建前的には、亡くなった母親が持っていた大空への憧れというだけでは、あまりにも表面的ではないのか。
また、その一方で、長髪を捨てきれなかったり、イヤリングをすることに抵抗がなかったりと、彼が無意識的に選択してしまっている女性的なファッションと、そのくせ女性と見間違われたり、友人からからかい半分にアルト姫と呼ばれることに対して極度に反発するような幼稚な仕草の矛盾的並存にこそ、彼の一筋縄ではいかない複雑な内面が表われている。
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