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2012年5月の4件の記事

2012年5月 8日 (火)

2012年に観るとどことなく切ない「耳をすませば」

1995年公開のジブリ作品「耳をすませば」を観た。



原作は柊あおいの少女マンガ。監督は近藤喜文。宮崎駿は脚本・絵コンテ・制作プロデューサーとして関わっている。

内容は、一言で言ってしまえば、東京近郊の多摩地区を舞台にした受験を控えた中学三年生の少女の恋と成長の物語である。

特に、少女が、自分の心の中に生まれたある種の感情の正体を段々と恋だと認識していくその過程とか、恋というのものが素晴らしいことと同時に他人を傷つけるものでもあるという両面性に気付くその瞬間とかが、リアルに描かれていて、"現役"の人が観れば顔から火でも吹きたくなるかもしれない。



坂道のアポロン」もそうであったが、この作品も登場人物の仕草やセリフの一つ一つが繊細で、愛おしい。しかも、音楽も素晴らしい。ジブリ作品の中でも最高傑作の一つであることは間違いないと思う。



おそらく、時代は90年代前半であろう。都営アパートらしき集合住宅(2DK位か?)に暮らす月島一家の家族構成は、両親と姉妹。

冒頭で、コンビニで牛乳を買ってきた主人公の雫の母親の「また、ビニール袋?牛乳一本なのに。」というセリフだけで、彼女が環境問題に意識が高い女性であることがそれとなくわかる。しかも、その母親は、40歳を過ぎているだろうに、大学院の修士課程に通っていて、中学生の娘に「あなた、好きで勉強してるんでしょ。」などと言われている。

さらに、姉の「生協で買い物」というちょっとしたフレーズを重ね合わせると、この家族は多摩地区あたりにありがちな、中の下流の知的「市民」家族であろうことが想像できる。

一方で、彼女の友人の夕子の家は、裕福そうな一軒家に住み、父親は家に帰ると野球を見ている。そして、母親は子犬を抱いている。想像逞しくするならば、おそらく、父親は民間の一流企業のサラリーマンなのだろう。あの頃、バブルの恩恵を受けていない地方公務員の現業はつつましやかなのに対して、民間は金回りが良かった。しかし、その二つの層の間には何のわだかまりも上下意識も無い。だから、夜、遅くだとしても、雫は夕子の家にあがりこんで普通に時間を過ごすのだ。勿論、公務員がうらやましいなどという価値観は無く、一億層中流が無意識に共有されていた...



上記はほんの一部に過ぎないが、このアニメでは、こうした丁寧なディテイルが全編にちりばめられていて、あの時代の普通の人々の息遣いが、まさに聴こえてくるかのようだ。

もっとも、このような、耳をすませば聴こえてくるようなディテイルも、多分に時代性を帯びていて、現在から見返してみると、若干のノスタルジーとして聴こえてくるし、もしかしたら、最近の若い人にはピンと来ないかもしれない。しかし、年寄りくささも気にせずに、その調に身を任せるのもまた、心地よいではないか。



また、アニメの中で何度も流される「カントリーロード」の音楽と、その背景に映し出される高台から見下ろされた東京都下の風景は、自動車が激しく往来する道路と狭い空間に密接して建てられた民家やビルなどによって構成されており、それは、「カントリーロード」の元歌で歌われているウェストバージニアの田園風景などとは、おそらく似ても似つかないが、しかし、「カントリーロード」を「コンクリートロード」と替えて笑いながら歌う少女達の笑顔や、イタリアへ職人修行に行こうとする少年の「お前のあの歌(「コンクリートロード」)を歌って頑張るからな!」というセリフには、ニヒリズムを明確に超えた「ここが我が故郷なのだ」という、ささやかな誇りとしたたかな希望を感じさせてくれる。

あるいは、こうも言えるかもしれない。いい悪いは別にして、僕らの民謡は、いつの間にか、西洋のカントリーミュージックになっている。これは戦後日本の文化、社会があまりにも自然にアメリカ化した結果であると。



しかし、このアニメで描かれている純朴な誇りと希望を、2012年の僕らが共有しているのかどうかと言えば、それはいささか躊躇が必要かもしれない。そこが、このアニメを現在に観ることの、どことない切なさと繋がっているように思われる。



物語は、坂の上にあるある西洋アンティークショップ(地球屋)に置いてあった一体のウサギの人形(バロン)が、戦争をはさんで、恋人と出会えなかった悲恋の物語と、同時に、この人形の持ち主であるお爺さんの悲しい青春の記憶の物語、そして、その人形をネタに雫が書き上げたファンタジー小説、さらに、その雫と、このお爺さんの孫である天沢聖司との恋愛の行方。この四つの恋の物語が絡みながら進行して行く。



その途中にさりげなく挿入される雫からバロンへの「あなたことは先から知っていたような気がするの。」という独り言や、お爺さんが、かつての恋人(ルイーズ)が帰ってくる夢を見て目を覚ました瞬間に雫が現れるというタイミングを勘案すると、露骨な想像力で力任せに「戦争で亡くなったルイーズの生まれ変わりとして雫が現れた」などという妄言も口に出してみたくもなるが、この作品の"現実を超えた何か"の寸前で止まる上品な倫理性の前では、これ以上、妄想を語ることは、極めて野暮な気もしてくる。



ただ、ここに登場してくるブタ猫のムーンについてだけは、敢えて語っておきたい。

というのも、僕が観たアニメの中には、しばしば、夢の世界へ案内したり、恋人達を遭わせたりといった場面にこのブタ猫が登場するのが気になっていたからである。例えば、「借り暮らしのアリエッティ」(2010年)におけるニーヤは、最初はアリエッティに対して危ない存在として登場するのだが、アリエッティと少年・翔を引き合わせるのもこの猫なのである。また、「老人Z」(1991年)におけるブタ猫・小春も、最後に、高沢老人に会いに来る妻・ハルが乗り移ったグロテスクな合体機械のための部品(コアプロセッサ)を運ぶという大事な役割をする。

そして、この「耳をすませば」のブタ猫・ムーンも、電車で雫の隣に乗ったかと思えば、都市空間の中の迷路のような場所を通って、彼女を恋人・翔とお爺さんが居る地球屋へと導く。それは、まるで、「迷宮物語」(1989年)の中の「ラビリンス*ラビリントス」でかくれんぼをしながら、少女(サチ)と一緒に幻想世界へ迷い込むブタ猫のチチロネを思い出させる。さらにいえば、「となりのトトロ」における猫バスもブタ猫と言えなくもない。そして、ご存知の通り、この猫バスは、現実界とあの世とを運行する。



左から小春「老人Z」、ムーン「耳すま」、猫バス「トトロ」、ニーヤ「アリエッティ」、チチロネ「迷宮物語」






かつて猫の妖怪といえば、人間の怨念が乗り移った化け猫と相場が決まっていたものだが、ここ二十年位の間で、縁結び、霊界先導としての猫という観念も生まれてきているということであろうか。昨今は、ネコ型人間という言葉もあるらしく、組織に縛られない自由な生き方として注目され始めているとも聞く。先日のエントリー(「デスノート」 名前が書かれると死ぬというあまりにも日本的な設定)との関連で言うならば、その名前がムーンだったり、オタマだったり、ムタだったりと相手と場所によって、名前を特定させないこのブタ猫は、まさに、自由の象徴なのではないだろうか。



しかし、その一方で、名前を知られるということが、相手に支配されることであるならば、最初から一方的に名前を知っていた天沢聖司は、その時点で、月島雫を支配していたいたとうことであり、図書カードで自分の名前を意識させるという高等戦術によって、逆に雫が彼に恋をするように仕向けたと言えなくもない。中学生にしては、見事な戦術である。



最後に、この物語が興味深いのは、大団円。丘の上で朝日を見ながら、結婚の約束をした翔と雫ではあるが、いざとなったら、あのブタ猫が戦闘機によって邪魔をしに来るかもしれない、そんな愉快な夢想の余地を残しているところである。

それにしても、2012年の現在、あの翔と雫は、幸せなゴールインを迎えることが出来たのだろうか。それは、もしかしたら、残酷な問いかもしれない。



まさむね

2012年5月 6日 (日)

「デスノート」 名前が書かれると死ぬというあまりにも日本的な設定

以前から妻に勧められていた「デスノート」の第一部(全26話)をようやく観た[1]。



実は、ずっと「何だか難しそう」な気がして敬遠していたのであるが、ここのところ気分が乗っていたので一気に観てしまおうと思い、およそ一日で観てしまった。

とにかく、凄い作品だ。シナリオの練られ方は、おそらく、今まで観たアニメ(映画も含めて)の中でもトップクラスと言っても過言ではない。

さすがに、原作のコミックが世界累計発行部数は3000万部を突破しているだけのことはある。この緻密なシナリオは、これぞ世界に出しても恥ずかしくない日本コンテンツであることは間違いない。



簡単に言えば、このアニメは「名前を書いたら、その人物が死ぬ」というデスノートを巡る話である。

勿論、このルール以外にも、いくつか他に重要なルールがあるのだが、基本的には、この「デスノートに名前を書いたら、その人物が死ぬ」という単純な設定さえ飲み込めれば、この作品は楽しく観ることができると思う。



僕は、このアニメが日本で作られ、世界中で大ヒットした背景には、この名前を書くと相手が死ぬという発想の根底に、古来から世界中に存在する、「相手の名前を知ることは相手を支配することと同等の意味を持つ」という宗教観念があるのではないかということ、そして日本は辺境の島国ゆえにそういった古代からの観念が他の地域よりも強く残ったという事実があるのではないかと考えている。



例えば、万葉集の巻一第一歌には、雄略天皇(第21代)が草を摘んでいる少女の名前を尋ねるという内容の歌が掲載されているが、この歌は、まさに相手の名前を知ることによって、相手を支配しようとする(自分の女にしようとする)歌である。そして、この観念が、近年、地下水脈からアニメというメディアを通して湧き水のように出てきたのが「千と千尋の神隠し」であり、この「デスノート」ではないかと想像しているのだ。



ご存知の通り、「千と千尋の神隠し」では、異界に迷い込んだ千尋という少女が、強引な契約によって油屋の支配人・湯婆婆に名前を奪われて、千と名付けられることによって、奴隷として働かされる物語であるが、ここで、千尋が湯婆婆との労働契約書にサインした時に、本来ならば「荻野千尋」と書くところを、荻の字の"火"を"大"と書く。つまりそこに偽名を書くのであるが、ここは、無意識的に、湯婆婆からの支配を完全なものにしたくないという千尋の無意識が働いたと考えられる。

ちなみに、この「本当の名前を知られることによって相手に支配されることに対する恐れ」という宗教観念が、まだどこかで生きているがゆえに、日本では実名登録前提のSNS・Facebookがいま一つビビッドにブレイクしていないことの一因になっているのではないだろうか。いまだに、YahooがGoogleよりも利用者数が多かったり、2chという匿名サイトが膨大なアクセス数を誇っているというようなこともそうであるが、インターネットという最新技術が、逆に、今まで隠されてきた民族のユニークさをあぶり出してくるような現象は、誠に興味深い。



さて、この「デスノート」であるが、評論家の宇野常寛氏は著書『ゼロ年代の想像力』の中で、バトルロワイヤル系作品の代表作に上げていた。このバトルロワイヤル系というのは、90年代まではセカイ系という、現実的な選択にコミットせずに甘美な観念的コクーンの中で私小説的な自意識を弄ぶタイプの作品群が後退し、バブル崩壊、金融ビックバン、平成不況、市場原理主義(成果主義)的価値観の興隆という時勢を背景として出てきた、苛烈でサヴァイブ感を前面に出すような作品群を指す概念である。



確かに、この「デスノート」における二人の主人公・夜神月(やがみらいと)、L(エル)、両者とも、目的のためには手段を選ばないタイプの合理主義者だ。それはゼロ年代初頭の一時期に脚光を浴びたIT長者や株式のトレーダーのイメージなどをも髣髴させる。



平和な世界を実現し、その世界での「神」になるという野望のために、デスノートによって重犯罪者をこの世から次々と抹殺していく月(らいと)と、犯人を逮捕するためには、拷問スレスレの取調べや、人権を無視した強制捜査を厭わないL(エル)の二人の合理主義的な価値観はまるでコインの裏と表のように良く似ている。

彼らは、古くは60年代の鉄腕アトムから、80年代のラピュタやナウシカ、90年代の「エヴァ」のシンジを経由して、最近のアニメ(「魔法少女まどか☆マギカ」「輪るピングドラム」「輪廻のラグランジェ」など)まで、連綿と続く家族や友人といった身近な他者のためには命を賭すことも恐れない登場人物達とは全く異なった行動原理で動いている。二人とも、人間関係に縛られて「空気」とやらが漫然と支配するような日本独自の村社会的価値観から超越した存在なのである。



さらに、崇高な目的を抱く超越的な存在という意味では、「コードギアス」のルルーシュや「Fate/Zero」の衛宮切嗣(セイバーのマスター)にも似ているように見えるが、そのルルーシュや切嗣にしても、プライオリティ最上位は、結局は肉親の幸せであるということを考え合わせれば、月(らいと)とL(エル)の行動原理の方が、より冷酷で合目的的のように思われる。



さて、この「デスノート」の最大の見せ場は、L(エル)の名前をゲットして、デスノートに書き込むことによってL(エル)を抹殺しようとする月(らいと)と、月(らいと)を真犯人として逮捕しようとするL(エル)との間の、見ているだけで心臓がキリキリ痛むような心理戦である。二人は出来る限りの合理的推理を重ねて相手を追い詰めていく。

二人の判断は、決して天才的(超越的)な勘によって行われるわけではなく、ゆっくりと考えれば誰でもがたどり着けるようなロジックに添って行われる。それは、今クールに放送中の日曜劇場「ATARU」におけるアタルや、かつての古畑仁三郎が初動時に発動する神がかり的な勘とは無縁の合理性である。



彼ら二人の推理ロジックの根拠は、「人間というものは必ず合理的に動くはずだ」という地道な前提なのである。それは彼らの人間観と言ってもいい。おそらく、この人間観のわかりやすさ、すなわち合理性こそ、「デスノート」が日本だけでなく、世界的にも大人気となった大きな要因である。もしかしたら、今後の日本のアニメが、"日本大好き市場"の枠を超えて、より広い市場にインパクトを残すためのヒントがここにあるかもしれない。



しかし、先ほども述べたが、この作品に流れる人間観は、自分の命を賭して他人を助けるというような日本アニメ的な超合理的な行動原理と相反している。勿論、その日本的行動原理に縛られたアニメの魅力も捨てがたいのではあるが、僕は、この「デスノート」の合理性もユニークさとして評価したいと考えている。



それがゆえに、最後の最後(25話)の月(らいと)がL(エル)を殺すという一番大事な局面において、月(らいと)が、その確信的予測の最後の1ピースに日本アニメ的な行動を持ってきてしまうという、その不徹底さ、つまり、具体的に言えば、月(らいと)が、「弥海砂(あまねみさ)を愛する死神のレムが、L(エル)に逮捕されるのを阻止するために、自分が死ぬことを承知で、L(エル)を殺すに違いない」という、天才的(跳躍的)な推理をしてしまうその一瞬を、ただの無自覚な不徹底として捉えるべきなのか、あるいは、この作品も日本のアニメなのだというメタメッセージと捉えるべきなのか、という疑問的悩みを抱いてしまうのであった。



まさむね



[1]なので、上記の文章は第二部以降では覆されて、全然、意味をなさなくなる、あるいは間違っていたということもありえることはご承知下さい。

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2012年5月 3日 (木)

「坂道のアポロン」 独自の視線による新しいノスタルジーの発見

まだ3話までしか観ていないが、現在、ノイタミナ枠で放映中の「坂道のアポロン」が素晴らしい。



もともとは『月刊flowers』で連載されていた少女漫画であるが、『このマンガがすごい! 2009』オンナ編で1位を獲得したほどの評判作のアニメ版だ。

舞台は1966年の佐世保。横須賀から転向してきた西見薫が、土地の高校(佐世保東高校)に転向してきて、同級生のバンカラ学生・川渕千太郎や、その千太郎の幼馴染・迎律子と出会い、学園生活とジャズを通して友情や恋愛をはぐくんでいく物語である。



最近、「輪廻のラグランジェ」「Fate/Zero」「電脳コイル」「天空の城ラピュタ」「コードギアス」「トップをねらえ!」「マクロスf」といったSFモノ、戦闘モノ、ロボットモノ、あるいは冒険モノを連続して観ていたので、たまに、こうした平凡な物語に出会うとホッとした感じがしないでもない。

元々、僕は青春映画(例えば、「BU・SU」とか「青春デンデケデケデケ」)が大好きなので、このアニメも見事にストライクだった。しかも、1966年の佐世保といえば、反射的に村上龍の「69」も連想させてくれるもんだから、この作品に対する評価は、観る前から出来上がっていたと言っても過言ではない。



さて、世の中には、いつの間にか無くなっているのだけど、すぐ近くにあるかのように感じてしまうような物事が多い。このアニメにはそんな"幻想としての親近感のある過去"が沢山出てくる。

例えばそれは...

無線部に誘う内気な少年だったり...

すぐに手が出るバンカラ高校生だったり...

本物の笹に包んだ大きなオニギリだったり...

遊んでくれと近寄ってくる弟妹だったり...

水面から顔を上げているためのノシ泳法だったり...

上手く漕げない和船だったり...

剣道の竹刀を使った苛めだったり...

「日曜日に一緒に勉強しよう」というデートの誘い方だったり...

娘の男友達だと急に無愛想になる父親(レコード店主)だったり...

喧嘩した二人が、楽器で音を合わせていると段々笑顔になってくるあの瞬間だったり...

レコード針を何度も同じ溝に落としながらするミミコピだったり...

「ファッションセンスのいい」先輩に"真知子巻き"(実はほっかむり?)をしてもらって喜ぶ少女だったり...

しかもその娘が「花を摘んでくる」と言って走り去って陰で泣いているような少女だったり...


この物語には、そんな、1960年代地方都市のディテイルが、一つ一つ見事に描きこまれていて、それは「サザエさん」とも「三丁目の夕日」とも違った角度から、僕らに新しいノスタルジーを感じさせてくれる。

もちろん、それらは、自分の体験から照らしてみると、現実的にあったのか、なかったのか、わからないようなノスタルジーではあるのだが、それは、最近、よく繁華街で見かける水原弘や浪花千栄子の大塚製薬系の看板を入り口近くに掲げて典型的な昭和を演出するタイプの飲み屋の凡庸なセンスとは比べ物にならないほど繊細であり、おそらく、作者独自の視線による新しいノスタルジーの発見こそ、この物語の一つの見所であるに違いない。



まだ、序盤が終わったばかりのこのアニメの先に待っている"幻想としての親近感のある過去"が楽しみだ。



さて、僕がこのアニメにおぼえたもう一つの親近感は、ここで描かれている高校生達がかかえる無自覚な衝動(おそらく性衝動)を、喧嘩や音楽といったものにぶつけるそのぶつけ方から来ている。

例えば、バンカラ学生の千太郎は、学校では授業にろくに出ないような不良で、帰宅後は、地下室にこもってドラムを叩きまくる。それは、誰かの役にも、社会の役にも、そしておそらく、自分の将来の役にも立っていないただの衝動の吐き出しなのだが、その利己的な情熱こそが、人生におけるこの季節のリアリティとしては極めて平凡ではあるが、最も説得力がある。



音楽をやっている時だけは、今、ここから抜け出せたような気がした、あの甘美な一瞬とでもいおうか。



例えば、人類のためにロボットに乗る「マクロスf」のアルトや「トップをねらえ!」のノリコ、妹のため、母の復讐のために体制を破壊しようとする「コードギアス」のルルーシュ、あるいは友人や学校や鴨川のために走り回るジャージ部の京乃まどか(「輪廻のラグランジェ」)など、誰かのために命を賭けつづける高校生ヒーロー(ヒロイン)を観続けてきた僕の目には、時に、それがインフレを起こし、逆に、千太郎の利己的なドラミングがむしろ、健全に見えたりもするから不思議だ。



勿論、そういうのは実写でやればいいのに!という心持が僕の心の中にないわけではないが、迎律子ともう一人のヒロイン・深堀百合香、二人の美少女の顔の微妙で繊細な描き分けなどを見ていると、ただ髪の毛の色や長さだけで女の子を記号的に区別させようとするタイプのアニメに比べて、もしかしたら、このアニメはリアリティの地平において、新しい領域にまで到達しようとしているのではないか?などと期待もしたくなるのであった。



まさむね



この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2012年5月 2日 (水)

「マクロスFRONTIER」 早乙女アルトは何故、女形でなければならないのか

TV版「マクロスFRONTIER」全25話を観た。

ご存知の通り、マクロスはこの作品以外にも、TVアニメ「超時空要塞マクロス」(1982年~1983年)、劇場版「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」(1984年)、OVA「超時空要塞マクロス Flash Back 2012」(1987年)、TVアニメ「マクロス7」(1994年~1995年)、劇場版「マクロス7 銀河がオレを呼んでいる!」(1995年)、OVA「マクロス ダイナマイト7」(全4話、1997年)、劇場版「マクロスF 虚空歌姫〜イツワリノウタヒメ~」(2009年)、劇場版「マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~」(2011年)などの映像作品がある。

さらに、映像の他、漫画、小説、ラジオドラマなどの作品もあり、それらは総称してマクロスシリーズと呼ばれている。



僕はその中のほんの一部に触れただけなので、大きなことは言えないが、この「マクロスFRONTIER」を観た限り、さすが、日本を代表するSFロボットアニメだけのことはあると思った。

とにかく、その映像(3DCG)の迫力と美しさは圧巻なのである。しかも、ミュージックと戦闘シーンが必然的に結びつくという設定のオリジナリティには、よく、ここまで考えたなぁと思わず頭が下る。



物語は、2059年。その舞台となるのはマクロス・フロンティアと呼ばれる宇宙移民船団。人類は、地球を出て安住の地を求めて銀河の中心に向けて旅をしている。ちなみに、このマクロス・フロンティアは、科学によって管理された閉じられた生態系となっていて、人々は文化的な生活を営んでいる。ただし、その空間は謎の異星生命体である外部の敵(バジュラ)によって脅かされており、軍隊やSMSという民間軍事プロバイダーは、常にそのバジュラとの苛烈な戦闘を繰り広げているのだ。



物語は、このマクロス・フロンティアに住む少年少女の人間関係と、バジュラとの戦いという二つの軸が交差しながら進行していく。

少年少女の日常生活と、人類の存亡を賭けた闘いがリンクしていくという意味で言えば、このアニメはセカイ系という解釈も可能であり、最終的には、異星生命体・バジュラが持つ特別なコミュニケーション方法を活用して、全宇宙を一つの意識化のもとに統合しようとする野望が敗れ去り、「個体が別々の意志を持ち、時として誤解が生じたりもするが、それがゆえに恋は素晴らしい」というような思想が生き残る展開に注視するならば、あの「新世紀エヴァンゲリオン」における「人類補完計画」宇宙版の敗北物語とも言えるのである。



その意味で言えば、このアニメは「ビューティフルドリーマー」から「火垂の墓」「新世紀エヴァンゲリオン」「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「妄想代理人」「カオスヘッド」などと同様に"甘美な幻想が負けて厳しい現実が勝利する"アニメの王道的系譜にある作品なのだ。



ところが、この「マクロスFRONTIER」では、思想的には先に述べたように現実の厳しさが勝っていたとしても、具体的には、この物語の大きな柱である男女の三角関係(男一人と女二人)における厳しいは対立は回避され、結論は先送りされてしまう。

もっとも、三角関係にある種の決着をつけるということが、ここまで育ててきた商品としてのキャラ達にそれなりの傷を負わせてしまうことは想像に難くないし、先に劇場版が控えているという大人の事情も斟酌すべきなのだろうが、僕ら視聴者が全25話という、それなりに長い道のりを経た挙句に待っていたのが結論の先送りというのでは、いささかがっかりしたと言わざるを得ない。

石田純一の「不倫は文化」という言葉で反射的に思い浮かぶような古今東西の名作、例えば、「源氏物語」「アンナカレーニナ」「ボヴァリー夫人」、そして夏目漱石の一連の作品と、この「マクロスFRONTIER」とを人間描写という土俵で比較しようとするのはちょっと荷が重かったというべきなのであろうか。



いや、しかし、そのように言い切ってしまう前に、このアニメ、そして主人公の早乙女アルトについて、もう少し考えてみたいというのが、実は、本エントリーの主旨なのである。



それは、主人公の早乙女アルトが、元々歌舞伎役者の家に生まれた女形であったということを、敢えて伏線として捉え、彼は元々、彼ではなく、彼女であったという深読みも可能ではないかと考えられるからである。

しかも早乙女アルトが劇中において何度が吐いている「思わざれば花なり。思えば花ならざりき。」(自然に演技することが重要。意識してしまうと面白くなくなる:まさむね現代語訳)というような世阿弥の花伝書を意識したような言葉を、強引にかぶせて解釈してみるならば、彼の恋愛場面における不器用な立ち振る舞いこそは、自然な振る舞いなのだ、というメタメッセージにも取れなくないからである。



さらに、彼が、子供の頃から天才的な女形であったにもかかわらず、父親から勘当されてまで役者としての道を捨てた理由が、建前的には、亡くなった母親が持っていた大空への憧れというだけでは、あまりにも表面的ではないのか。

おそらく、彼の女形としての自分に対する嫌悪は、素においても女であることに対する、つまり、心のどこかに存在する女性性に対する嫌悪と密接に結びついているのではないかというのが僕の仮説である。

それゆえに、彼が意志的に男性であろうとした時に選択した職業が軍人なのであり、その精神はどこか、あの三島由紀夫の趣味にも通じている。

また、その一方で、長髪を捨てきれなかったり、イヤリングをすることに抵抗がなかったりと、彼が無意識的に選択してしまっている女性的なファッションと、そのくせ女性と見間違われたり、友人からからかい半分にアルト姫と呼ばれることに対して極度に反発するような幼稚な仕草の矛盾的並存にこそ、彼の一筋縄ではいかない複雑な内面が表われている。



普通に、視聴者に媚びて、同一化を求めるキャラであれば、シンジ(「新世紀エヴァンゲリオン」)のような情けない少年や、オカリン(「シュタインズゲート」)のようなオタク、あるいはルルーシュ(「コードギアス」)のような貴種の奥手にしておいけばいいものの、敢えて、複雑に設定された早乙女アルトをどう読むのか?これが、商品であるがゆえに文学への道を歩めなかったこのアニメに、文学とは別の方向での奥深さを与える一つの設問ではないかと僕は思うのであった。



まさむね



この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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