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2012年7月の6件の記事

2012年7月27日 (金)

「Fate/Zero」第2期 その華麗なる登場人物達について語る

『Fate/Zero』の第二期をようやく観了した。



僕は、第一期を観た後、「Fate/Zero」の第一期はまるで世界最強タッグ開幕セレモニーだ!というエントリーをアップして、さんざん、第二期に対する期待を表明していたにもかかわらず、観了が遅れてしまい不徳のいたすところである。



さて、内容に関してであるが、期待に違わぬ大スペクタクルロマンであったというのが正直な感想。スリリングで意外な展開は、まさに傑作と呼ぶのに相応しい出来であった。

それにしても、これは虚淵玄氏の嗜好であろうか。このアニメには以下のようないくつかのメッセージがあるように思えた。



1)正義(=恒久平和)を、この世で叶えるのは不可能性である

2)カタストロフの後には希望が残る

3)他人を動かすのは理論ではなく生き様である

4)人は合理的に動けるわけではない

5)他人のために尽くしても報われるとは限らない

6)誰しもが愛すべき点を持っている




まずは1)「『正義(=恒久平和)』を、この世で叶えるのは不可能性である」というメッセージについて。

衛宮切嗣という男は、子供の頃、「正義の味方」になろうと決心する。

しかし、魔術師の血を受け継いだ彼は、そういった「正義」の意思とは裏腹に、人間を無慈悲に殺害できるという冷酷な心を持っていた。

そして、ある村を、魔術研究によって、はからずも悲劇に巻き込んでしまった自分の父親を、銃弾一発で殺してしまう。

こうして、切嗣の人生は決定付けられてしまうのである。

その後、切嗣は、多数の人間を救うためには、少数の人間を殺害することを厭わないような殺し屋として成長するのであるが、彼の思考は、マイケル・サンデルがその授業中にサンプルとして出しそうなほど、究極の功利主義的な思考であった。

そして、切嗣は、世界平和を祈念して聖杯戦争に参加し、卓越した戦略眼と冷静な采配で、難敵をしりぞけてゆく。例えば、ランサーを擁するケイネス陣営は彼の謀略によって撃破されるのである。

しかし、切嗣はこの戦争の過程で、実は聖杯というものは「この世の悪」が凝縮された存在であること、つまり、この聖杯に自分の願いを託すと、逆に世界が破滅してしまう(人類は滅亡してしまう)という矛盾に気付く。そして、サーバントであるセイバーに聖杯を破壊するように指示するのである。

僕には、聖杯を邪悪なものとする、その設定にこそ、虚淵玄氏が、「『正義(=恒久平和)』を、この世で叶えるのは不可能性である」という思想が込められているように思われた。それは、別の言い方をすれば、この世には邪悪なものは決してなくなりはしないという思想である。

おそらくそれは、「魔法少女まどか☆マギカ」において、魔女が死滅した現世にも、魔獣が残るというあの世界観と同系の発想であり、さらに、レンジを広く考えれば、この「Fate/Zero」が、"甘美な幻想が負けて厳しい現実が勝利する王道アニメの系譜(「「マクロスFRONTIER」 早乙女アルトは何故、女形でなければならないのか」参照)"にあることをも示している。



そして、セイバーによって破壊された聖杯は、その邪悪さゆえに、破壊された瞬間に汚泥を噴出させ、戦いの地・冬木を大火災に陥れてしまうという結末をもたらす。これは、切嗣の正義の戦いは、結局は残酷な破壊しか残せなかったということを意味するのであろうか。



しかし、それはあまりにも辛い結末ではないか。

それゆえ、物語はまだ続くのだ。切嗣は、破壊された冬木において、唯一生存している士郎という少年を発見する。そして、彼は、その士郎に未来を託そうとするのであった。

ちなみに、そのカタストロフの只中に、圧倒的な力を誇るアーチャーが真っ裸という情けない姿で蘇生する。思わず笑いを誘うシーンであるが、状況が悲惨であればあるほど、一服のユーモアが必要であることをこのシーンは教えてくれる。

その希望とユーモアこそが、2)の「カタストロフの後には希望が残る」というメッセージである。おそらく、この希望は、「魔法少女まどか☆マギカ」で言うならば、魔獣が残った現世で、闘い続けるほむらの希望にも相当する。



余談ではあるが、人間の歴史とは、災害とその災害からの復活の繰り返しの歴史であるとも言えるのではないだろうか。

特に、天災の多い島国、日本ではそういった歴史観は比較的自然なものであったと思われる。例えば、かつて、日本人はこの国は大きな鯰の上に乗っている脆弱なもの、というイメージ(民間信仰)を持っていた。そして、時に、その鯰は、「世直し明神」にも擬せられていた。そんな浮世絵(鯰絵)が沢山残っている。

つまり、日本人の心の中には、どこかで、「天変地異こそが、現世を変革してくれるもの」という観念があったのではないかと思うのである。それは、坂口安吾が「堕落論」で描いた日本人の楽天性にも通じている。

しかし、原発事故が起きてしまった現在、日本人のそういった観念は修正せざるをえないかもしれない。

現代人の僕らが、日本を原発に依存する社会にしてしまったということは、いつの間にか、繰り返しがきかない世界を作ってしまったということだからである。つまり、原発事故は日本人から、究極の楽天性を奪ってしまったのである。原発推進を唱える人々(特に保守主義者)は、そのあたりをどのように考えているのであろうか。



さて、僕はこの「Fate/Zero」の中で、一番、好きな陣営はどれか?と問われたら、迷わずに、ライダー陣営と答えるだろう。それはマスターであるウェイバーとサーバント・ライダー(真名:イスカンダル)の関係性が進化すること、つまり、ウェイバー自身が成長して、次第にライダーに尊崇の念を抱くようになること、また、ライダーもそんなウェイバーを承認していくこと、このアニメには、それぞれの過程が見事に描かれているからである。

そして、このライダー陣営が発するメッセージこそ、3)「他人を動かすのは理論ではなく生き様である」という命題なのだ。

自分を小馬鹿にする大学の同僚や教師に承認されたいというセコイ欲望から聖杯戦争に参加したウェイバーではあるが、最終的には、世界史の英雄であるライダー、アーチャー、そして同居の老夫婦からも、無くてはならない存在として承認を得る。

聖杯戦争から降りて、マスターではなくなるも、自信というかけがえのないものを得るウェイバーこそ、もしかしたら、この聖杯戦争における最大の勝利者なのかもしれない。

そして、ギリギリのところでアーチャーに敗れてしまうライダーではあるが、その正々堂々とした豪放磊落な生き様(魂)はウェイバーの中にしっかりと生き続けているに違いない。ライダーの、オケアノス(地の果ての海)を観たいという、子供じみてはいるが純粋な夢の力は、セイバーのような正しく立派な治者としての振る舞いからは程遠いのかもしれないが、確実に多くの臣下、そしてウェイバーを興奮させ、その生き方を変えた。ミメーシスを興したのである。



4)「人は合理的に動けるわけではない」というメッセージは、過去の(生前の)因縁を抱えているサーバント達の振る舞いが雄弁に物語っている、というのがこの「Fate/Zero」の面白いところである。

例えば、勝利のためには手段を選ばない徹底的な合理主義者である衛宮切嗣のサーバントであるセイバーは、滅びてしまったブリテン王国の復活を夢見る理想的な王であり、同時に正々堂々と戦うことにこだわる騎士である。しかし、セイバーの騎士道は、時に、切嗣の作戦を狂わせ、切嗣とセイバーの間の溝を生み出してしまうのだ。

ちなみに、同様の関係性の齟齬は、ケイネスとランサー、ウェイバーとライダーの間にも見られる。



話は少しずれるが、僕は、現代日本の多くの問題点の根っこには、合理主義(グローバリズム)と、日本人的行動規範との間の齟齬があるように感じている。「正直に生きなさい」「他人には慈悲深くしなさい」「欲は抑えなさい」「他人の嫉妬を買うような行動は控えなさい」といった日本古来の道徳観念は、実はことごとく、グローバルな経済競争で勝ち抜くためには、意味の無い価値と思われてしまっているからである。勿論、長い目で見れば、そういった道徳心は有用であると信じたいのであるが、少なくとも目先の利益を追求することを義務付けられている現代ビジネスの世界では、古来の道徳心はむしろ、邪魔ですらあるのだ。

僕らが、「Fate/Zero」を見ながら、一方で切嗣のクールな思考に憧れつつ、他方、セイバーの実直さにも惹かれてしまうのは、この物語の中に、現代社会に生きる僕らの矛盾した生き方、つまり日本人の引き裂かれた姿が比喩的に投影されているからではないかと思う。



5)「他人のために尽くしても報われるとは限らない」は間桐雁夜と、セイバーからのメッセージである。

雁夜が、聖杯戦争に参加したのは、彼が密かに愛していた時臣の妻・葵の娘の桜を救うためであった。そのために、一時は、魔術師になる道を捨てた雁夜であったが、桜が、自身の家(間桐家)の養子となり、魔術師として育てられるというということを知り、急遽、聖杯戦争に参加して、桜を救おうとしたのである。

しかし、魔術師となるにはあまりにも急であったため、雁夜にとって、聖杯戦争とは、その死と引き換えにする戦いとなってしまう。日々、衰弱していく体で必死に戦おうとする雁夜ではあったが、言峰綺礼の策略によって、葵から、夫・時臣を殺したのは雁夜であると疑われ、逆に彼女から暴言を浴びせかけられ、思わず葵の首を絞めてしまう。さらに、最期は、自分が救おうとした桜からも見捨てられてしまうのだ。

一方で、臣下や民の幸福を願って、良き王であろうとするセイバー(真名:アーサー)ではあったが、彼女を執拗に付けねらうバーサーカーの正体が、かつて自分の臣下であった凄腕の騎士・ランスロットであることに衝撃を受ける。アーサーはかつて、自分の妻と不義の関係を持った、このランスロットを、良き王であろうとする心をもって許したのであるが、実は逆に、許されたランスロットから、逆恨みを受けていたというのである。

僕は、この雁夜やセイバーの姿に、「魔法使いまどか☆マギカ」のさやかと同じような善意と裏腹の自己欺瞞を見る。さやかも、恋人の腕の再生を祈願して魔法少女となるのであるが、実はそれは、本当は彼のためではなく、自分のためであったという欺瞞に気付き、自暴自棄となるのであるが、同様に雁夜も、桜を救い出し、葵の元に返したいという心の奥底には、自己欺瞞があり、その欺瞞がゆえに、雁夜は、葵の暴言に逆上してしまうのである。

また、アーサーも、ランスロットを許すことによって逆に彼のプライドを傷つけ、怨念を抱かせてしまう。ランスロットに対する寛宥は、意識的にはランスロットを思ってのことであったとしても、実は、「良き王でありたい」というアーサーのエゴから来る無意識の自己欺瞞が、ランスロットの癪に障ったという残酷な結果なのである。



さて次に、言峰綺礼についても語っておきたい。彼は、この聖杯戦争の監督役である聖堂協会の言峰璃正の息子で、聖杯戦争の前半は、魔術協会の遠坂時臣の影のサポーターとして活躍するが、後半、時臣を裏切り、殺害。アーチャーのマスターとなり衛宮切嗣と死闘を演じる。

彼は、格闘家としては一流であり、修行に耐えうるだけのストイックな精神力も持ち合わせている。しかし、ライバル・衛宮切嗣が子供の頃から抱き続けている「正義」のために聖杯を奪取すべく、手段を選ばず合理的、戦略的に闘うのに対して、綺礼は、自分が何のために闘っているのすら、よくわかっていない存在である。つまり、その内面(存在目的)は空虚なのである。最後に、ようやく大災害の現場で己の嗜好(願望)が、破壊や醜悪なものに向いているという自覚を得るのであるが、換言すれば、そこまでの綺礼にとっての聖杯戦争とは自分探しの戦いだったということである。



この衛宮切嗣と言峰綺礼の格闘シーンは、このアニメどころか、おそらくアニメ史にも残るような出色の名シーンである。しかし、それはスペクタクルな要素を剥ぎ取ったレイヤーにおいてでも、生まれながらにして「正義」という観念に取り付かれた運命を持つ男と、目的も内面も無いがただひたすらに闘うために闘う男の戦い、つまり、まさにFate(運命)とZero(空虚)との戦いという精神戦が見えてくるところが奥深いところだと僕は思った。



さて、最後に、ここではあまり語れなかったマスター/サーバントについて。

切嗣の「起源弾」によって戦闘不能となり、結局は、切嗣の策略によって、殺されるケイネスは、確かに、ウェイバーを見下したり、聖杯戦争に勝ちたいがゆえに、神父を殺害したり、サーバントのランサーに嫉妬心を抱き罵倒するなど、醜悪でみっともないキャラではあったが、最後の最後で、自分を裏切った(ランサーのチャームによって裏切らされた)妻のソラウの命を救うために、プライドも家の名誉も捨てて聖杯戦争を諦めるという、一瞬の善人の姿を見せてこの世を去る。

また、殺人の快楽を見出す龍之介や、そのサーバントであったキャスターも、殺人狂としての自分の酔ったり、セイバーをジャンヌダルクと勘違いし続けるなど、ヒール的存在で、気持ち悪いというのも事実であるが、その動機は純粋であり、彼らの潔い死はむしろ満足感すら残した、とも言える。

ようするに、このアニメに登場するあらゆるキャラクタは、どこか、憎めない存在なのである。それどころか愛おしくさえある。それゆえに、このアニメには嫌味がない。

その点をメッセージとして読み取るならば、「6)誰しもが愛すべき点を持っている」ということにでもなろうか。



実は個人的には、その点がこのアニメの一番、好ましいところだと思っているのである。



まさむね



Fate/Zero第1期のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2012年7月19日 (木)

「ものづくり敗戦」という現実を僕らは正視しなければならない

木村英紀氏の「ものづくり敗戦―「匠の呪縛」が日本を衰退させる」(日経プレミアシリーズ)はいささか、衝撃的な本だった。

かつて、そして今でも、日本のお家芸だと思われていた「ものづくりの精神」が、誇るべきどころか、逆に今後、世界市場で戦っていくために必要なソフトウェア製作の足かせになっていくという話だからである。



確かに、何年も一つの鍛錬して得られるような特殊技術、あるいは、プロジェクトX的な人々の血のにじむような人々の刷り合わせの団結力。そういったものに、僕ら日本人は、どこかでプライドや美徳を感じてきた。

しかし、この本では、日本人が美徳とするそういった「匠の技」は、実は今後、世界で戦っていく科学技術の世界には不要なものだというのである。

逆に、これからの科学技術の主流となるであろうソフトウェア技術に必要なのは、一定の知識さえあれば誰しもが、理解できるし真似の出来るようなロジックであり、システム思考なのだ。そして、それは、「匠の技」の対極にある、普遍的なものなのである。



この本では、日本が、大東亜戦争に負けたのは、兵器の量ではなく、質において劣っていたからだと、繰り返し述べている。

これもちょっとしたショックだった。僕らは敗戦の原因は質ではなく量だと教わってきたが、実は、その教えは、気休めに過ぎなかったということがこの本に書かれていたからである。いや、それは、気休めと言うよりも、結果としては「ものづくりでは負けていない」という神話を温存するためのウソだったということですらあったのだ。



戦争当時、日本は大量生産、大量消費に最適化されたマニュアル化された生産システムを持っていなかった。ゼロ戦にしても、戦艦大和にしても、三八式歩兵銃にしても、それらの武器の優秀さは、質が高く、豊富な個々の技術者達の勤勉さと熟練した手先の器用さに依存していたというのである。それがゆえに、日本の武器生産の現場では合理的なシステムは排除され、それに変わって、「大和魂」なる精神論が跋扈したのである。



しかも、恐ろしいのは、それが決して、戦中(の失敗)だけの話ではないということである。合理的な生産システムは、実は現代の日本においても、重要視されておらず、いまだに、「匠の技」が第一といわれているような、いわゆる「ものづくり神話」の呪縛に囚われているのではないかという?のが筆者の見立てなのであった。

(また、筆者は、戦後の高度成長時代、日本人の「匠の技」が生かされるような労働集約的なものづくりが、鉄鋼、自動車、家電といった工業部門で多いに生かされたは、ある意味、ラッキーであったとする。)



確かにそうかもしれない。僕にも心当たりがある。今から20年前、僕はソフトウェア技術者であった。しかし、その世界では全く成功しなかった。

僕は論理的にプログラムを組むよりも、コードの美しさとか、オリジナリティにこだわるような、利己的で三流のプログラマだったからだ。

しかし、それは、僕だけではなかったような気がする。多くの同僚達も、コードの書き方は自己流であった。しかも、公開したがらなかったし、ましてや、後輩に教えたがらなかった。

そんなこと、ソフトウェアにとって、ほとんど意味のないことなのであるが、多くの同僚達は、どこかで、匠の技術の呪縛に囚われていたのかもしれない。



よく、日本人は集団主義だという言い方をすることがあるが、実は、日本人は個人主義的なところもある。そんな時、僕が思い浮かべるのは、鎌倉時代末期に、あの元が攻めてきたとき、元の集団戦法に一人づつ挑んでいった武士達の姿である。



ちなみに、僕は、その名残で、いまだにvim32を使って自己流の秘儀を楽しんでいるのだ(ご興味のある方は「UNIX思想の流れを汲むvim32のちょっとした使い方講座」を参照してください)。それはただの自己満足なのであるが、それでも止められないでいる。



「理論」「システム」「ソフトウェア」。

この三つは、今後、世界市場で日本の技術がかつての栄光を取り戻すために必要な三要素であると筆者は言う。

しかし、今まで、この三つに関して言えば、「理論」よりも、「経験・カン」が、「システム」よりも「要素技術」が、そして「ソフトウェア」よりも「ハードウェア」が重きを置かれてきたのが日本なのである。

「それはそれで、捨てがたい日本の良さである、なんとかそれを生かして、日本独自の技術で世界に打って出よう」というような言い方は、耳障りがいいが、逆に、そういった考えこそが、今後、日本が捨てなければならない思想なのかもしれない。



最後に、この本の中に書いてあった面白話が一つ紹介したいと思う。

戦国時代に、西洋から鉄砲と同時に、時計が輸入された。当時、日本人は競って鉄砲の模造品を創り、またたく間に、世界一の鉄砲生産国となった。しかし、一方で、時計の方は、西洋では、その技術を応用して自動機械が作られ、後のコンピュータへと繋がっていった。しかし、日本では、時計の技術は、カラクリ人形を経て、文楽の世界へ応用されていったというのである。



これをほのぼのとした日本のオリジナリティを称えるエピソードとして捉えるべきなのか、日本における技術のガラパゴス化(あるいは退化)の一例と捉えるべきなのか。



答えは既に出てはいるのだが、僕はまだ、前者に軍配を上げたくなる呪縛のようなものから、いまだ、自由ではない。



まさむね

2012年7月17日 (火)

キースリチャーズは、下手であり続けても、それをコンプレックスとは思わない図太い感性において、メチャクチャカッコいいのだ。

ザ・ローリングストーンズが50周年を迎えたらしい。

先日、TBSの夕方のニュースで、独占インタビューを少し流していた。

僕は、基本的にはビートルズ派だったが、高校時代には、既にビートルズは解散していたので、リアルタイムミュージシャンとしてはストーンズ派でもあった。



「メインストリートのならず者」「山羊の頭のスープ」「イッツオンリーロックンロール」「ブラック・アンド・ブルー」「サムガールズ」といったアルバムが毎年のように発売されていた。

70年代の話である。

ただ、正直、僕の肌感覚で言えば、その頃は、ストーンズよりも、レッドツェッペリンやクィーン、ELP、ディープパーブル、ロッドスチュアート、ウィングスなんかの方が人気があったような気がする。ストーンズというのは、音楽的というよりも、どちらかといえば、スキャンダラスなイメージの方が先行していたからだ。当たり前の話ではあるが「ブラウンシュガー」とか「シスターモーフィン」っていうようなドラッグソングは、日本の中産階級の中高生が聴いてわかるような世界じゃないよね。

それでも、僕は、ストーンズの悪魔的な魅力に取り付かれていて、あのベロマークのついたTシャツが欲しくて、下北沢とか原宿とか歩き回ったという思い出がある。でも、結局見つからなかった。今から思えば、まったく、ショボい話である。



そのローリングストーンズが、いまや、50周年を迎えるという。しかも、最近、ストーンズバーというアルコール飲料も発売されていて、「Rocks Off」がテレビから流れたりすると隔世の感がするのは僕だけではないかもしれない。



じゃあ、ストーンスの魅力って何だ?かつて、ユリイカの「ローリングストーンズ特集」があったとき、坂本龍一先生は、「あの、ドッ下手の下手さがいい。」というようなことを言っていた。また、つい先日、ラジオで萩原健太さんも、こんなことを口にしていた。

「普通、50年もギター弾いていたら上手くなっちゃいますよ。でもキースっていまだに下手。絶対に、上手くならないような努力をしていに違いないww。彼はロックというものを表現するために真面目にそこに向っているんですよ。」

面白い見方、さすが萩原健太さんだ。



確かにそうである。キースは、下手であり続けても、それをコンプレックスとは思わない図太い感性において、メチャクチャカッコいいのだ。

おそらく、多くの人が彼の真似をしようとして、あの微妙にずれるギターリフは、誰も出来ていはない、と僕は思う。



まさむね

2012年7月16日 (月)

もしかしたら次の横綱は妙義龍かもしれないと思う今日この頃

名古屋場所も中日(なかび)を終え、優勝の行方はいつの間にか、そして、いつもの通り、白鵬を中心とした展開になっている。

確かに、初日の豊ノ島戦や先日の栃煌山戦など、一瞬ヒヤリとさせられる場面があったり、3日目から5日目まで連続叩き込みで勝利するなど、かつての白鵬に比べると、安定感という意味で衰えを感じさせなくもない取り口ではあるが、それでも現時点で8勝0敗。これは、「さすが!」というべきなのだろう。

そんな白鵬にピタリ並走しているのが、日馬富士である。多くの解説者も指摘されているが、今場所の日馬富士は体が一回り大きくなったように感じられる。しかもスピードは以前のままだ。確か、昨年の名古屋場所は賜杯を手にしている。彼にとって、名古屋は験のいい場所なのかもしれない。



さて、それはともかく、僕が今場所、最も注目している力士が、新小結の妙義龍である。

以前、「期待の大相撲・阪神四天王(豪栄道、栃の若、妙義龍、勢)(2011年11月22日)」というエントリーでも語ったのであるが、この力士は一目見ただけで、その身体能力の高さが感じられる。それは彼の構えの安定した低さを見れば、誰でも納得できるだろうと思う。

身長は186cmと、標準的なのだが、典型的な出尻、鳩胸体系で、特に、肩の筋肉のつき方は、力士というより、むしろプロレスラーのそれに近い。(90年代に全日本に来日していたダグ・ファーナスに近い!)

しかも、重心が低い。特に足が短いわけでもないが、若干、ガニ股のせいか、僕にはそのように見える。不思議だ。



そして何よりも、彼は独特のイイ雰囲気を持っているのだ。このあたり、言葉で説明するのは難しいのだが、古(いにしえ)の剣豪の雰囲気とでも言いいましょうか。

敢えて、妙義龍に対抗できるほどのイイ雰囲気を持っている力士を上げるとすれば、安美錦であるが、ただ、安美錦の場合は、旗本退屈男のような、その日暮らしの気楽さを漂わせているのに対して、妙義龍は宮本武蔵のような、格闘家としての、どちらかと言えば、とっつきにくい孤独感のようなものを感じさせるのである。



また、同系統の力士を歴代の名力士の中から敢えて探すならば、僕は、現NHK解説者・北の富士のライバルであったが、残念ながら夭折してしまったあの玉の海を思い出す。



ただ、こういう風に、主観的な感じばかりを述べてみてもわかりにくいので、ここで、ある数字を挙げてみたい。

以下は、ここ妙義龍が、上位に対戦する位置に上がって来てからのここ三場所の関脇以下の力士に対する勝ち負け数を現在の大関陣のそれと比較したものである。(「記録台帳 goo 大相撲」を参考させていただき、ざっと数えただけなので、若干、数え間違いがあるかもしれないこと、ご了承下さい。)

















妙義龍 琴欧洲 稀勢の里 把瑠都 琴奨菊 日馬富士 鶴竜
三月場所 6勝2敗 6勝4敗 7勝3敗 9勝1敗 7勝3敗 8勝2敗 9勝1敗
五月場所 5勝3敗 5勝5敗 7勝2敗 7勝2敗 8勝2敗 6勝3敗 6勝3敗
七月場所 4勝0敗 6勝2敗 6勝2敗 7勝1敗 7勝1敗 8勝0敗 6勝2敗
合計 15勝5敗 17勝11敗 20勝7敗 23勝4敗 22勝6敗 22勝5敗 21勝6敗
 勝率  0.75 0.61 0.74 0.85 0.78 0.81 0.77
寄押率 0.75 0.57 0.59 0.37 0.59 0.40 0.47




関脇以下の力士との対戦成績の勝率はなんと、0.75。



把瑠都、琴奨菊、日馬富士、鶴竜にはかなわないものの、琴欧洲や稀勢の里よりもいい成績である。

これは、妙義龍という力士がいかに、ミスが少ない力士であるということを現していると思う。

それは、上位には、まだ力負けしたとしても、自分と同等あるいはそれ以下の力士に対しては、かなりの好成績をおさめているということである。

また、表の一番下の欄に示したのは、その力士の決まり手のうち、寄り切り、押し出しという、いわゆる安定的な勝ち方をした寄押率(僕が勝手に命名)した目安の数字であるが、こうしてみると、妙義龍の数字が突出している。これを見ると、彼は、かなりオーソドックスに安定した力士であることもわかってくる。



そして、おそらく、この傾向は、今後はさらに磨きがかかってくるに違いない。

以前(2009年2月)、僕は、「何故、日本人横綱は出なくなってしまったのか」というエントリーで、次の横綱になる可能性が一番高いのは、把瑠都ではないかと予想したことがあったが、もしかしたら、妙義龍の方が横綱への道は近いのかもしれないとすら最近考えている。



まさむね

2012年7月15日 (日)

『桐島、部活やめるってよ』 ~全ての高校生に観てもらいたい映画~

現在、僕も関わっているNPO・映画甲子園では、映画『桐島、部活やめるってよ』の予告編を全国の高校生に作ってもらおうという企画(予告編甲子園)を行っています。



優秀作品は、映画の上映前に実際の映画館のスクリーンで上映される予定です。

作品応募の締め切りは7月末日なのですが、今から、どんな予告編が集まってくるのか大変、楽しみにしています。



さて、先日、その関係で、映画『桐島、部活やめるってよ』の試写会を見に行きました。

僕は、今までこのブログでは、"ネタバレ勘弁"というスタンスで、様々なアニメや映画について語ってきたのですが、この映画は、封切りが8月11日ということなので、今回に限っては映画のあらすじに関することは語ることが出来ません。

ただ、一言で言えば、「ゴドーを待ちながら」と「涼宮ハルヒの憂鬱」を足して2で和って、そこからSFと萌えを引いたような作品ということになるでしょうか。

などと言ってしまうと、勘のいい方は大体どんな作品なのか、わかってしまうかもしれませんが...



それはともかく、この作品は、全ての現役高校生に観てもらいたい作品だと思います。



エース・桐島がいなくなって突然、レギュラーに抜擢されるが、そこで自分の限界に直面するバレー部員。

そんな彼を心の中で応援しながら自分を重ね合わせるが何も出来ないバトミントン部の少女。

何でもソツなくこなすんだけど、どこか自信を持てないでいるイケメンの少年。

その少年に、恋心を抱き、遠くから眺めながらクラリネットの練習をする吹奏楽部の女の子。

そして、そんな同級生達からは見下されながらも、自分達が好きな映画を撮ろうとする映画部員の面々...



この映画の中には、どこの学校にでもいるような学生たちが、多角的に、そしてリアルに描かれています。

おそらく、誰しもがこの映画に登場する学生の中に、感情移入出来るような人物を見つけることができるでしょう。

そして、一方で、自分とは全く相容れないと思われる登場人物の気持ちも、どこかで理解することが出来るでしょう。この映画の面白いところはそういう創りになっているところです。



羨ましいと思っていた奴が、自分を持っていないつまらない奴だったり、今まで馬鹿にしていた奴の中に、自分にはないキラリと光るものを見つけたり...



この夏は、是非、この映画を観るために映画館に足を運んでみてください。

そこには、テレビドラマとは違った新鮮な映画的な感動があると思います。



西村昌巳

2012年7月14日 (土)

「韓流、テレビ、ステマした」が前作よりもさらにパワーアップしていた件

一本気新聞にエントリーを上げるのはなんと、2ヶ月ぶりとなってしまった。

この間、五十肩になって、突然、右手が上がらなくなってしまったのには参った。今でも、痛いことは痛いが、もう慣れた。でも、文章を書くのはまだ辛い。人からの話によると、「ある日、突然に直る」ということなので、しばらくは、この痛みと付き合っていこうと思う。



さて、今日、僕が敢えてエントリーを上げようと思ったのは、「韓流、テレビ、ステマした」という本を読んだからだ。



この本は、チャンネル桜内の「さくらじ」というトーク番組のホストとしても活躍中の古谷経衡氏の第2作目の単行本である。

前作の「フジテレビデモに行ってみた!」もそうであったが、この第2作目でも彼の文体が冴え渡っている。おそらく、現代の若手の評論家で、彼のようにユニークな文体を持っている人はほとんどいないだろう。敢えてライバルを探すとすれば「中国化する日本」の著者である與那覇潤氏くらいであろうか。

それほど、僕は古谷氏を買っているのである。その理由は、前作のレビュー(「僕が期待するのは古谷ツネヒラ氏の文体である ~『フジテレビデモに行ってみた!』を読んで~」)に書かせていただいたのでここでは繰り返さないが、「韓流、テレビ、ステマした」では、その、生得的ともいえる秀逸な文体に加え、さらに綿密な調査、論考が加わり、よりパワーアップしていることだけは疑いのないことのように思えた。



さて、僕は以前から、古谷氏の「エリートサヨクほど、差別主義者である」という論法に対して小さくうなずく者である。が、しかし、一方で、彼の言葉が実際のサヨクに対して届いていないことに対して危惧する者でもある。

彼も自覚しているように、なんだかんだと言っても、現在のマスメディアはそういったエリートサヨク的言論によって支配されている。例えば、端的に言えば、その空間では竹島は憂う対象ではあったとしても、取り戻す対象とはなっていないということだ。



僕はそんな空間に、古谷氏に突入してもらうこと、例えば、毎月末に夜を徹して流されるTBS文科系トークラジオ「LIFE」のような番組に飛び入りで参加してもらうことなどを夢想している。

おそらく、古谷氏の言論はそういった、"別のリング"で修行することによって、こそ、より揉まれ成長していくように思うのである。



彼の潜在的ターゲットユーザーは、チャンネル桜界隈に限らず、まだまだ、広い世界にいるはずだ。



そんな彼の存在を知ってほしくて、思わず、PCに向った次第です。でも、まだちょっと肩が痛い。



まさむね

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