「ものづくり敗戦」という現実を僕らは正視しなければならない
木村英紀氏の「ものづくり敗戦―「匠の呪縛」が日本を衰退させる」(日経プレミアシリーズ)はいささか、衝撃的な本だった。
かつて、そして今でも、日本のお家芸だと思われていた「ものづくりの精神」が、誇るべきどころか、逆に今後、世界市場で戦っていくために必要なソフトウェア製作の足かせになっていくという話だからである。
確かに、何年も一つの鍛錬して得られるような特殊技術、あるいは、プロジェクトX的な人々の血のにじむような人々の刷り合わせの団結力。そういったものに、僕ら日本人は、どこかでプライドや美徳を感じてきた。
しかし、この本では、日本人が美徳とするそういった「匠の技」は、実は今後、世界で戦っていく科学技術の世界には不要なものだというのである。
逆に、これからの科学技術の主流となるであろうソフトウェア技術に必要なのは、一定の知識さえあれば誰しもが、理解できるし真似の出来るようなロジックであり、システム思考なのだ。そして、それは、「匠の技」の対極にある、普遍的なものなのである。
この本では、日本が、大東亜戦争に負けたのは、兵器の量ではなく、質において劣っていたからだと、繰り返し述べている。
これもちょっとしたショックだった。僕らは敗戦の原因は質ではなく量だと教わってきたが、実は、その教えは、気休めに過ぎなかったということがこの本に書かれていたからである。いや、それは、気休めと言うよりも、結果としては「ものづくりでは負けていない」という神話を温存するためのウソだったということですらあったのだ。
戦争当時、日本は大量生産、大量消費に最適化されたマニュアル化された生産システムを持っていなかった。ゼロ戦にしても、戦艦大和にしても、三八式歩兵銃にしても、それらの武器の優秀さは、質が高く、豊富な個々の技術者達の勤勉さと熟練した手先の器用さに依存していたというのである。それがゆえに、日本の武器生産の現場では合理的なシステムは排除され、それに変わって、「大和魂」なる精神論が跋扈したのである。
しかも、恐ろしいのは、それが決して、戦中(の失敗)だけの話ではないということである。合理的な生産システムは、実は現代の日本においても、重要視されておらず、いまだに、「匠の技」が第一といわれているような、いわゆる「ものづくり神話」の呪縛に囚われているのではないかという?のが筆者の見立てなのであった。
(また、筆者は、戦後の高度成長時代、日本人の「匠の技」が生かされるような労働集約的なものづくりが、鉄鋼、自動車、家電といった工業部門で多いに生かされたは、ある意味、ラッキーであったとする。)
確かにそうかもしれない。僕にも心当たりがある。今から20年前、僕はソフトウェア技術者であった。しかし、その世界では全く成功しなかった。
僕は論理的にプログラムを組むよりも、コードの美しさとか、オリジナリティにこだわるような、利己的で三流のプログラマだったからだ。
しかし、それは、僕だけではなかったような気がする。多くの同僚達も、コードの書き方は自己流であった。しかも、公開したがらなかったし、ましてや、後輩に教えたがらなかった。
そんなこと、ソフトウェアにとって、ほとんど意味のないことなのであるが、多くの同僚達は、どこかで、匠の技術の呪縛に囚われていたのかもしれない。
よく、日本人は集団主義だという言い方をすることがあるが、実は、日本人は個人主義的なところもある。そんな時、僕が思い浮かべるのは、鎌倉時代末期に、あの元が攻めてきたとき、元の集団戦法に一人づつ挑んでいった武士達の姿である。
ちなみに、僕は、その名残で、いまだにvim32を使って自己流の秘儀を楽しんでいるのだ(ご興味のある方は「UNIX思想の流れを汲むvim32のちょっとした使い方講座」を参照してください)。それはただの自己満足なのであるが、それでも止められないでいる。
「理論」「システム」「ソフトウェア」。
この三つは、今後、世界市場で日本の技術がかつての栄光を取り戻すために必要な三要素であると筆者は言う。
しかし、今まで、この三つに関して言えば、「理論」よりも、「経験・カン」が、「システム」よりも「要素技術」が、そして「ソフトウェア」よりも「ハードウェア」が重きを置かれてきたのが日本なのである。
「それはそれで、捨てがたい日本の良さである、なんとかそれを生かして、日本独自の技術で世界に打って出よう」というような言い方は、耳障りがいいが、逆に、そういった考えこそが、今後、日本が捨てなければならない思想なのかもしれない。
最後に、この本の中に書いてあった面白話が一つ紹介したいと思う。
戦国時代に、西洋から鉄砲と同時に、時計が輸入された。当時、日本人は競って鉄砲の模造品を創り、またたく間に、世界一の鉄砲生産国となった。しかし、一方で、時計の方は、西洋では、その技術を応用して自動機械が作られ、後のコンピュータへと繋がっていった。しかし、日本では、時計の技術は、カラクリ人形を経て、文楽の世界へ応用されていったというのである。
これをほのぼのとした日本のオリジナリティを称えるエピソードとして捉えるべきなのか、日本における技術のガラパゴス化(あるいは退化)の一例と捉えるべきなのか。
答えは既に出てはいるのだが、僕はまだ、前者に軍配を上げたくなる呪縛のようなものから、いまだ、自由ではない。
まさむね
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