モノを表現するという過剰さについて
先日、竹熊健太郎さんにお会いしたときに紹介していただいた岩井澤 健治さんの「福来町、トンネル路地の男」です。
5分弱の作品なのですが、三年間、シコシコと書き続けたということです。本当に凄い作品ですね。
こういう過剰な作品に出逢うと、僕も、なんか、頑張ろうと思います。この一本気新聞の有名人の家紋コーナーも2000人を突破しましたが、過剰というにはまだまだです。目標は当面、3000人です。僕はモノをクリエイトする才能に欠けているので、足で稼いでデータベースを作ることに専心したいと思っています。
過剰といえば、先日、日馬富士の優勝で終わった秋場所。一番一番を過剰なまでに相撲を取りきる舛ノ山のことが思い浮かびます。彼は、他の人よりも、肺が小さいというハンディを抱えているそうですが、人一倍努力家で、他の兄弟弟子が休んでいる時も、部屋で黙々と四股を踏んでいるそうです。また、中学の頃は、フィリピンのスラムの雨が降ると雨漏りがするような家に住んでいて、その頃から家計を助けるためにアルバイトをしていたとのこと、そういった過剰な物語性をも持っています。
それにしても、取り組み後、花道を引き上げていく、息を切らすその姿は、伝わるものがあります。この力士は、本当の意味で、土俵上で死んでもいいと思いながら相撲を取っているのではないかと、想像させます。先場所は前頭六枚目で9勝したので、来場所はもしかしたら、横綱との対戦も期待出来る番付となるかもしれません。本当に楽しみです。
デフレの現代、モノを作るという事がどんどん、割りに合わなくなってきています。ビジネスとしてやっているのであれば、売上げと経費を計算に入れるのは仕方のないことかもしれませんが、それでもせっかくモノを作るのであれば、他人の記憶に残るようなものを創りたいと思うのは、クリエーターの本能のようなものです。あるいは、それを逆から見れば、自分の中の過剰なものを排出したいという欲なのかもしれません。
そうであれば、マーケッティングが透けて見えるような商業主義の範囲でモノを作るのではなく、先ほどご紹介したアニメのようにそこからはみ出す過剰なゾーン(ある意味、レッドゾーン)で作るものに僕らの興味はどんどん移っているようにも感じます...。
いや、そんな単純な話ではないかもしれません。ビジネスの範囲であっても、ももクロや舛ノ山のように過剰なパフォーマンスをすることは出来ますし、あるいは、「エヴァ」のように破綻そのものがまた、ビジネスになることもありますしね。
まさむね
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