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カテゴリー「テクノロジー・ビジネス」の38件の記事

2011年12月23日 (金)

橘紋 -桜とは好対象、生命力と長寿の象徴- 井伊直弼、小和田雅子、北島康介...

かつて、平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て右には橘の樹、左には桜の樹があった。
この二本の木は、一般に、右近の橘、左近の桜と対比されたという。

桜はどこか死の匂いがする樹木であるが、一方の橘は、その葉が寒暖の別なく常に生い茂っていることから生命力や長寿の象徴とされた。
戦前、昭和天皇が、「桜が花も葉も散ることから潔く散る武人の象徴となってきたのに対し、常緑樹の橘はいつ見ても変わらないことから永遠を表すのものであり、永遠であるべき文化の勲章としては橘の方が望ましいのではないか」、という趣旨の意見を出し文化勲章のデザインが桜から橘に代わったという逸話がある。

橘紋の分布は全国では9位。桜紋よりも圧倒的に浸透している。
元々、橘という植物は柑橘類で、紀伊半島、四国、九州の海岸に近い山地に自生しているが、橘紋も和歌山県、高知県で3位、奈良県、広島県、宮崎県で4位とやはり橘が自生している地域に広く分布している。
特に、黒岩涙香、幸徳秋水、弘田龍太郎、朝潮など、高知県人の多さが目立つ。

また、歴史上で、橘紋と言えば有名なのは、日蓮である。

彼は、1222年の安房国長狭郡東条郷片海の小湊で誕生。
比叡山で学び、後に「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め立宗宣言し、日蓮宗の開祖となった。
そのため、日蓮宗関係の寺院では、この橘紋を使用するとところが多い。
写真は、芥川龍之介谷崎潤一郎が眠る慈眼寺の寺門の井桁に橘紋を撮影したもの。ちなみに、日蓮宗系の立正佼成会の関連施設である佼成学園の記章にも橘紋が使用されている。

また、奈良飛鳥地方に、聖徳太子生誕の地・橘寺があるが、そこの寺紋も橘紋だ。
そもそも、日本書紀によると、この橘とは、田道間守(たじまもり)という人物が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を求めて持ち帰った種をまいて芽が出てきた植物であった。
そして、その種をまいた地を橘と呼ぶようになっとのこと。
その橘寺には、聖徳太子が乗ったという黒駒像があり、胴に橘紋がついている。

日蓮、山中鹿之助、井伊直弼、黒岩涙香、荒木貞夫、勝新太郎、花形敬、石井紘基、江川卓、橋下徹、北島康介、中川翔子...なんとなく、元気で意志の強い系譜を感じさせる。

さて、橘紋を持つ有名人は以下。




小寺政職 。1517年 - 1582年、 武将。
播磨御着城主・小寺則職の子として誕生。読みは、こでらまさもと。黒田孝高の進言を受け織田信長に従ったが、後に毛利家に呼応して織田家に反旗を翻す。家紋は藤橘巴紋。顔画像はNHK大河ドラマ「黒田勘兵衛」で小寺政職を演じた片岡鶴太郎。


前田玄以 。1539年 - 1602年7月9日、 僧侶・武将・大名。
美濃国出身。前田基光の子。読みは、まえだげんい。比叡山延暦寺に入ったが織田信長に招聘されてその家臣となる。後陽成天皇の聚楽第行幸時は担当奉行として活躍。豊臣政権における五奉行の1人であり、丹波亀山藩の初代藩主。


山中鹿之介 。1545年9月20日 - 1578年8月20日、 武将。
出雲国能義郡に生まれる。尼子氏の家臣。 本姓は源氏。家系は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門である。尼子氏が衰亡していく中、御家再興のため、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという。


山鹿素行 。1622年9月21日 - 1685年10月23日、 儒学者・兵学者。
陸奥国会津出身。読みは、やまがそこう。朱子学を批判し播磨国赤穂藩へ流罪となるが、そこで赤穂藩士の教育を行う。赤穂藩国家老大石内蔵助も門弟の一人となる。主著は『中朝事実』『武家事紀』。その軍学は、後に吉田松陰らに多大な影響を与えた。


銭屋五兵衛 。1774年1月7日 - 1852年12月31日、 海運業者。
加賀国出身。朝倉氏の末裔を称する。両替商のほか醤油醸造・古着商などを手広く営む家系。蝦夷地や択捉島ではロシアと通商するなど密貿易を行い巨万の富を得る。河北潟の干拓・開発工事を請け負うが失敗。結局は獄死し、財産没収・家名断絶された。


井伊直弼 。1815年11月29日 - 1860年3月24日、 大老。
近江国犬上郡出身。第13代彦根藩主・井伊直中の十四男として彦根城で出生。安政の大獄により多数の志士や公卿らを粛清。尊攘派の怨嗟をうけ水戸、薩摩藩浪士により江戸城桜田門付近で暗殺された(桜田門外の変)。画像は菩提寺・豪徳寺にて撮影。


小中村清矩 。1822年1月22日- 1895年10月11日、 日本史学者。
江戸麹町出身。原田家に出生したが、小中村家の養子となる。読みは、こなかむら きよのり。小中村家の出自は石清水八幡宮の神職。明治維新後に、東京大学の講師となり『古事類苑』編纂に従事。家紋は丸に橘紋。画像は、谷中天王寺墓地にて撮影。


福岡孝悌 。1835年3月3日 - 1919年3月7日、 家老、政治家。
土佐国出身。藩士の子弟。読みは、ふくおかたかちか。吉田東洋の影響下、藩政改革、土佐勤王党弾圧を行う。また薩摩藩との間に薩土盟約を締結。五箇条の御誓文の草案作成に関与。家紋は丸に九枚橘の葉(九枚茶の葉)紋。画像は染井霊園の墓所にて。


沖牙太郎 。1848年5月10日 - 1906年5月29日、 技術者・実業家。
安芸国沼田郡新庄村出身。読みは、おききばたろう。実家の農業を嫌い27歳で銀細工師の腕を資本に上京、工部省で電信技術に携わる。我が国で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した。明工舎(沖電気の前身)創業者。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


黒岩涙香 。1862年11月20日 - 1920年10月6日、 作家、報道記者。
土佐国安芸郡川北村出身。読みは、くろいわるいこう(黒い悪い子)。『萬朝報』を創刊。紙名には「よろず重宝」の意味がかけられていた。幸徳秋水内村鑑三高浜虚子らが参画し、一時は最大発行部数は30万部を誇る。画像は総持寺の墓所にて撮影。


宮崎湖処子 。1864年10月20日 - 1922年8月9日、 詩人、小説家。
筑前国下座郡三奈木出身。本名は宮崎八百吉。読みは、みやざきこしょし。徳富蘇峰に認められ民友社に入社。小説『帰省』を刊行。国木田独歩らと詞華集『抒情詩』を編集。代表作は『まぼろし』。家紋は藤輪に菊座橘紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


末永純一郎 。1867年4月6日 - 1913年12月31日、 報道記者。
筑前国出身。父親は旧福岡藩士で、住吉神社神官、国学者、歌人の末永茂世。読みは、すえながじゅんいちろう。陸羯南三宅雪嶺福本日南らが創刊した『日本』新聞の記者となる。また、孫文らの活動を支援。家紋は丸に三つ盛菊座橘紋。


幸徳秋水 。1871年11月5日 - 1911年1月24日、 思想家。
高知県幡多郡中村町に生まれる。本名は幸徳傳次郎。中江兆民の門弟となり黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となる。後に無政府主義に傾き大逆事件(幸徳事件)」において逮捕され翌年に死刑判決を受ける。家紋は紋付姿写真より丸に橘紋と判断。


荒木十畝 。1872年10月5日 - 1944年9月11日、 日本画家。
長崎県大村出身。読みは、あらき じっぽ。本名・朝長悌二郎。象徴主義的作風から、やがて精神性を強く打ち出した優美な絵画世界を構築した。代表作は「秋江水禽図」「せいけん」「黄昏」など。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


小林一三 。1873年1月3日 - 1957年1月25日、 実業家。
山梨県巨摩郡出身。読みは、こばやしいちぞう。阪急電鉄や宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。政治家としても活躍し、商工大臣、国務大臣、戦災復興院総裁を歴任。家紋は丸に橘紋。


本因坊秀哉 。1874年6月24日 - 1940年1月18日、 囲碁の棋士。
東京府出身。本名は田村保寿。読みは、ほんいんぼうしゅうさい。家元本因坊家の21世で終身名人制の最後の名人。法名は日温。引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し選手権制の本因坊戦創設に導く。家紋は三つ葉橘。画像は巣鴨・本妙寺にて撮影。


市村羽左衛門(15代) 。1874年11月5日 - 1945年5月6日、 役者。
東京府出身。本名は市村録太郎。屋号は橘屋。旧福井藩主で幕末には幕府政事総裁職を務めた池田絲とフランス系アメリカ人との混血。当時を代表する美男子でその美貌から花の橘屋と呼ばれた。家紋は根上り橘。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


荒木貞夫 。1877年5月26日 - 1966年11月2日、 陸軍軍人。
東京府多摩郡出身。旧一橋家家臣・荒木貞之助の長男。読みは、あらきさだお。皇道派の重鎮であり昭和初期の青年将校のカリスマ的存在。犬養内閣・斎藤内閣では陸軍大臣を務める。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


武林無想庵 。1880年2月23日 - 1962年3月27日、 小説家。
北海道札幌市出身。本名は磐雄、後に盛一。読みは、たけばやしむそうあん。妻・文子が交際のあった男に発砲される事件で世間の話題となる。代表作は「ピルロニストのやうに」「第十一指の方向へ」。家紋は丸に抱き橘紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


中野正剛 。1886年2月12日 - 1943年10月27日、 政治家。
福岡県出身。父は旧福岡藩士中野泰次郎。読みは、なかのせいごう。東京日日新聞、朝日新聞で政治評論を行う。政治家になってからは東條首相の独裁に反対。倒閣工作を謀った容疑で憲兵に拘束され自殺。家紋は丸に中陰地紙に橘紋。画像は多磨霊園。


柳家小さん(4代) 。1888年4月18日 - 1947年9月30日、 落語家。
東京府出身。本名、大野菊松(後に平山に改姓)。得意ネタは『二十四孝』『ろくろ首』『三軒長屋』。新作落語の創作にも力を入れ、『創作力のない者は、噺家ではない』という言葉を残している。家紋は丸に彦根橘紋。画像は谷中・本寿寺にて撮影。


木村兵太郎 。1888年9月28日 - 1948年12月23日、 陸軍軍人。
東京府出身。終戦直前には軍司令官としてビルマに駐在していたが英軍の進攻を聞くと唐突にラングーン放棄し方面軍の指揮命令系統を大混乱に陥し入れた。最終階級は陸軍大将。終戦後A級戦犯として絞首刑に処された。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


弘田龍太郎 。1892年6月30日 - 1952年11月17日、 作曲家。
高知県安芸市出身。児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると「赤い鳥運動」に参加。北原白秋等と組み多くの童謡を作曲した。代表作は『鯉のぼり』『浜千鳥』『春よこい』『叱られて』など。家紋は丸に橘。画像は谷中・全生庵にて撮影。


井伏鱒二 。1898年2月15日 - 1993年7月10日、 小説家。
広島県福山市加茂町出身。本名は井伏満壽二。読みは、いぶせますじ。『ジョン萬次郎漂流記』で直木賞、『本日休診』で第1回読売文学賞小説賞を受章。主な作品は「山椒魚」「駅前旅館」「黒い雨」。画像は青山・持法寺にて撮影。


永澤邦男 。1899年11月21日 - 1972年4月9日、 法学者、教育家。
宮城県出身。フランス、ベルギーに犯罪学および刑事政策の研究者。慶応義塾塾長を務め、日本私立大学連盟の創立に参画し副会長となる。また、私立学校振興会理事となり、私学振興のため尽力。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


三遊亭圓生(6代) 。1900年9月3日 - 1979年9月3日、 落語家。
大阪市西区出身。本名は山崎松尾。演目数は落語史上最も多かったという。特異演目は『死神』『鰍沢』『らくだ』『淀五郎』等。NHK連続ドラマ『おはなはん』に出演。バカウマという言葉を流行語にする。画像は烏山・永隆寺にて撮影。


高橋掬太郎 。1901年4月25日 - 1970年4月9日、 作詞家。
北海道根室市出身。北海道の国後島で漁師の息子。「酒は涙か溜息か」で作詞家デビュー。その後も、昭和の名曲を数多く手がけた。代表曲は『船頭可愛や』『ここに幸あり』『古城』『足摺岬』等。家紋は丸に橘紋。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


嵐寛寿郎 。1902年12月8日 - 1980年10月21日、 俳優。
京都府京都市木屋町出身。本名は、高橋照一。祖母の経営する料理旅館「葉村屋」に預けられた。戦前映画界の大衆のヒーロー。代表出演作は『鞍馬天狗』『明治天皇と日露大戦争』等。家紋は丸に蟹橘(蝶橘)紋。京都の聖光寺にて撮影。


火野葦平 。1907年1月25日 - 1960年1月24日、 小説家。
福岡県遠賀郡若松町で沖仲仕「玉井組」を営んだ玉井金五郎の長男。本名は玉井勝則。『糞尿譚』で芥川賞を受賞。『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』の「兵隊3部作」はベストセラーとなった。家紋画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に橘紋。


高橋竹山 。1910年6月18日 - 1998年2月5日、 三味線名人。
青森県東津軽郡中平内村小湊生まれ。本名は高橋定蔵。一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者。演歌歌手北島三郎が歌った『風雪ながれ旅』のモデル。高橋家の家紋は丸に橘紋。ただし、自身のマークとして竹輪に根笹紋を使用。


宇治達郎 。1919年11月25日 - 1980年11月27日、 医師。
埼玉県出身。読みは、うじたつお。東大病院の副手の時、オリンパス光学工業技師の杉浦睦夫、深海正治とともに、胃カメラを世界ではじめて完成させた。吉川英治文化賞を受賞した。家紋は丸に橘紋。画像は、さいたま市普門院の墓所にて撮影。


貝谷八百子 。1921年3月15日 - 1991年3月5日、 バレエダンサー。
福岡県大牟田市出身。読みは、かいたにやおこ。東京バレエ団を結成し『白鳥の湖』全幕を日本初演、主役を務めた。日本バレエ協会副会長や、全日本舞踊連合の理事などの要職も務めた。紫綬褒章受賞。家紋は上がり藤に橘紋。画像は多磨霊園にて撮影。


神風正一 。1921年10月19日 - 1990年5月15日、 大相撲解説者。
香川県大川郡三本松町出身。本名は、赤沢正一。読みは、かみかぜしょういち。二所ノ関部屋所属の元大相撲力士。最高位は関脇。引退後、NHKの大相撲中継の解説者となる。文芸評論家・小林秀雄も神風解説のファンだったという。家紋は丸に橘紋。


入野義朗 。1921年11月13日 - 1980年6月23日、 作曲家。
ウラジオストク生まれ。海外の現代音楽を日本の音楽界に紹介することに尽力。代表著作は「シェーンベルクの作曲技法」「十二音音楽とは何か」。死後、入野賞、入野義朗記念賞が設けられた。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


ジョージ川口 。1927年6月15日 - 2003年11月1日、 ドラム奏者。
京都市出身。本名は川口譲二。終戦直後、松本英彦中村八大、小野満と共にバンドビッグ4を結成して活躍。大衆的人気を誇った。越路吹雪のバンドロイヤルポップスオーケストラのドラムとしても活躍。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


花形敬 。1930年 - 1963年9月27日、 ヤクザ、安藤組大幹部。
中学校を自主退学。国士舘中学校では、後の住吉会住吉一家石井会会長・石井福造と番長争いを演じた。安藤組組長・安藤昇に最も可愛がられた。前科7犯、22回の逮捕歴がある。素手喧嘩(ステゴロ)と呼ばれ喧嘩に武器は一切持たない主義であったという。


三橋美智也 。1930年11月10日 - 1996年1月8日、 演歌歌手。
北海道函館市近郊の上磯町出身。本名は北沢美智也。春日八郎村田英雄らとともに戦後日本を代表する流行歌手。代表曲は「古城」「哀愁列車」など多数。三橋美智也の家紋は丸に三つ引両紋だが、小平霊園の北沢美智也の墓には丸に橘紋がある。


勝新太郎 。1931年11月29日 - 1997年6月21日、 俳優。
東京府出身。長唄三味線の杵屋勝東治の次男。本名は、奥村利夫。妻は二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映の女優・中村玉緒。兄は若山富三郎。代表作は『兵隊やくざ』『座頭市』『悪名』等。家紋は菊座橘。画像は蓮乗寺にて撮影。


池坊専永 。1933年7月21日 - 、 華道家。
京都出身。華道家元四十四世池坊専威の長男。妻は衆議院議員の池坊保子。元々池坊の坊名は聖徳太子が水浴したという池にちなむという。国際科学技術博覧会で「いけばなと着物の交響詩」で舞台用の超大作を制作。画像は鎌倉・東慶寺にて撮影。


江副浩正 。1936年6月12日 - 2013年2月8日、 実業家。
大阪府大阪市出身。読みは、えぞえひろまさ。日本の実業家。特例財団法人江副育英会理事長。株式会社リクルートの創業者。「リクルート事件」の贈賄側人物として知られ、執行猶予付き有罪判決を受けた。家紋は、割り橘紋。


マシオ駒 。1940年5月18日 - 1976年3月10日、 プロレスラー。
東京市世田谷区出身。本名は駒秀雄。早稲田実業高校時代は野球部に所属(同期に王貞治)。1972年、ジャイアント馬場が日本プロレスを離脱すると馬場に合流し、全日本プロレスの立ち上げに参加。若手の指導を行うようになる。家紋は丸に橘紋。


石井紘基 。1940年11月6日 - 2002年10月25日、 政治家。
東京市世田谷区出身。菅直人田英夫らと社会民主連合を結成。羽田内閣において総務政務次官に就任。自由連合や新党さきがけを経て民主党の結党に参加。国会の爆弾発言男と呼ばれていたが、世田谷区の自宅駐車場で刺殺された。家紋は丸に橘紋


梅若万三郎(3世) 。1941年 - 、 シテ方観世流能楽師。
梅若万三郎 (2世)の長男として出生。本名万紀夫。1997年、大阪文化祭本賞受賞。2001年、三世梅若万三郎を襲名。第一回日本能楽団欧州公演に加わって以来、積極的に海外公演を行っている。家紋は丸に橘紋。画像は品川・海晏寺の梅若家墓所にて撮影。


魁傑將晃 。1948年2月16日 - 、 元大相撲力士。
山口県岩国市に生まれる。本名は西森輝門。日本大学文理学部中退。最高位は大関。引退後は放駒を襲名。日本相撲協会理事長(第11代)。幕内通算成績:367勝304敗4休 勝率.547。幕内最高優勝2回。家紋は丸に橘紋。


山本譲二 。1950年2月1日 -、 演歌歌手。
山口県下関市出身。所属事務所はジョージ・プロモーション。北島三郎ファミリーの旗頭的存在。『みちのくひとり旅』で第23回日本レコード大賞ロング・セラー賞を受賞、さらにNHK紅白歌合戦の初出場も果たした。家紋は丸に橘紋。


三遊亭圓楽(6代) 。1950年2月8日 - 、 落語家。
東京都墨田区出身。本名は會泰通。円楽一門会所属。還暦を迎える2010年2月に師匠の名跡である6代目三遊亭圓楽を襲名。1977年8月から「笑点」の大喜利に出演している。家紋は、圓楽一門の定紋である三ツ組橘。(六代目三遊亭圓生と同じ形)


江川卓 。1955年5月25日 - 、 元プロ野球選手、野球解説者。
福島県いわき市生まれ、栃木県小山市育ち。作新学院高等学校のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回を記録。六大学野球では、法政大学で、通算47勝は史上2位、完封数17はリーグ記録。プロでは巨人所属で1981年に投手五冠に輝く。


朝潮太郎(4代) 。1955年12月9日 - 、 元大相撲力士。
高知県安芸郡出身。本名は 長岡末弘。近畿大学で2年連続してアマチュア横綱のタイトルを獲得。高砂部屋に入門。最高位は大関。北の湖に強かった。531勝371敗33休。幕内最高優勝1回。現在は7代目高砂親方として横綱・朝青龍を育てた。


夏目雅子 。1957年12月17日 - 1985年9月11日、 女優。
東京都出身。六本木の輸入雑貨商・亀甲屋の娘。旧姓は小幡。本名は、西山雅子。代表出演作はドラマ『西遊記』、映画『瀬戸内少年野球団』など。27歳の若さで突然亡くなる。家紋は丸に橘紋。実家の小幡家の家紋は亀甲に小の文字紋。


徳仁親王妃雅子 。1963年12月9日 - 、 皇太子徳仁親王の妃。
東京都出身。外務省職員の小和田恆・優美子夫妻の長女として外務省職員を経て、1993年6月9日、皇太子徳仁親王との結婚に伴い、皇太子妃となる。2001年12月1日、敬宮愛子内親王を出産。日本赤十字社名誉副総裁を務める。家紋は丸に橘紋。


橋下徹 。1969年6月29日 - 、 政治家、タレント。
東京都渋谷区幡ヶ谷で幼少期を過ごす。テレビ番組「行列のできる法律相談所」でタレント弁護士としての地位を獲得。知名度を利用し政治家に転進。大阪府知事(民選第17代)、大阪市長(第19代)を務める。日本維新の会代表。家紋は丸に橘紋。


友近 。1973年8月2日 - 、 お笑い芸人。
愛媛県松山市出身。本名は、友近由紀子。吉本興業所属。桜田淳子、藤原紀香、工藤静香など、多数のものまねネタを持っている。家紋の丸に橘紋は2012年8月放送の『やりすぎコージー・都市伝説特集』(テレビ東京)にて自分の家紋について告白した。


琴光喜啓司 。1976年4月11日 - 、 元大相撲力士。
愛知県岡崎市出身。本名は田宮啓司。読みは、ことみつきけいじ。佐渡ケ嶽部屋所属。最高位は東大関。通算成績:571勝367敗50休。幕内最高優勝:1回。2010年野球賭博事件で解雇される。敬宮愛子内親王のお気に入り力士としても有名だった。


上松範康 。1978年3月1日 - 、 作曲家、編曲家。
長野県南安曇郡穂高町出身。読みは、あげまつのりやす。数多くのアーティスト、アニメ・ゲーム関連作品に楽曲を提供。水樹奈々の19thシングル『深愛』でウィークリーチャート2位を記録。家紋は丸に橘紋。画像はTwitterで公開した自家墓所の家紋。


北島康介 。1982年9月22日 - 、 競泳選手。
東京都荒川区出身。実家は西日暮里・道灌山通りの精肉店「肉のきたじま」を経営。アテネ五輪北京五輪100m平泳ぎ、200m平泳ぎの金メダリスト。また、100m及び200m平泳ぎの元世界記録保持者。画像は実家・北島商店名物のメンチカツサンドの橘紋。


中川翔子 。1985年5月5日 - 、 女性アイドル、マルチタレント。
東京都中野区出身。本名:中川しょうこ。2002年にミス週刊少年マガジンに選抜。日本武道館ワンマンライブ「中川翔子 超貪欲☆まつり IN 日本武道館」を開催。家紋は丸に橘紋。画像は父親・中川勝彦の墓所(谷中・常在寺)にて撮影。


豪栄道豪太郎 。1986年4月6日 - 、 大相撲力士。
大阪府寝屋川市出身。本名は澤井豪太郎。高校では高校横綱、世界ジュニア相撲選手権大会無差別級優勝など11個の個人タイトルを獲得。小結・両国の境川部屋に入門。高校卒業を待たずに2005年1月場所に初土俵を踏む。最高位は関脇。家紋は丸に橘。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





2011年5月 6日 (金)

コンテンツビジネスに関して(山野車輪様)

山野車輪様



いつもTwitter上でのやりとりのお付き合いをしていただきまして、ありがとうございます。

Twitterでは、どうしても140文字制限があり、説明が不十分になってしまうため、場所を自分のブログに移動して、お話をさせていただきます。



はじめに自分が今まで、どういうことをしてきた人間なのかということを簡単に記しておきます。

そのほうがお話が伝わりやすいと考えるからです。



1959年生まれ

    小学校、中学校時代はの趣味:手塚治虫、マンガ

1976年 高校入学

    趣味:ビートルズ、洋楽

1984年 大学卒業

    趣味:ニューアカ関連の読書

1984年 コンピュータソフトウェア会社に入社

    趣味:プロレス、映画

1993年 映画・ゲーム会社に転職

1996年 フリーのゲームディレクタ、プログラマ

2000年 プロレス関連の会社に入社

    趣味:日本の歴史、家紋

2006年 携帯サイト運営関連の会社に入社(アイドル関連のサイトの運営)

2010年 

    春に『家紋主義宣言』(河出書房新社)という著作発表。

    東京ゲームショウでコスプレイベントに関わる。




さて、そのような趣味、経歴の中で、僕なりに本を読んだり、考えてきたことをお話いたします。

Twitter上でやりとりさせていただいたことと重複する点は多いのですが、再度、整理をしてみたかったので書かせていただきます。ご容赦下さい。



まず、おたく論からです。僕は岡田斗司夫さんと同年代ということもあり、おたく論に関しては、かなり影響を受けています。たとえば、90年代だったかと思いますが、岡田さんはおたくの位置づけとして以下のような定義をされていました。



あるジャンルを好きになるには3つのタイプがある。



1)ファン・・・対象がただ好き、いわゆる普通の人。例:阪神が好きで毎日、甲子園に通うような人。

2)マニア・・・グッズなどを収集するのが好き、コレクター。例:切手収集家、DVDを2セット購入するような人。

3)おたく・・・情報で遊ぶのが好き、深読みするのが好き。例:自費雑誌出版編集長、業界通、2チャンネラー。



3つのタイプには上下はない。ただ、その人の資質に基づく分類で、それぞれが重なっている部分も多い。





これはあくまでも僕の記憶で書いているため、微妙なところで違っているかもしれないこと、ご了承下さい。

さて、その図式が、ゼロ年代に入ってから、ここ10年位の間で変化してきたというのが、『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書)という著作の主旨になります。

そこに書かれているのは、かつて、おたくというのは貴族であったということです。そして、貴族というのは、自分が知識を持つことによってあるジャンルにメチャクチャ詳しい人々です。勿論、彼らは何の利害関係もなくても、そうしてしまいます。

その意味で、そのジャンルに関わる事に関しては、とにかく押さえておくという意味で、90年代位までは、彼らは消費者としても、業界に対して多大な貢献をしていたと言えるでしょう。



ところが、ゼロ年代に入ると、ネットから情報がほぼ無料/無制限で入手出来るようになりました。

ということは、今まで、貴族たらんとして情報収集してきたおたくが持っていた知識の価値が暴落してしまいました。

それはそうですよね、ネットで検索すれば、数秒で取り出せる情報を、苦労して、頭に入れておくというのは費用対効果が悪すぎますよね。そこで、おたく層は、脱落、あるいは、どんどんとライトな方向にシフトしていきました。



と同時に、カタカナのオタク層が台頭してきました。「萌え」といわれるようなジャンルを偏愛する人々です。

そして、世間的にも、こういう人をオタクと呼ぶ言い方が定着し、現在に至っています。(僕自身、このオタクの生態に関しては正直言って、専門外です)



おたく・・・特定ジャンルのあらゆる情報を収集するタイプ。ジャンルの対象はSF、アニメ、電車等多岐。

オタク・・・ずばり、萌えジャンルを偏愛する人。



これは岡田さんが便宜的に定義したおたくとオタクの違いです。実は、彼によるとこの二つは、全く違うものと考えたほうがいいということです。

オタクでおたくの人もいれば、オタクだけど、おたくじゃない人もいるということ、先ほどの3つの分類をかぶせて言うならば、オタクの中には、マニアとおたくが混在しているといえるかもしれません。



さて、このような状況の中で、おたくはどんどん大人化(高年齢化)していったというもう一つの変化がありました。

そうするとどうなるのかというと、おたくは、純粋に作品を楽しむだけでは満足できない、あるいは、そのレベルでは他者とコミュニケーション出来しにくくなってくるということです。

そして、他者との共通言語を求めて、業界寄り、裏話、ビジネス視点での話に興味を持つようになりました。

確かに、ほとんどの大人は、プライベートではおたくだとしても、普段は、ビジネスの話をしているので、作品を語るときもどうしても、「儲かっているかどうか」「どういうマーケッティング戦略で売ろうとしているのか」等で語ってしまうのは仕方が無いことでしょう。

そしてたとえば、「まどか☆マギカ」で言うならば、ゲーテの「ファウスト」に出てくるメフィストときゅうべいの共通点と相違点は何か?とか、第6話に出てくるマザーグースの詩の深層について、等というようなことは、他者との会話ではなかなか話しづらくなってきます。共通の教養が前提とされないと、それは極めて個人的な興味範囲の話になってしまうからです。

一方、それよりも、「まどか☆マギカ」のDVDがAmazonのTop10のうち、6商品も占めているね、というような話題の方が普遍性を持つということです。

僕は、おたくの高年齢化が、おたくが段々と、経済系、業界系、マーケッティング系にシフトしてきた理由の一つだと思っています。

また、山野さんが言われた「経済を見れば作品の作りを理解しやすい」というのも確かにおっしゃるとおりだと思います。



それゆえに、かつてのように、教養がコミュニケーションの大前提となっていた時代はもう終わってしまったと思っています。岡田さんの言葉を借りて言えば、貴族おたくの死ということになるかもしれません。



また、山野さんは、「マンガ産業論」の出現が、経済系の増大に大きかったとおっしゃっていましたが、おそらく他のジャンルでもこの頃(90年代~00年代)には、ビジネス視点=プロデューサ視点で作品を語るというのがメジャーになってきたと思います。

たとえば、プロレスはアニメに比べて一時代早く、高年齢化が進んでいたので、80年代にはすでに、週刊ファイトという新聞があり、そこでは、試合内容よりも、興行の成績や、レスラーのギャラなどの業界ネタが詳しく書かれていてファンの気持ちを捉えていました。

また、アイドル界でも、ゼロ年代に入ると、コンサートが終わった後、出口のあたりにたむろって、「今日のコンサートの反省会」をするようなファンが増えていきました。そこでは、普通のファンが、「あの曲のセンターにあの娘はきついんじゃないか」等というようなまるでプロデューサや演出家が考えるようなことを、真剣に議論する姿が目に付きました。

AKB48の成功の一因にはそうしたプロデュース感覚で楽しみたいファンに、さまざまな情報をディスクローズしたことじゃないかと思っています。



ここで簡単に整理したいと思います。



80年代のおたく・・・教養に基づく、作品の深読み

90年代以降のおたく・・・高年齢化によっる、業界系、マーケッティング系おたくの増加

00年代のおたく・・・ネット発展によって、さらに業界系、マーケッティング系おたくの増加




さて、このような状態の中で、いわゆるコンテンツ産業は変質していきました。

こんどは、コンテンツ産業の歴史という視点で振り返ってみます。



70年代・・・子供向けでコンテンツ産業成立。カラーテレビ普及。テレビアニメ全盛。マンガ雑誌も全盛。

80年代・・・好景気、コンテンツ産業は発展。ビデオデッキの普及。コンテンツの大衆化→セグメント化の時代。

90年代・・・好景気継続。作品数の増加。個別ターゲットに向けたマーケッティングの時代。PS等ゲーム機普及。

ゼロ年代前半・・・DVD再生機の普及に伴う活況。クロスメディア全盛(TV、劇場放映で宣伝。DVD、グッズで回収)

ゼロ年代後半・・・コンテンツ業界にかげり。SNSの普及。新しいビジネスモデル模索。




これで見ていただくとわかるのですが、それぞれの年代で、新しいハードウェア(テクノロジー)が発明され、普及していったということが見て取れます。

80年代のビデオ、ゼロ年代のDVDが特にパッケージの普及に貢献したといえるでしょう。しかし、ゼロ年代の後半は、DVDプレイヤーの普及も一段落し、ネット時代となってしまいました。新しいハードによるパッケージの好況は、これから訪れることはあるのでしょうか。



さて、そんな状況も踏まえつつ、僕は、昨今の行き詰まり状況の原因は以下だと考えます。



1・・・不況(日本社会全体の構造不況)

2・・・コンテンツの量産(多作時代による、食い合い)

3・・・ネット時代(情報が簡単に入手、携帯普及=通信費増大よるユーザーの財布圧迫)

4・・・貴族おたくの減少(知識の価値の暴落)

5・・・マニアへの経済的圧迫(メーカーによる搾取)





ようするに、複合的な要因で、コンテンツ産業は落ち込んでいるんですね。

勿論、不況によって、若者の可処分所得が減っているというのも一つの大きな要因でしょう。

しかし、安価にすれば、コンテンツが売れるのかといえばそういうわけでもないですね。

お米や灯油などの生活必需品とは違って、コンテンツはただでも不要なものはだれも見向きもしません。

一方、メーカーや出版社は売上げを確保するために、作品本数をどんどん増やして行き、一本あたりの売上げはどんどん減っていきました。



また、一方で、こういった業界は憧れの対象となるため、就業者(クリエーター)は、薄給でも我慢しつづけ、労働環境はなかなか改善されなかったという側面もありました。クリエーターこそがもっとも濃い消費者であると考えると彼らの貧困はそのまま業界の貧困とつながっているのです。



さらに、ネット時代となり、コンテンツはクオリティが低ければ無料で享受できるという環境がそろってしまったということも、業界の衰退に拍車をかけました。

先ほども書いたように、すでに90年代から、業界系おたくは発生していたのですが、その流れが、ネットの発展でさらに加速し、従来のおたく層に大打撃を与えました。

ネットによって、貴族おたくの存在価値が減ってしまったのです。そして、今まで、貴族であり続けたいがためにコンテンツを消費していた人々の消費が停滞してしまったのです。

そして一部の貴族おたくは、経業界系へと移行し、消費はしないが業界には詳しいという層に変質していきました。ちなみに、この頃、コスプレが流行りだしますが、これは、それまで知識という中身を誇っていたおたくが、外見で誇るレイヤーにとって代わったという人もいます。

もちろん、ここ数年の経済語りブーム(新自由主義を背景とした)というのも、経済系おたくの増加の背景にあるかと思います。そういえば、80年代のおたくはほとんど、経済やマーケッティングの話などしなかったように記憶しています。売れる売れないよりも好き嫌いの方が大事、売れなくてもいい作品はあるという思想の方がかつては強かったように思いますが、昨今は、売れた作品しか語られない時代になったといえるかもしれません。



さて、それと平行して、作り手側のメーカーは、売上げ維持のために、さらに固定客であるマニア向けに作品を出荷し、彼らの財布を圧迫するようになり、結果として市場をさらに縮小させてしまいました。

おそらく、マンガ界で言えば、巨匠作品のシリーズ化という流れがシンクロしているのでしょう。雑誌社はリスクを回避するために、ヒットシリーズを継続化するというのは短期的なマーケッティングとしては正しいのでしょうが、長い目で見るとファンを減少化させてしまいます。いわゆる脱落ファンはその後、マンガ喫茶に走り、BookOffでコンテンツが回るようになってしまいます。そうすると、クリエーターにお金が還流するという流れが中間搾取されて動脈硬化を起こしてしまいます。それまで雑誌は、赤字でも宣伝→単行本で黒字化というビジネスモデルにかげりが出てきたということです。

そして、その副作用として新人の台頭が抑制されてしまっているということは山野さんが、ニコニコアニメ夜話(第28回放送 お題作品 『徹底主張!ど~なる!?日本の漫画業界・第一部』)さくらじ#13 「若者奴隷」時代 "若肉老食"社会の到来等でも語られている通りかと思います。



とはいえ、作品に対する欲求水準がこれほど高まってしまった現在、メーカーは作品クオリティを安易に落とすことも出来ず、その分は、クリエーターにしわ寄せが行き、彼らはさらに疲弊するという状況になっているというのが生産現場の悲惨な現状ではないでしょうか。



さて、それでは、今後、コンテンツ業界はどうしたらいいのでしょうか。

どのようにすれば、コンテンツ産業を再び活気ある市場に戻すことが出来るのでしょうか。

大きな方向としては、僕は下記の4つの可能性を考えています。



1)コンテンツの海外展開・・・これから成長する市場への進出。

2)ソーシャルメディアを活用した収益システム・・・薄く広く収益を上げるシステムの構築

3)国家による支援・・・大多数のクリエーターが利益を享受できる支援政策

4)キャラクタ化権の活用・・・活用する側が活用しやすい仕組み





1)に関して言えば、どのようにローカライズするのかという問題もありますが、アメリカ、欧州、中国といった成熟しつつある市場というよりも、ブラジルやインド、アフリカといったまだまだ子供が増えていく市場にどう食い込んでいくかが大事になるでしょう。言い方は悪いですが、子供のうちから日本テイストのコンテンツを刷り込むというのが大事になるでしょう。

ただ、それらの国ではどうしてもDVDの不正コピーなどという問題が多発してビジネスの足をひっぱるというようなことが考えられます。実際、小室哲哉さんが大陸で失敗したのはそのせいだと言われています。ただ、それならば逆に、DVDの不正流通で知名度を上げ、イベント、やコンサートで収益を上げるというモデルも考えられます。最近では初音ミクの3次元コンサート等も行われていますが、二次元コンテンツの3Dライブを輸出することも近い将来、期待できるかもしれません。



2)に関しては、具体的にまだはっきりとした道は見えていませんが、たとえば、SNS上で作品を提供し、そこで多くのファンが、少しづつ寄付(お布施、会費納付)をしていくようなシステムが出来るはずです。これに関しても、日本だけでは、パイが小さいし、そもそも寄付文化が貧弱なので全世界的なシステムにする必要があるでしょう。

ちなみに、現在、ネットでのPV収益は1PVで0.25円程度なので、民放のように広告費で製作費をまかなうのは、現時点ではつらすぎます。



3)はターゲッティング政策になるので、新自由主義的観点からすれば批判されるかもしれませんが、たとえば、韓国のコンテンツ委員会の成功を見るにつけ、一概に批判は出来ないように思います。以前、麻生さんが策定した国立メディア芸術総合センター(国立マンガ喫茶)構想がありましたが、個人的にはポシャッちゃったのは大変残念でしたね。

また、先日、Twitterでもお伝えしたように、ブラジルでは、アニメ振興策をしており、一話だけ国家が支援、二話以降は海外でファイナンスしてもらい、出来た作品は国営放送が買い取るというシステムを採用しているという話を聞きました。この方法がベストかどうかはわかりませんが、なんらかの支援策は絶対に必要だと思います。

もちろん、ここでは、いい作品と悪い作品に対する支援はどう区別するのか、業界団体の人間関係は既得権益化しないか、などということも起こりうる問題として考えておかなければなりませんね。

ちなみに、支援策といえば、コンテンツに対してではないのですが、もしかしたら、ベーシックインカムは若いクリエーターにとっては、福音になる可能性があると思っています。農業の個別補償がアリなのに、アニメーターの個別補償はナシというのは理論的にはおかしい話ではないでしょうか。



4)に関しては、現状、コンテンツ業界の多くが、パチンコという「半博半遊」システムに依存しているという面があります。これはまとまった収益が見込めるという意味で、版権元にとっては、一面で、美味しいビジネスであり、仕方が無いところもあるのですが、反面、多くのファンの嘆きを生んでいるのも確かです。僕も現時点では消極派です。

ただ、僕は権利元というよりも権利を使用する側にとって、より使い勝手のいい版権の売り方はないものかと考えています。たとえば、僕がかかわっているコスプレイベントでの話ですが、JASRACのようなキャラクタ使用料システムを作るとか、重賞の時だけ、アニメキャラクタ名もサブネームとして使用する競馬馬がいたり、自衛隊機が経費で戦車の名前にキャラクタ名を使用できるようにするとか...ちょっと考え中です。



あと、最後に、本論とはあまり関係が無く、しかも身も蓋も無い話ですが、少子化の現代、それに反比例して、クリエーターの数が多すぎるのではないかと思っています。

というのも、かつてなら、自分がクリエーターになれるかどうかは、学生の頃になんとなくわかったと思うのですが、現代では「個人の可能性は無限大」的なイデオロギーがあり、周りが見えず、というか止めてくれる人もいないまま、厳しい道に進み、ニッチもサッチも行かなくなる人というのも多いように思われます。ようするに、分をわきまえるという当たり前のことが、出来ていない人が多いということですね。



以上、本当にザクっとした意見で申し訳ありません。今後、さらに考えていきたいと思っておりますのであいまいな点、勘違いしている点などもあるかと思いますが、ご指導いただければ幸いです。



まさむね

2010年11月28日 (日)

「Galaxy Tab」のCMのズレ方と孫正義の運命

先週あたり、Twitter上でホリエモンが、久留米大学附設高校の先輩である孫正義氏に噛み付いたという小事件が話題となった。



「そんなことよりソフトバンクの基地局増やしてくれよーとか思ってしまうんですけど。。。iPhone電波悪すぎ」

「光の道とかじゃなく、そこに労力割けよって話」

「iPhoneじゃなかったらSB回線になんか絶対!しないもんな」



それに対して、孫正義氏は、こう答えたという。



「電波は私の命をかけて必ずドコモを超える。見ていて下さい」

「命がけで取り組める事が有る人生は幸せな人生だ」



なるほど。これはこれでちょっとしたネタとして面白い。

それに対して、docomoが最近ははじめた渡辺謙が出演している「Galaxy Tab」のCMがズレすぎていて唖然としてしまった。片や、SB回線の遅さ、つながらなさが話題になっている一方で、渡辺謙にこのCMでこう言わせているのだ。

「遅くなるかもしれない。いや、遅くなる...」



勿論、このセリフの文脈は回線のスピードの話ではない。しかし、スマートフォンのCMにこのフレーズは禁句ではないのか。どういうセンスをしているのであろうかdocomoは。あるいは余裕?



話は変わるが家紋主義の僕は孫正義氏のiPhoneの裏が凄く気になっているのだ。

韓国から帰化した孫氏ゆえに、家紋はお持ちでないのだろうが、坂本龍馬の熱烈ファンとして、ソフトバンクのマークを海援隊の二引にしたまではいいとして、敢えて、桔梗紋というのはちょっと嫌な予感がしているのである。

太田道灌、明智光秀、山県大弐、坂本龍馬、大村益次郎など、英雄的な桔梗紋者は全て「刺されて」亡くなっている。

また、川上眉山、大辻司郎は自殺、野呂栄太郎は獄死...

いろいろと敵も多いと聞く孫正義氏、大丈夫か。





さらに関係ないが、このdocomoのCMにでてくる「渡辺謙の主人」の岡田将生クン。

Canonの新プリンターのCMにも登場。

新しいポスターは紋付姿で、胸には石持ち地抜き三つ兎紋が、僕はこうした細かい演出が大好きだ。

もう、来年は兎年か。



まさむね

2010年9月20日 (月)

オタクサマー2010も終わった 〜僕のコスプレ論〜

東京ゲームショウ2010も終わり、僕のオタクサマー2010も終わった。



実は、僕は今回の東京ゲームショウ2010のコスプレイベント関連の仕事をさせていただいていたのだ。

今まで、何度かイベントにかかわったことはあったが、今回は規模、内容ともに僕にとって刺激的で画期的なものとなった。

とにかく、多くの方に足を運んでいただいた。

今年の東京ゲームショウは過去最高の20万人を動員したというのだから凄い。



ゲームというジャンルがどちらかといえば、世間の目に触れにくくなったり、過去数年の間に、例えば、バンダイのゲーム部門がナムコが統合したり、ハドソンがコナミの完全子会社になるというように業界の再編が進み、どちらかといえば停滞期に入った感のあったゲーム業界。

さらに言えば、PCのネットゲームでは、お隣の韓国に、またソーシャルゲームでは中国系ゲームメーカーに主導権を取られるなど、今ひとつ元気がなかった日本のゲーム業界ではあるが、観客動員数を見るかぎり、お家芸としての底力はまだまだというところを感じさせてくれたのが、今年のゲームショウだったのではないだろうか。



そして、今回僕が関わらせてもらったコスプレ。ほんの数ヶ月前までは、別世界の話だったが、スタジオハードデラックスの高橋社長と出会ったり、ワンフェス世界コスプレサミットコミケなどを通して、徐々に僕の中で大きな存在となっていった。



今回、コスプレイベント(17日のコスプレカンファレンスと18日のコスプレダンスナイト)で大きな役割を果たした道斎忠明氏(通称ジャッキー道斎)によると、コスプレというものは、ユーザー各人がゲーム(あるいはアニメ、マンガといういわゆるオタク文化)から受け取った多大なインパクトに対する感謝の気持ちを表現したものではないかと言う。

つまり、文化人類学的に翻訳して言えば、ゲームから受けた”わけのわからない”<贈与の一撃>によってユーザーの内面に溜まった過剰物(マルセル・モースがいうところのハウ)を、表現することによって吐き出しそうとた一形態がコスプレという現象なのである。

だから、彼らの姿には「愛」が溢れているのだ。ゲームから受け取った愛情をクリエイター達に投げ返すと同時に世界に発信する。こうした一連の愛情の連鎖がコスプレ文化だと僕はいささかロマンチックに捉えたいのだ。



様々なコスプレイベントに顔をだして思ったのは、コスプレイヤー達の「各人が影響を受けた作品を自らに憑依させて体全体で表現した混沌とした愛情」を受け取る役割・つまりカメラ小僧(と言っても年齢上限は不明)の存在の重要性だ。

一般に、オタクなどと言われて日陰者の印象もある彼らだが、おそらく学生、社会人としてはそれぞれ持ち場でご活躍されているのだろう。たまのハレの日に、恋人や奥さんに隠れてカメラ片手に、「愛情交易の広場」にやってきているのだと僕は想像する。

彼らは本当に礼儀正しい。メチャクチャな人ごみの中でもほとんどの方々はルールを守り、そしてコスプレイヤー達に声をかけて「写真を撮らせていただく」という態度がすがすがしい。ここでは、見ず知らずの人たちが、ファッションとカメラという二つのツールを通して精神を交流させるのである。

そして、そんな交流の儀式には暗黙の作法がある。そうしないと憑依神=コスプレイヤーというわけのわからないものを扱うのにはあまりにも危険だからだ。逆にいえば、その作法を守るものだけが、この儀式に参加できるのである。

おそらく、日本人は世界の中でもシャイな民族の一つだと思う。そんな日本人独特の作法に守られたハレの日の精神の交流こそ、このコスプレイベントなのだと思わず言ってみたくもなる。また、さらに加えれば、その交流の隠し味(実は露骨)がエロスだということだとするならば、それは、まるで現代の「歌垣」なのかもしれないと...



一方で、大きく行き詰った日本経済の突破口の一つとして、ビジネス界が、こういった新しい交流や絆化の動きを活用しようとするのはある意味、自然の動きだとは思うが、現状、少なくとも意識的には一人一人のコスプレイヤーはそれぞれのコスプレ感を持っていて、市場ターゲット化としてまとめようとするのも時間がかかりそうだ。望遠鏡で見れば、「コスプレ」という言葉でひとくくりに出来るものでも、近寄って顕微鏡で見てみると、そこには無数のトライブ(部族)が存在しているのである。

今回、東京ゲームショウでは、幕張メッセの「やすらぎのモール」に大きな背景画(通称、バックドロップ)を設置して、それぞれのコスプレイヤーにそれを使っていただこうという企画をしてみた。もちろん、松本城のバックドロップの前では戦国系ゲームのコスプレイヤー、プロジェクトDIVAのバックドロップの前では初音ミク系のコスプレイヤーに喜んで使っていただいたようにも見受けられたが、逆にそれを避けて、打ちっ放しのコンクリート前でしか写真を撮らせないコスプレイヤーも多かった。

彼女、彼達は自分達の頭の中のイメージに合えば使ってくれるし、そこから1mmでも離れたものだと興味も示さない、逆に邪魔なのだ。そのあたりの複雑さをも感じることが出来た。

また、ゲームショウに来られるコスプレイヤーはゲームのキャラになりきって自分が好きなゲームの最新版を試しに来るのが楽しいのだという意見も聞かれた。

おそらく、コスプレイヤー達は、自主発生的に生まれてきただけに、マスコミやマスビジネスに対して一定の距離を置きたがっているようにも思える。彼らは決してマスメディアの思うようには動かないし、利用されることを拒み続けるのだ。

もしかしたら、コスプレとは、極めて現代的な反体制的、あるいは非資本主義的なホットムーブなのかもしれない。



さて、最後になるが、シナの古典『荘子』の中にこんな話がある。その昔、混沌(こんとん)という神様がいた。その神様には目や鼻が無かった。ある日、その混沌が寝ている間に、友人が目と鼻をプレゼントした。そうしたら朝、起きたら、混沌は死んでいたというのだ。

つまり、混沌とした状態はそれだから生き生きしているのであって、それを秩序立てようとすると、すぐに死んでしまうセンシティブな「生き物」なのである。コスプレという混沌を資本社会という秩序が取り込もうとする時、死なないように目鼻をつけられるのだろうか。



僕が今回のゲームショウの会場を走り回りながら、考えていたのはそんなことだ。



まさむね(西村昌巳)

2010年8月26日 (木)

与えよ、さすれば与えられん

この間、知り合いのSさんにお会いした。Sさんは自ら情報戦略研究所を立ち上げて長くコンサルテーション等の仕事をされている、業界では著名な方だが、ここではSさんのイニシャル名に留めておきます。

お会いしたのはご相談したいことがあってだったのだが、いろんなご指摘を頂戴して「なるほどなぁ」と思うことしきりであった。さすが百戦錬磨、厳しい時代を自ら生き抜いてこられた方の言葉だけに重みがあります。そのいくつかをここで紹介してみたい。

「大事なのはRich Experience(豊かな経験)を与えることができるかどうか」

 時代はもうソフトでもハードでもなく、あるメディアならそのメディアを提供することによってユーザーにどんな経験をしてもらいたいのか、どんな可能性(実現のイメージ)に誘いたいのか、いわゆるRich Experienceを経験してもらいたいのか、だということ。

アップルにあって日本企業にいま決定的に抜け落ちているもの、それが多分この視点だと思います、ということ。日本の多くの企業は、単なるハード屋かソフト屋に終わっている、あるいはそういう役割に甘んじてしまっている。人が求めているのは経験であって、単なるモノではないはず。

そして高邁なこころに高邁なものが宿るのです。スターバックスだって自分たちのことを単なるコーヒー屋だと思っているのではない。彼らの社員教育の徹底ぶりもすごいが、彼らはコーヒーを飲むことが世界の平和につながるという信念でビジネスをやっているのですよ。そこまで行かなきゃビジネスじゃありません。


「奪うのではなく、与えること」

いまの日本人の心性・心持はとても小さくなってしまった。みんな与えることをしないで、少ないパイから分捕ることばかり考えるようになっている。死亡老人の遺族による年金分捕りも然り。そしていま流行の中国頼みの姿勢も基本は同じで、みんな中国から分捕ることしか考えていないようだ。

でもこれは絶対にうまく行かない。中国人もしたたかだし、それよりもなによりも互いに与え合うことのなかで共に享受することを志向していかない限り、物事はぜったいにうまく行かない。いつか破綻する。だから単に中国からいかに分捕るかばかりを考えている現在のビジネスの多くはやがてうまく行かなくなるだろう。


「古いものや大きくなりすぎたものがやがて停滞して壊れるのはいい」

それは当然だから。問題は新しいものが生まれてこないこと。誰も正しいリスクをとらず新しいことにも挑戦しようとしないことのほうがはるかに損失なのです。


そして最後にSさんはこうおっしゃった。

「よしむねさん、ある程度の年齢になれば、どれだけ人に与えてきたといえるかでその人の価値は決まりますよ。いままでよしむねさんのおかげで育ててもらいましたといえる人をどれだけ持っているか、です。与えることが結果として相手から与えられることにつながるのです」

これにはぼくも答える術がなかった。グーの音もなかった。まったくおっしゃる通りだし、はたと自分の来し方を考えたときに、いままでぼくはどれだけの人になにかを与えることができただろうかと思ったからだ。「よしむねさんのおかげで育ちました」なんて言ってくださる殊勝な方がいるだろうか? だいいちぼくに与えられるものがあるだろうか?


疑問だ。だけどまだ遅くないか? これからぼくはもっと与えることを学んでいかなければならない、というよりもとにかく与えること、応援すること、そう強く思った。与えよ、さすれば与えられん、たとえ与えられなくても。



よしむね

2010年8月12日 (木)

日本は価格差だけではなく質でも中国にかなわない!?

先日、会社の仕事でシマンテック社に、ノートンユーティリティの件で電話をした。インストール台数や有効期限、自動更新、アンインストールなどの質問だ。

電話をすると、まず、新製品へのバージョンアップのナレーションが流れた。こちらがそんな用事で電話したわけでもないのに、無償とはいえ、そんな告知はちょっと迷惑だ。しかも、そのナレーションでURLまで言い出すのだ。このURLをメモする、あるいはその場でPCに入力する人はいないだろう。そのためにわざわざ問い合わせに電話しているのではないのだから。

このあたり、いかがなものかと思った次第だ。次にナビダイヤルを経由して女性のオペレーターが出た。こちらの質問を聞いて、ぶっきらぼうに別の電話番号を教えられた。ちょっとがっかり。また電話しなおして、一から説明しなければならないからだ。



しかたがない。その教えられた電話番号に電話した。通常の呼び出し音とは違う。明らかにどこかに転送している。「アレッ」と思ったが次に出てきたのは、明らかに外国人(多分、中国人)の説明員だった。たしか、王さんとか言ったっけ。王さんという名前は中国では最も多い名前の一つだ。

僕は驚いた。その王さんが大変、丁寧な口調で日本語を話すのだ。もちろん、ネイティブではないことはすぐにわかる。しかし、ちょっとでも答えがモタモタするだけでも、常に、「大変、お待たせして申し訳ありません」と言うのだ。

しかも、一つの質問が終わると、「他に何かご質問はございませんでしょうか。」と繰り返す。

自分もかつて、サポート電話の対応をしたことがあるが、正直なところ、いかに先方に早く納得してもらい話を済ませる(電話を切る)のかがテーマだった。

しかし、この王さんは違った。

彼女に「他のご質問は?」と言われると、次々と別の疑問が出てくるから不思議だ。そして、電話を切ってみると僕はかなりすっきりした気分になった。

最後の王さんは、「これからそちらに、本日の私の対応がいかがだったかのアンケートを送りますのでお答えください。」と言っていた。おそらく、このアンケートの集計が査定などに関係してくるのであろう。

シマンテック社も長年のサポート業務の蓄積がこういったシステム(ノウハウ)を作り上げたにちがいない。



現在、日本の産業の多くが中国に移転している。同じことをさせるのであれば、コストの安い海外で対応させたほうがいいに決まっている。しかし、多くの日本人は、顧客対応というフェーズではまだまだ、中国人は日本人のきめ細かさ、誠実さ、優しさ、思いやりという点で劣っているに違いないと思っていると思う。実は僕もそうだった。

しかし、当たり前の話だが、「誠実さ」のインセンティブが働くようなシステムにしていれば、中国人だって、すぐに日本人に追いつく。いや、ハングリー精神がある分、日本人よりも優れた対応をするようになる。



シマンテック社のサポートを受けて、日本の産業の劣化は決して価格だけの話ではない。ある意味、自信を持っているはずだったサービス業のクォリティに関してもそうなりつつあるのではないかとちょっと不安な気持ちになった。



まさむね

2010年8月 4日 (水)

ワールドコスプレサミット成功の影で考えた

先週末、名古屋の栄、オアシス21で開かれたワールドコスプレサミットに行ってきた。

僕のオタクサマー、第2弾イベントである。

この栄という街は、名古屋の中心街、だからコスプレイヤーに混じって普通の人々もこのイベントに足を運んでいる。

しかも、テレビ愛知の主催だから、おそらくテレビでも相当、パブっていたのであろう。街全体が自然にコスプレをイベントとして楽しんでいる様子がうかがわれた。

例えば、地下鉄に乗ると、普通にコスプレイヤーがいたりするのである。これは楽しい。



先日行ったワンダーフェスティバルが幕張という地ということもあって、集まった人々が真性オタク、一方コスプレイヤーはベテランが多かったのに比べると、このワールドコスプレサミットは、いい意味で庶民的で、若々しい、しかも、国際的。このあたりのゴッタ似感が名古屋っぽくて素晴らしい。

イベントは、昼間の普通のダラダラとした撮影会と夜のグランプリとあったが、僕は昼間はちょっとだけ見て、100歳双子のカタワレ=ぎんさんの墓参りに行ってしまった(結局、墓は見つからなかったけど)が、夜のグランプリはばっちり楽しんだ。

予選を勝ち抜いた各国のコスプレイヤーが、寸劇をするのだが、お国柄が垣間見れて楽しかった。

芸術的なフランスチーム、まるで京劇な中国チーム、アクロバチックでしかも、LEDを駆使した韓国チーム、ワイヤー的なもので空中浮遊したブラジルチーム、造詣の凝り方では一番だったタイチーム、分りやすさと日本語の上手い(当たり前か)日本チーム、どれも素晴らしかったが、結局は、リモコンで人形を動かしたイタリアチームがそのアイディアで頭一つ抜けて優勝。

審査員長の古谷徹氏が、「コスプレは世界を一つにする」と言われていたが、それもまんざら絵空事でもないように感じたのはその場の雰囲気があまりによかったからだろうか。

      ★

しかし、ワールドコスプレサミットが盛り上がる一方で、昨今の日本のオタク文化の足元の衰退はいかんともしがたい。最近、よく、そんな話を聞く。

本大会の審査員の一人である高橋信之氏もオフレコだが、「あと10年もすれば、アニメ産業における日本の地位は、中国や韓国に抜かれるだろう。」と話されていた。

日本におけるアニメーターの待遇があまりにも劣悪だからだ。彼らはその才能を生かす以前に、社会人として生きていく環境にない。ぶっちゃけた話、仕事のハードさの割には給料が安すぎるのである。

同様の話は、ちょっと前に竹熊健太郎氏が漫画について語っていた言葉にも通じている。漫画界でも、優れた才能がある若者がデビューする場所がないのだ。それどころか、大手の漫画雑誌すら青息吐息の状態なのである。

また、先々週に行ったワンダーフェスティバルでも会場のブースでは中年のフィギュア造型師の姿が目立っていた。若い人々がどんどん、オタク的クリエイティブの場からいなくなっているのである。フィギュアどころか、そもそも、プラモデルの市場自体が縮小しているのだ。

さらに言えば、ゲームだって同じようなものだ。90年代の(PSやサターンなど)ハードの進歩に追いつくためにソフトウェアに多額の費用をかけざるを得なくなってしまったゲーム業界では、リスクを回避するため、シリーズ物オンパレードになってしまい、新しい試みが生まれにくくなった。その結果として、中小のゲームメーカーが軒並みギブアップしてしまった。そして、その隙にとでも言おうか、日本はオンラインゲームでは韓国(例えば、リネージュ)に、ソーシャルゲームでは中国(例えば、サンシャイン牧場)の後塵を拝するようになってしまったのである。なんということだ。



そんな足元の現状をヨソに、経済産業省では、今年の6月にクールジャパン室なるものを立ち上げてみたようだが、何もできていないのが現状だ。いや、そもそも、役所が何か出来るはずなどないのだ、この分野では。



ワールドコスプレサミットが盛り上がる中、僕はそんなことを一人で考えていた。

竹熊氏や高橋氏のように後進の育成に力を注ぐというのもありだろう、あるいは、日本のそういった文化を新しい市場に出すような輸出活動というのも一つだろう。

しかし、それらの道はまだまだ険しい、多分。



まさむね

2010年7月12日 (月)

「うる星やつら」1巻450円から漏れてくる小学館のため息

日本のコンテンツ産業は一体大丈夫なのだろうか。



インターネットの時代が本格化し、日本のコンテンツ産業では多くの分野で今までのビジネスモデルが壊れ続けている。

例えば、ゲーム業界。日本企業が全盛だった90年代の面影も薄く、現在、ネット上のゲームでいわゆる勝ち組と言われているのは主に、韓国系、中国系のゲーム会社である。

例えば、サンシャイン牧場。このゲームはmixiをプラットフォームとしたいわゆる育てゲーであるが、最初出てきたときは、これでもゲームかと思った。かつてのゲームの興奮も無ければ物語もない。ただ、毎日、野菜を育てていくゲームである。

かつて、日本の多くのゲーマーにとっては、いてもたってもいられないような、寝るのを惜しんででもやらざるを得ないようなコンテンツ、それがいいゲームであった。

しかし、おそらくそれはすでに過去の話なのかもしれない。今冷静になって、考えてみれば、たかがゲームに人生の多くの時間を奪われていたあの頃、それは一体なんだったのだろうか。逆にそんなことすら感じさせる今日この頃である。



そして、その時代、日本のゲームメーカーの多くは、儲けることよりも、いいゲームを作ることに心血を注いでいた。もちろん、この言い方は正確ではない。儲けなくてもいいと言っているのではなく、いいゲームを作れば、儲けは後でついてくるそんな「幸福な時代」があったのである。だから、ゲームのトップメーカーはマーケティング以上に、自分達の過去の実績に自信を持ち続けていたのである。

それゆえに、いいゲームはシリーズ化を重ね、ディテイルにこだわり、画面の美しさを競うようになった。しかし、それがユーザーが本当に求めていたものかどうはわからない。

そして、日本のゲームは躍動感を失い、定型に固執するようになってしまったのだ。

本来だったら、日本のゲームメーカーは、ネット時代に入った頃、最もアドバンテージを持てるポジションにあったのだが、逆に、パッケージビジネスという既得権益を選んでしまったのである。

もちろん、これは仕方の無い話だ。おそらく天才以外は、現状上手く行っている方法を捨てることなど出来ないものだからである。それに比べれば、マウス操作やGUIといった自らをビッグにしたインターフェイス=武器を軽々と捨てたスティーブン・ジョブスという人物は本当に凄い御仁である。



同様のことは、出版業界にも言える。今、出版業界は前代未聞のプラットフォームの転換時代に入っている。

しかし、僕は大手の出版社がこの時代をトップのまま生き延びるとは思えない。

例えば、小学館は電子書籍(IPhone)で例えば、「うる星やつら」「うしおととら」「名探偵コナン」など、過去の人気作を発売するというが、それが紙の単行本よりも高額(1巻450円)なのである。いまどき、BOOKOFFにいけば、100円~150円で購入出来るのにだ。



明らかに、小学館はこの電子メディアというプラットフォームで戦略を誤っている。

おそらく、作家のロイヤリティはいくら、編集者の経費がいくら、電子書籍へのコンバート代がいくら...というように経費を積み上げていった挙句が高額につながってしまったのだろう。

はっきり言って、ユーザーがどう感じるのかは二の次にしか頭に入っていないのではないか。

そして、僕らにメタメッセージとして伝わってきているのは、「あ~嫌な時代になったなぁ。本当は紙でやって行きたいなぁ」というため息でしかないのである。



前の時代の覇者(例えば恐竜)が次の時代に生き延びるというのは本当に大変なことだ。

そしてそれは、ほぼあきらかに地球が誕生してからの偉大な法則なのかもしれない。

僕はそんなことを最近、よく考える。



まさむね

2010年6月 4日 (金)

I-padは10年後の木簡だと想像させる力がこれにはある

I-Padに関する狂騒はまだまだ続いている。



1)画面が水平に置ける

2)操作がタッチパネル(キーボード不要)

3)複数人で操作できる



結論から言えば、I-Padの特徴はこんなところだ。



昨日、職場でI-Padを囲んでみんなで驚きあった。

I-Padの一番大きな特徴は、このみんなで一つの画面を見れるということにあることに改めて気づいた。



実は、そこに動いていた画面は15年前にあったCD-ROMの動きとほぼ同じだ。僕にはそれ自体は全く新しいものには思えなかった。

しかし、I-Padというマシンの上で机の上で「みんな」で見られるというのが決定的に新しい。

おそらく、I-Padは、全然新しくないものを新しく見せる魔法を有している。そこが新しいのだ。



画面が水平に置けるということとならんで、タッチパネルで操作できるというのも別に新しい技術ではない。

これもおそらく、十数年前には存在した技術だろう。しかし、複数の人間でタッチパネルを同時に操作できるというのは確かに面白い。

I-Padはその意味で、パーソナルであったPCを一瞬、「みんな」で操作できるおもちゃにした。それは、各人がコントローラを持ち、一つの画面をみるという風景とはまるで違う。

これも画期的だ。



多くの人が指摘し、僕も同意するが、今後、雑誌というのはどんどん紙から離れて、こちらに移行してくるだろう。

なぜならば、こっちのほうが数倍おしゃれだからだ。

近々、人々は紙の雑誌の読みにくいところを親指と人差し指で思わず広げようとしてしまう錯覚にとらわれるだろう。

ちょうど、ゲーマが言ってはいけない事を言ってしまった時に、リセットボタンを探してしまうように...



すると、その場にいた誰かが言った。「普通の機器というものが大体、大きなもの→小さなものという流れになるのだが、このI-Padは小さいI-Phoneから、大きくなった。この、あえて方向の逆流させたということも面白い。」確かにそうだ。これぞアメリカ的発想といえるかもしれない。

しかし、心の中でつぶやいた。小さなもの→大きなものと進化したものが無いわけではない。例えば弥生時代の銅鐸だ。つまり、実用品ではなく祭司用具ならありうるのだ。ということは、I-padとは、実用ツールの顔をした「神呼び器具」なのかもしれないと思った。じつはその時、僕の頭の中には無用の長物と化した僕と等身大のI-padがあった。



一方、I-Padはまさに未来への窓だ。しかし、僕はI-Padを囲んでワイワイ話しをしながら、さらに次の世代のことを考えさせられた。おそらく、このI-Padは、もっと薄く、軽くなり、そして、まさに紙のように折りたためて、ポケットに入るようになるだろう。

そうすると、その時代の人はI-Padを振り返って見た時に、どう感じるのだろうか。

もしかしたら、僕らが奈良時代の遺跡から出土する木簡のように感じるのかもしれない。



そうだ。I-padは10年後の木簡なのだ。僕はそう直感した。

そして、そう直感させるのも目の前のI-Padの力なのかもしれないと思った。



まさむね

2010年6月 1日 (火)

iPad狂騒を見ていると日本人の古きよき伝統を感じる

iPadの狂騒は凄い。

ネット上だけではなく、テレビでも話題はiPad一色という印象の週末だった。

確かに、画期的なツールである。多くの識者や書籍編集者もこれで紙の時代は終わったという印象を持ったのは当然かもしれない。



おそらく、確実に電子書籍の時代が来るのであろう。これはいい、悪いの話を超えた時代の流れと言わざるを得ない。



このツールが発表された当時、自分としては、マルチタスクではないこと、大きさが持ち運びに不便なことなどを理由にそれほど普及しないだろうと思ったこともあったが、多分、勘違いだった。

原理的、あるいは技術的になにか新しいものがそこにあったとも思えないが、この狂騒を見ているとiPadは確実に新しい時代を告げる象徴になったと言ってもいいと思う。



それにしても、海の向うから新しい文物がやってきて、それに対していち早く反応し、国内での文化的優位性を誇示しようと考えるメンタリティ(当然、自分自身も含めて)というのはなんと伝統的なことか。



たとえば、家紋の世界を見ても、いわゆる高貴な紋=菊、牡丹、桐などはみな海の向うの象徴のような植物だ。それらを身に着けた人々はシナの文化をいち早く取り入れることで己のステータスを誇示することが出来た層なのである。(このあたりの日本と大陸との関係の象徴としての家紋という話は6月発売予定の「家紋主義宣言」の一つのテーマです。よろ。)



おそらく、仏教伝来や遣隋使の時代、あるいはそれ以前から、日本人はこういう海の向うのものに弱い。歴史上のヒーロー、織田信長や坂本龍馬にしても、みんな海の向うへの憧れを自分の武器にしえた人物だ。こういう目をキラキラさせる人物は憎めない。

その意味で、今回の狂騒は批判的に見るというよりも、そこでみんなと一緒に日本古来のメンタリティを共有し、エネルギーを感じ、それをさらに活力に換えていくことを考えるべきだと思った。



しかし、当然のことではあるが何かを得るということは何かを失うということである。

内田樹先生もいろんなところで指摘されているが、人々がものを学ぶということで重要なことは、自分が何を知りたいのかわかっていることに関する知識を増やすことだけではなく、「そんなものがこの世に存在することさえ知らなかったような学術的知見やスキル」に不意に出くわすことという一面もある。



僕は、よしむねさんが前のエントリーのコメントで書かれているように、自分も、下記の感慨を共有する。



だけどやっぱり紙を実際に触ったり、破ったり、捨てたり、汚い字で書き込みしたり、ボロボロになるまで破片化したりしたいですよね。




確かに、それがどういう意味があるのかは明確には言えないが、体のどこかに電子書籍では味わえない「なにものかとの出会い」がそこに残っているような気がするからである。



まさむね

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