「Fate/Zero」第2期 その華麗なる登場人物達について語る
『Fate/Zero』の第二期をようやく観了した。
僕は、第一期を観た後、「Fate/Zero」の第一期はまるで世界最強タッグ開幕セレモニーだ!というエントリーをアップして、さんざん、第二期に対する期待を表明していたにもかかわらず、観了が遅れてしまい不徳のいたすところである。
さて、内容に関してであるが、期待に違わぬ大スペクタクルロマンであったというのが正直な感想。スリリングで意外な展開は、まさに傑作と呼ぶのに相応しい出来であった。
それにしても、これは虚淵玄氏の嗜好であろうか。このアニメには以下のようないくつかのメッセージがあるように思えた。
1)正義(=恒久平和)を、この世で叶えるのは不可能性である
2)カタストロフの後には希望が残る
3)他人を動かすのは理論ではなく生き様である
4)人は合理的に動けるわけではない
5)他人のために尽くしても報われるとは限らない
6)誰しもが愛すべき点を持っている
まずは1)「『正義(=恒久平和)』を、この世で叶えるのは不可能性である」というメッセージについて。
衛宮切嗣という男は、子供の頃、「正義の味方」になろうと決心する。
しかし、魔術師の血を受け継いだ彼は、そういった「正義」の意思とは裏腹に、人間を無慈悲に殺害できるという冷酷な心を持っていた。
そして、ある村を、魔術研究によって、はからずも悲劇に巻き込んでしまった自分の父親を、銃弾一発で殺してしまう。
こうして、切嗣の人生は決定付けられてしまうのである。
その後、切嗣は、多数の人間を救うためには、少数の人間を殺害することを厭わないような殺し屋として成長するのであるが、彼の思考は、マイケル・サンデルがその授業中にサンプルとして出しそうなほど、究極の功利主義的な思考であった。
そして、切嗣は、世界平和を祈念して聖杯戦争に参加し、卓越した戦略眼と冷静な采配で、難敵をしりぞけてゆく。例えば、ランサーを擁するケイネス陣営は彼の謀略によって撃破されるのである。
しかし、切嗣はこの戦争の過程で、実は聖杯というものは「この世の悪」が凝縮された存在であること、つまり、この聖杯に自分の願いを託すと、逆に世界が破滅してしまう(人類は滅亡してしまう)という矛盾に気付く。そして、サーバントであるセイバーに聖杯を破壊するように指示するのである。
僕には、聖杯を邪悪なものとする、その設定にこそ、虚淵玄氏が、「『正義(=恒久平和)』を、この世で叶えるのは不可能性である」という思想が込められているように思われた。それは、別の言い方をすれば、この世には邪悪なものは決してなくなりはしないという思想である。
おそらくそれは、「魔法少女まどか☆マギカ」において、魔女が死滅した現世にも、魔獣が残るというあの世界観と同系の発想であり、さらに、レンジを広く考えれば、この「Fate/Zero」が、"甘美な幻想が負けて厳しい現実が勝利する王道アニメの系譜(「「マクロスFRONTIER」 早乙女アルトは何故、女形でなければならないのか」参照)"にあることをも示している。
そして、セイバーによって破壊された聖杯は、その邪悪さゆえに、破壊された瞬間に汚泥を噴出させ、戦いの地・冬木を大火災に陥れてしまうという結末をもたらす。これは、切嗣の正義の戦いは、結局は残酷な破壊しか残せなかったということを意味するのであろうか。
しかし、それはあまりにも辛い結末ではないか。
それゆえ、物語はまだ続くのだ。切嗣は、破壊された冬木において、唯一生存している士郎という少年を発見する。そして、彼は、その士郎に未来を託そうとするのであった。
ちなみに、そのカタストロフの只中に、圧倒的な力を誇るアーチャーが真っ裸という情けない姿で蘇生する。思わず笑いを誘うシーンであるが、状況が悲惨であればあるほど、一服のユーモアが必要であることをこのシーンは教えてくれる。
その希望とユーモアこそが、2)の「カタストロフの後には希望が残る」というメッセージである。おそらく、この希望は、「魔法少女まどか☆マギカ」で言うならば、魔獣が残った現世で、闘い続けるほむらの希望にも相当する。
余談ではあるが、人間の歴史とは、災害とその災害からの復活の繰り返しの歴史であるとも言えるのではないだろうか。
特に、天災の多い島国、日本ではそういった歴史観は比較的自然なものであったと思われる。例えば、かつて、日本人はこの国は大きな鯰の上に乗っている脆弱なもの、というイメージ(民間信仰)を持っていた。そして、時に、その鯰は、「世直し明神」にも擬せられていた。そんな浮世絵(鯰絵)が沢山残っている。
つまり、日本人の心の中には、どこかで、「天変地異こそが、現世を変革してくれるもの」という観念があったのではないかと思うのである。それは、坂口安吾が「堕落論」で描いた日本人の楽天性にも通じている。
しかし、原発事故が起きてしまった現在、日本人のそういった観念は修正せざるをえないかもしれない。
現代人の僕らが、日本を原発に依存する社会にしてしまったということは、いつの間にか、繰り返しがきかない世界を作ってしまったということだからである。つまり、原発事故は日本人から、究極の楽天性を奪ってしまったのである。原発推進を唱える人々(特に保守主義者)は、そのあたりをどのように考えているのであろうか。
さて、僕はこの「Fate/Zero」の中で、一番、好きな陣営はどれか?と問われたら、迷わずに、ライダー陣営と答えるだろう。それはマスターであるウェイバーとサーバント・ライダー(真名:イスカンダル)の関係性が進化すること、つまり、ウェイバー自身が成長して、次第にライダーに尊崇の念を抱くようになること、また、ライダーもそんなウェイバーを承認していくこと、このアニメには、それぞれの過程が見事に描かれているからである。
そして、このライダー陣営が発するメッセージこそ、3)「他人を動かすのは理論ではなく生き様である」という命題なのだ。
自分を小馬鹿にする大学の同僚や教師に承認されたいというセコイ欲望から聖杯戦争に参加したウェイバーではあるが、最終的には、世界史の英雄であるライダー、アーチャー、そして同居の老夫婦からも、無くてはならない存在として承認を得る。
聖杯戦争から降りて、マスターではなくなるも、自信というかけがえのないものを得るウェイバーこそ、もしかしたら、この聖杯戦争における最大の勝利者なのかもしれない。
そして、ギリギリのところでアーチャーに敗れてしまうライダーではあるが、その正々堂々とした豪放磊落な生き様(魂)はウェイバーの中にしっかりと生き続けているに違いない。ライダーの、オケアノス(地の果ての海)を観たいという、子供じみてはいるが純粋な夢の力は、セイバーのような正しく立派な治者としての振る舞いからは程遠いのかもしれないが、確実に多くの臣下、そしてウェイバーを興奮させ、その生き方を変えた。ミメーシスを興したのである。
4)「人は合理的に動けるわけではない」というメッセージは、過去の(生前の)因縁を抱えているサーバント達の振る舞いが雄弁に物語っている、というのがこの「Fate/Zero」の面白いところである。
例えば、勝利のためには手段を選ばない徹底的な合理主義者である衛宮切嗣のサーバントであるセイバーは、滅びてしまったブリテン王国の復活を夢見る理想的な王であり、同時に正々堂々と戦うことにこだわる騎士である。しかし、セイバーの騎士道は、時に、切嗣の作戦を狂わせ、切嗣とセイバーの間の溝を生み出してしまうのだ。
ちなみに、同様の関係性の齟齬は、ケイネスとランサー、ウェイバーとライダーの間にも見られる。
話は少しずれるが、僕は、現代日本の多くの問題点の根っこには、合理主義(グローバリズム)と、日本人的行動規範との間の齟齬があるように感じている。「正直に生きなさい」「他人には慈悲深くしなさい」「欲は抑えなさい」「他人の嫉妬を買うような行動は控えなさい」といった日本古来の道徳観念は、実はことごとく、グローバルな経済競争で勝ち抜くためには、意味の無い価値と思われてしまっているからである。勿論、長い目で見れば、そういった道徳心は有用であると信じたいのであるが、少なくとも目先の利益を追求することを義務付けられている現代ビジネスの世界では、古来の道徳心はむしろ、邪魔ですらあるのだ。
僕らが、「Fate/Zero」を見ながら、一方で切嗣のクールな思考に憧れつつ、他方、セイバーの実直さにも惹かれてしまうのは、この物語の中に、現代社会に生きる僕らの矛盾した生き方、つまり日本人の引き裂かれた姿が比喩的に投影されているからではないかと思う。
5)「他人のために尽くしても報われるとは限らない」は間桐雁夜と、セイバーからのメッセージである。
雁夜が、聖杯戦争に参加したのは、彼が密かに愛していた時臣の妻・葵の娘の桜を救うためであった。そのために、一時は、魔術師になる道を捨てた雁夜であったが、桜が、自身の家(間桐家)の養子となり、魔術師として育てられるというということを知り、急遽、聖杯戦争に参加して、桜を救おうとしたのである。
しかし、魔術師となるにはあまりにも急であったため、雁夜にとって、聖杯戦争とは、その死と引き換えにする戦いとなってしまう。日々、衰弱していく体で必死に戦おうとする雁夜ではあったが、言峰綺礼の策略によって、葵から、夫・時臣を殺したのは雁夜であると疑われ、逆に彼女から暴言を浴びせかけられ、思わず葵の首を絞めてしまう。さらに、最期は、自分が救おうとした桜からも見捨てられてしまうのだ。
一方で、臣下や民の幸福を願って、良き王であろうとするセイバー(真名:アーサー)ではあったが、彼女を執拗に付けねらうバーサーカーの正体が、かつて自分の臣下であった凄腕の騎士・ランスロットであることに衝撃を受ける。アーサーはかつて、自分の妻と不義の関係を持った、このランスロットを、良き王であろうとする心をもって許したのであるが、実は逆に、許されたランスロットから、逆恨みを受けていたというのである。
僕は、この雁夜やセイバーの姿に、「魔法使いまどか☆マギカ」のさやかと同じような善意と裏腹の自己欺瞞を見る。さやかも、恋人の腕の再生を祈願して魔法少女となるのであるが、実はそれは、本当は彼のためではなく、自分のためであったという欺瞞に気付き、自暴自棄となるのであるが、同様に雁夜も、桜を救い出し、葵の元に返したいという心の奥底には、自己欺瞞があり、その欺瞞がゆえに、雁夜は、葵の暴言に逆上してしまうのである。
また、アーサーも、ランスロットを許すことによって逆に彼のプライドを傷つけ、怨念を抱かせてしまう。ランスロットに対する寛宥は、意識的にはランスロットを思ってのことであったとしても、実は、「良き王でありたい」というアーサーのエゴから来る無意識の自己欺瞞が、ランスロットの癪に障ったという残酷な結果なのである。
さて次に、言峰綺礼についても語っておきたい。彼は、この聖杯戦争の監督役である聖堂協会の言峰璃正の息子で、聖杯戦争の前半は、魔術協会の遠坂時臣の影のサポーターとして活躍するが、後半、時臣を裏切り、殺害。アーチャーのマスターとなり衛宮切嗣と死闘を演じる。
彼は、格闘家としては一流であり、修行に耐えうるだけのストイックな精神力も持ち合わせている。しかし、ライバル・衛宮切嗣が子供の頃から抱き続けている「正義」のために聖杯を奪取すべく、手段を選ばず合理的、戦略的に闘うのに対して、綺礼は、自分が何のために闘っているのすら、よくわかっていない存在である。つまり、その内面(存在目的)は空虚なのである。最後に、ようやく大災害の現場で己の嗜好(願望)が、破壊や醜悪なものに向いているという自覚を得るのであるが、換言すれば、そこまでの綺礼にとっての聖杯戦争とは自分探しの戦いだったということである。
この衛宮切嗣と言峰綺礼の格闘シーンは、このアニメどころか、おそらくアニメ史にも残るような出色の名シーンである。しかし、それはスペクタクルな要素を剥ぎ取ったレイヤーにおいてでも、生まれながらにして「正義」という観念に取り付かれた運命を持つ男と、目的も内面も無いがただひたすらに闘うために闘う男の戦い、つまり、まさにFate(運命)とZero(空虚)との戦いという精神戦が見えてくるところが奥深いところだと僕は思った。
さて、最後に、ここではあまり語れなかったマスター/サーバントについて。
切嗣の「起源弾」によって戦闘不能となり、結局は、切嗣の策略によって、殺されるケイネスは、確かに、ウェイバーを見下したり、聖杯戦争に勝ちたいがゆえに、神父を殺害したり、サーバントのランサーに嫉妬心を抱き罵倒するなど、醜悪でみっともないキャラではあったが、最後の最後で、自分を裏切った(ランサーのチャームによって裏切らされた)妻のソラウの命を救うために、プライドも家の名誉も捨てて聖杯戦争を諦めるという、一瞬の善人の姿を見せてこの世を去る。
また、殺人の快楽を見出す龍之介や、そのサーバントであったキャスターも、殺人狂としての自分の酔ったり、セイバーをジャンヌダルクと勘違いし続けるなど、ヒール的存在で、気持ち悪いというのも事実であるが、その動機は純粋であり、彼らの潔い死はむしろ満足感すら残した、とも言える。
ようするに、このアニメに登場するあらゆるキャラクタは、どこか、憎めない存在なのである。それどころか愛おしくさえある。それゆえに、このアニメには嫌味がない。
その点をメッセージとして読み取るならば、「6)誰しもが愛すべき点を持っている」ということにでもなろうか。
実は個人的には、その点がこのアニメの一番、好ましいところだと思っているのである。
まさむね
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