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カテゴリー「散歩」の58件の記事

2012年1月24日 (火)

薩摩人の家紋の菊化に関して

先日、青山霊園に行ってきた。目的は日高壮之丞の墓、そして家紋の撮影である。

ご存知の方も多いと思うが、日高壮之丞という人は明治期の海軍軍人であり、日露戦争直前に連合艦隊司令長官になりそこねた男として知られている。

それも、本人はヤル気満々で、しかも周囲からも彼しかいないと思われていたにもかかわらず、盟友とされた山本権兵衛によって、その職を外されしまうのだ。

そして、結果として、その職は東郷平八郎に任され、日本海海戦においてバルチック艦隊を撃退するのである。



この日高壮之丞であるが、NHKの「坂の上の雲」では、個性派俳優・中尾彬さんが演じていたので、その顔で覚えていらっしゃる方も多いのではないだろうか。



その日高壮之丞の墓であるが、散々探した挙句、ようやくみつけることができた。

ところが、その墓は、歴史的な偉人の多くが、1種ロ8号1~14側に眠っている(「有名人墓のメッカ 青山霊園1種ロ8号1~14側に眠る方々家紋一覧」参照下さい)の墓々に比べて、あるいは、多磨霊園名誉霊域という特別なエリアに眠る東郷平八郎や山本五十六の墓と比べて、質素な印象を受け、逆に、そのつつましさが好ましくも感じられたのであった。ちなみに、墓に彫られた「日高壮之丞」の名は、東郷平八郎の筆によるという。



そして、その日高壮之丞の家紋だが、割り杏葉菊に違い鷹の羽紋であった。

高澤等先生の「苗字から引く家紋の事典」によると、本貫が鹿児島県鹿児島郡の日高氏の家紋の最初に鷹の羽(丸に一つ鷹の羽、丸に違い鷹の羽)が記されていることをあわせて想像するに、日高家は、元々は鷹の羽紋であったのを、日高壮之丞の個人紋として割り杏葉菊に違い鷹の羽紋にしたのではないだろうか。

というのも、明治期の薩摩出身者の多くが、菊の葉、菊の花と別の紋とを、組み合わせた家紋をその墓に彫っているからである。

そして、このような家紋の菊化(菊と組み合わせて家紋を作ることの造語)は、この時期の薩摩人が、明治天皇に下賜されたという口伝を持つ、あの巨星の薩摩人・西郷隆盛の「抱き菊の葉に菊」の影響下にあるのではないだろうか、ということも想像させるのであった。



左から、得能良介(丸に三つ割菊に三の字紋)、松方正義(抱き菊の葉に抱き茗荷紋)、永山武四郎(丸に抱き菊の葉に剣四つ星紋)、高島鞆之助(抱き鬼柏に剣菊紋)、日高壮之丞(割り杏葉菊に違い鷹の羽紋)。









まさむね

2011年12月20日 (火)

東青梅家紋散策

先日、東青梅に行ってきました。



東青梅という場所は、23区から見ると青梅の手前で、山間の道路沿いに街並みが出てきています。

僕は初めての場所に行くとなるべく、そこの氏神や檀家寺にお参りに行くのですが、ここにある乗願寺の宗派はなんと時宗でした。

時宗の寺院は、開祖・一遍は、伊予の河野氏一族ということで、寺紋は折敷に三の字ということが知られています。



その寺紋は、門扉や天水桶などには見られませんでしたが、屋根瓦に確認することが出来ました。



街を散策すると、沢山の家紋に出会うことが出来ました。うなぎ屋の三河屋さんは丸に三つ柏紋。葉の形が標準的な柏ではなく、恵比寿神社の寺紋や、恵比寿ビールのラベルの恵比寿様ついている柏に近い三角の柏。こういう微妙なこだわりは好感をもてますね。



また、その近くに三菱のラベルがついた建物を発見。レトロな雰囲気があります。「あれは何なのだろうか」という謎を残すたたずまいが素敵です。



駅の反対側(南側)には、青梅市役所があります。うらびれた街並みにこの建物だけ立派、日本の地方都市にはよくある「格差」です。

ただ、市役所の敷地にある、腰掛のようなオブジェには梅紋のようなデザイン。ちょっとだけ微笑ましい...かな。



また、駅の近くには、丸に違い鷹の羽の家紋をつけたふたばという大衆割烹屋さんも見えました。

やっぱり街で見る家紋で一番多いのは、この丸に違い鷹紋ですね。カッコいいですからね。





というわけで、とってもユルい東青梅・家紋散策でした。

また、本文中の家紋のある場所は、以下のGoogleマップ上に登録してあります。

日本家紋地図

全国寺社紋地図



まさむね

2011年12月18日 (日)

小田原家紋散策

先日、所用があり、小田原へ行ってきました。

小田原へ行くのは久しぶりです。多分、20年ぶりくらいでしょう。



小田原といえば、戦国大名・後北条家の城下町として知られています。街には、「新・北条五代記」を大河ドラマにしようという運動があるらしく、そういった意気込みが感じられました。

ご存知、北条家の家紋は北条鱗です。街のあちこちで、北条鱗をみかけました。

例えば、駅の改札のすぐ脇の駅弁屋さん、駅前繁華街入り口にある魚介丼の「魚河岸 でん」さんにはさりげなく、北条鱗が見えます。

そして、駅前商店街の天井には、北条鱗(後北条氏)をはじめ、阿部鷹の羽(阿部氏)折敷に三の字(稲葉氏)や大久保藤(大久保氏)など、小田原城歴代の城主の家紋が並んでいて、歴史ある城下町ならではの趣向が凝らされていました。

こういった、歴史マニア向けの、"気づく人には気づく"演出というのは本当に嬉しいものですね。



さらに、足を伸ばして、市内の成願寺にまで行って来ました。ここには自民党所属の衆議院議員・河野太郎氏の祖父・河野一郎氏、そして大叔父に当たる河野謙三氏の墓があります。僕は、以前より、この河野家は、河野一族の標準的定紋、つまり折敷に三の字紋だとばかり思っていたのですが、墓に行って見ると丸に内に三つ引両紋。

三の字と三つ引きは類似しているので、いつの時代にか変ったのではないかと想像されます。有名人の家紋のページも訂正しておきたいと思います。



まさむね

2011年12月11日 (日)

有名人墓のメッカ 青山霊園1種ロ8号1~14側に眠る方々家紋一覧

都内、及び近郊の様々な墓所を回って有名人の家紋の撮影をするのが、ここ数年の楽しみとなっています。

そうした墓所の中でも、有名人、偉人比率が最も高いエリアが、知る人ぞ知る青山霊園1種ロ8号1~14側です。

本日は、そこに眠る人々の家紋一覧を作ってみました。

超大物の吉田茂元首相の墓が移転してしまったのは残念ではありますが、それでも壮観さは健在です。



青山霊園の近くにオフィスのある方々、お昼休みなどに立ち寄られてはいかがでしょうか。















































































































































































































































































































































松田正久。1847年5月25日 - 1914年3月4日、政治家。

肥前国小城郡牛津に小城藩士横尾只七の次男として生まれた。陸軍省に入省。欧州留学後に佐賀にて自由民権運動に参加し自由党に入党。『東洋自由新聞』を創刊。大蔵大臣、文部大臣、法務大臣などを歴任。三つ目結い紋











林董。1850年4月11日 - 1913年7月20日、外交官、政治家。

下総国佐倉藩の蘭医・佐藤泰然の子として生まれ、幕府御典医・林洞海の養子となる。香川・兵庫の県知事、ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣などを務めた。ロンドンで日英同盟に調印。源氏車紋











松室致。1852年1月22日 - 1931年2月16日、政治家、教育者。

小倉藩藩士の長男。読みは、まつむろいたす。桂内閣で司法大臣となり司法界の粛清を行う。後に貴族院議員、枢密顧問官を歴任。治安維持法への死刑・無期懲役追加に反対した。法政大学の学長を長く務めた。丸に桔梗紋











頭山満。1855年5月27日 - 1944年10月5日、国家主義者。

福岡県出身。玄洋社の総帥。右翼の巨頭・黒幕的存在。孫文、蒋介石、ラス・ビハリ・ボースら日本に亡命した革命運動家らに援助を行う。アジア主義の立場で活動した。日韓併合の際、奔走するも植民地化の状態には幻滅した。五三桐紋











犬養毅。1855年6月4日- 1932年5月15日、政治家。

備中国賀陽郡庭瀬村で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男。若槻禮次郎内閣が崩壊したため反対党(立憲改進党)の総裁として第29代内閣総理大臣に就任する。五・一五事件で凶弾に倒れる。嘴合わせ三つ雁金











珍田捨巳。1857年1月19日 - 1929年1月16日、外交官、侍従長。

弘前藩士珍田有孚の長男として弘前で生まれる。皇太子(のちの昭和天皇)の訪欧に際して訪欧供奉長となる。日露戦争後の講和条約締結交渉で小村寿太郎を補佐する。裕仁親王が即位3か月後に侍従長に就任。抱き稲紋











島村速雄。1858年10月26日 - 1923年1月8日、海軍軍人。

高知県出身。土佐藩の郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。第四艦隊司令官、海軍兵学校校長、海軍大学校校長、海軍教育本部長、海軍大将を歴任。「天性的に度量のある人物」といわれた。丸に変り三つ蔓蔦紋











加藤高明。1860年1月25日 - 1926年1月28日、外交官、政治家。

尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として出生。正二位 大勲位 伯爵。第24代内閣総理大臣となり、首相在任中に治安維持法、普通選挙法を成立させ日ソ基本条約を締結。ソ連と国交を樹立させる。六つ唐団扇紋











八代六郎。1860年1月25日 - 1930年6月30日、海軍軍人。

愛知県犬山市出身。地主、松山庄七の三男。水戸藩浪士・八代逸平の養子となる。日露戦争勃発までの5年間、最前線を歴任。最終階級は海軍大将。NHKドラマ『坂の上の雲』では片岡鶴太郎が演じている。折敷に三の字紋











牧野伸顕。1861年11月24日 - 1949年1月25日、政治家。

大久保利通の二男として生れたが、生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。茨城県知事、文部大臣、農商務大臣、外務大臣を歴任。第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。丸に三つ蔦柏紋











加藤友三郎。1861年4月1日 - 1923年8月24日、軍人、政治家。

広島市大手町出身。広島藩士・加藤七郎兵衛の三男。最終階級は元帥海軍大将。ワシントン会議には日本首席全権委員として出席。第21代内閣総理大臣時代にはシベリア撤兵・軍縮の実施などの重要な課題を遂行。蛇の目紋











本野一郎。1862年3月23日 - 1918年9月17日、外交官、政治家。

肥前国佐賀生まれ。父は読売新聞創業者の本野盛亨。弟に化学者・早稲田大学教授の本野英吉郎がいる。外務省に入りフランス公使、ロシア公使、ベルギー公使を歴任。寺内内閣で外務大臣となる。丸に蔦紋











伊集院彦吉。1864年7月22日 - 1924年4月26日、外務大臣。

薩摩藩出身。妻の芳子は大久保利通の長女。釜山領事、仁川領事、イタリア特命全権大使、パリ講和会議全権委員、外務省情報部部長、関東長官を経て、第2次山本内閣外務大臣となる。勲一等旭日桐花大綬章受章。丸に三方剣花菱紋











岸清一。1867年8月3日 - 1933年10月29日、IOC委員。

松江雑賀町に松江藩の下級武士岸伴平の次男として生まれる。法曹界の重鎮であり特に民事訴訟法の権威であった。国際オリンピック委員会委員に就任し死ぬまで務めた。東京都渋谷区の岸記念体育会館にその名を残す。五三桐紋











清水澄。1868年9月27日 - 1947年9月25日、憲法、行政法学者。

石川県金沢市出身。宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力したが日本国憲法が施行された直後に入水自殺をした。折入り角に右一つ丁子紋











白川義則。1869年1月24日 - 1932年5月26日、陸軍軍人。

松山藩士白川親応の三男として出生。上海派遣軍司令官、関東軍司令官、陸軍大臣、軍事参議官等を歴任。上海での天長節祝賀会で爆弾に遭って重傷を負いそれが元で死去する。最終階級は陸軍大将。丸に軸付柏巴紋











井上準之助。1869年5月6日 - 1932年2月9日、政治家、財政家。

大分県日田市大鶴町に造り酒屋を営む家に出生。第9、11代日本銀行総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。浜口内閣で行った金輸出解禁や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き血盟団事件で暗殺される。九枚笹紋











浜口雄幸。1870年5月1日 - 1931年8月26日、政治家。

高知県長岡郡に林業を営む水口家に生まれる。大蔵大臣、内務大臣などを歴任した後、第27代内閣総理大臣となる。在任中に金解禁や緊縮政策を断行し、ロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた。丸に上付き二つ引両紋











政尾藤吉。1871年12月8日 - 1921年8月11日、外交官、政治家。

愛媛県大洲出身。藩の御用商人の長男として生まれる。外務省からシャムに派遣され、のちに同国の法律顧問として刑法・民法・商法を起草する。タイ国王より信頼を受け白象第三勲章、王冠大綬章を受ける。丸に隅立て四つ目結い紋











三土忠造。1871年8月11日 - 1948年4月1日、政治家。

香川県大内郡水主村出身。読みは、みつちちゅうぞう。宮脇姓であったが、三土家に養子入りしたために三土姓を名乗った。文部大臣・大蔵大臣・逓信大臣・鉄道大臣・枢密顧問官・内務大臣を歴任した戦前政界の重鎮。丸に土佐柏紋











伏見宮博恭王。1875年10月16日 - 1946年8月16日、海軍軍人。

伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将。日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加。艦長や艦隊司令長官を務めるなど皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富。伏見宮裏菊紋











植原悦二郎。1877年5月15日 - 1962年12月2日、政治家。

長野県南安曇郡明盛村出身。国民主権論を大胆に主張するなど急進的な大正デモクラットとして言論活動を展開した。戦後、日本自由党の結成に参画し第1次吉田内閣の国務大臣として入閣する。改造後は内務大臣。蔦紋











森恪。1882年2月28日 - 1932年12月11日、政治家。

大阪府大阪市西区江戸掘出身。読みは、もりかく。本名はもりつとむ。日露戦争ではバルチック艦隊の航跡を打電して日本海海戦の勝利に民間から貢献したという。政治家としては軍部と提携し日本の中国侵出に役割を果たす。丸に片喰紋











丸山鶴吉。1883年9月27日 - 1956年6月3日、官僚。

丸山茂助の四男として広島県沼隈郡松永村に出生。警視庁特高課長、保安課長、静岡県内務部長、宮城県知事、朝鮮総督府警務局長、大政翼賛会事務総長、武蔵野美術学校校長、警視総監を歴任。丸に横木瓜紋











高須四郎。1884年10月27日 - 1944年9月2日、海軍軍人。

茨城県桜川村出身。知英派で当時の欧米事情に詳しく、五・一五事件の後に、政党政治の崩壊を嘆き日独伊三国軍事同盟や日米開戦に反対。山本五十六や米内光政等、海軍左派勢力からも強く信頼されていた。最終階級は海軍大将。丸に違い鷹の羽紋











大麻唯男。1889年7月7日 - 1957年2月20日、政治家。

熊本県玉名市出身。東條内閣の国務大臣として初入閣を果たし「東條の茶坊主」と呼ばれた。政党政治家として戦前から戦後にかけて政友本党、立憲民政党、改進党、日本民主党、自由民主党等を渡り歩く。六つ丁子車紋











山口多聞。1892年8月17日 - 1942年6月6日、海軍軍人。

東京市小石川区に旧松江藩士の山口宗義の子として出生。軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任。太平洋戦争では真珠湾攻撃に参加。ミッドウェー海戦で戦死。太平洋戦争期の日本海軍を代表する提督。最終階級は海軍中将。檜扇紋











まさむね

2011年12月 9日 (金)

早稲田大学近辺の家紋散策

先日、早稲田大学の大隈講堂に所用があって行ってきました。



早稲田界隈は、学生時代にはよく行っていたところなので親しみもあります。30年位前の話ですが。

当時は、大隈講堂とその前の通りと、それを挟んだ大隈重信の銅像があるキャンパスとの境が曖昧で、学生達は自由に行き来出来たような気がしていたのですが、先日行った時には、キャンパス側、大隈講堂側、それぞれに警備員がいました。

これも時代の流れなのかもしれません。



職員の方にも、お話をうかがったのですが、最近の学生さんは大人しくなったとか。そういえば、かつての早稲田キャンパスには、早稲田精神昂揚会の人々が普段でも角帽、学ラン、下駄で闊歩していました。一方で、新左翼系の建て看も沢山ありましたね。今は昔の話ですが。



さて、これは、知る人ぞ知る事実なのですが、大隈講堂の鉄門には、設立者である大隈重信先生の家紋がデザインされているんですね。一応、講堂の管理室の方にもおうかがいしたのですが、確かだそうです。それが左図です。

ただ、護国寺の墓所にある丸に剣花菱紋(右図)と比べるとかなりデフォルメされているようにも思いますが、まぁ気にしないことにしましょう。それでも、この早稲田を象徴する建物にひっそりと家紋を忍ばせる大隈先生のセンスはなかなかのものです。



所用が終わった後、大学近辺を散策。いくつかの寺を回りました。



まずは宝泉寺。これは天台宗のお寺ですが、元々大学の敷地はこのお寺の所有だったとか。ちょうど今の大隈重信像のあたりには、その昔、観音様があったといいます。

そして、このお寺の寺紋は撫子紋。寺紋としては珍しいと思い、メールで確認したところ、三代前の住職さんの家の紋というお答えを頂きました。

また、このお寺は早稲田大学合格祈願のお守りを売っているということでも有名なのですが、お寺からのツイートによると今後は、ワールドカップで優勝した「なでしこジャパン」の縁起も担いで、お守りに撫子紋を付ける案もあるそうです。こちらもなんだか嬉しいことですね。



次に行ったのが龍泉院。このお寺の寺紋は真言宗・智山派のお寺ということで桔梗紋です。平将門因縁の桔梗ですねww。

そしてその龍泉院の隣にあるのが、日蓮宗の法輪寺。ここの寺紋は、鶴の丸。鶴の向きが右向きなのがちょっとユニークです。実は、この日の朝、下谷にも足を伸ばしていたんですが、そこにある鬼子母神(真源寺)の寺紋も確か、鶴の丸。日蓮宗のお寺の寺紋の多くは、井桁に橘なのですが、僕はなんとなく、鶴紋の方が好きです。



そして、最後に行ったのが、この地の氏神・穴八幡です。冬至の「一陽来復」のお守りにご利益があることでもよく知られた神社です。

以前にも書いたのですが、小高い丘の上にある神社は、なんとなく信頼が出来ますね。それにしてもここの境内は綺麗です。現役バリバリで活気がありますね。



というわけで、早稲田の小散歩で見た寺紋、神紋、街中紋は以下に追加しました。次の目標200まで、日本家紋地図はあと34、全国寺社紋地図の方はあと56です!!

もし興味のある方は是非、ご覧下さい。そして応援よろしくお願いいたします。



日本家紋地図

全国寺社紋地図



まさむね

2011年11月18日 (金)

中野の寺町散策(宝仙寺と高徳寺)

昨日は、少し時間が合ったので中野の近辺の寺に行ってきました。



僕は中野区の小学校に行っていたので、子供の頃、授業で、このあたりに寺町があるという話を思い出しました。確か、明治時代の区画整理や、関東大震災後に、浅草近辺にあった寺の多くが、ここ中野や、世田谷区の烏山に越してきたということを聞いたことがあります。



ただ、その前からこの中野に存在した寺の代表格が、宝仙寺です。ここは有名人の葬儀・告別式がよく行われることでも知られており、確か、プロレスラーの三沢光晴選手や、漫画家の赤塚不二夫さんの告別式もここで執り行われました。

かの有名な武家の棟梁・八幡太郎義家(源義家)によって開かれたと伝わり、杉並区の大宮八幡宮の別当寺ということで、江戸時代には相当広い土地を領していたらしいですね。



ここに眠るのが、丸井の創業者・青井忠治氏。さすが名士だけあって、本堂近くの特別な場所に墓を構えています。

一般的に、大企業の創業家(大社長)の墓は、例えば、大日本印刷の北島家(吉祥寺)、西武の堤家(鎌倉霊園)、安田財閥の安田善次郎(護国寺)なんかもそうですが、このように墓所も大きく別格扱いされていることがありますね。今でも多くの人が参拝するからでしょう。



また、その他、ここには文化人類学者の石田英一郎の墓がありましたが、残念ながら墓には家紋はありませんでした。

さらに、結構広い墓域を周り、墓を見て回りました。当たり前の話ですが、代々、土地に根付いた家の墓は同じ名字で、沢山ありますね。ちなみに宝仙寺では、高橋とか飯塚といった名字の墓が多いようでした。



次に訪れたのが、この宝仙寺から、少し歩くのですが、上高田の高徳寺です。ここには、江戸時代の学者政治家・新井白石の墓、山野美容学院の創設者・山野愛子の墓、長門裕之・南田陽子夫妻が眠る加藤家の墓があります。

ただ、今日の目的は、もう、25年も前にNHKの朝ドラ「はね駒」のヒロイン(斉藤由貴)のモデルとなった磯村春子の墓です。文学者や女性の墓はどちらかといえば、大企業の創業者や政治家に比べると、こじんまりとした墓が多いので、探すのに苦労することがありますが、この磯村春子の墓は、新井白石の墓のすぐそばにありました。



これも不思議なのですが、先日行った総持寺の猪木家、大西瀧治郎、益田孝の墓もそうですが、有名人の墓は比較的、近接していることが多いですね。

有名なところでは、三鷹・禅林寺の太宰治の墓と森鴎外の墓、巣鴨・慈眼寺の芥川龍之介の墓と谷崎潤一郎の墓、鎌倉霊園の川端康成の墓と堀口大學の墓とかでしょうか。



時間があまりなかったので、昨日はそれくらい。ただ、ここは西武新宿線・中井駅からの歩ける場所なのでまた来ようと思いました。



また、僕は寺社を回るとそこの寺紋、神紋、そして近所の街中にある家紋も撮影し、以下に掲載しています。

よろしければ、こちらもご覧下さい。

日本家紋地図(街中の家紋)

全国寺社紋地図



まさむね



2011年11月17日 (木)

池上本門寺墓所の大物ストリートは身が引き締まる

池上本門寺は素晴らしいお寺さんです。



僕は、階段を上がった丘の上にある寺社はなんとなく信用できるんですね。麻布の元神明宮とか、品川神社とか、赤坂の日枝神社とか...



その昔、寺社の近くにあるコンピュータのデータセンターは、安心という話を聞いたことがあります。

長い歴史の中で、古人は、地盤の固いところ、地震に強いところに古社を作ったに違いないからという理由です。なんとなく納得できる話だと僕は思いました。

そして、この池上本門寺も長い階段を上がらないと境内にたどり着けません。登りきるとちょっと息が切れました。



さて、本門寺の墓所の話をしましょうか。

ここは総持寺に比べると、それほど広くはないのですが、多士済々の墓を拝むことが出来ます。



有名なところでは、幸田露伴、市川雷蔵、片岡仁左衛門(11代)、松本幸四郎(7代)、映画監督の溝口健二、そして我らがスーパースターの力道山。



ご存知の方は多いかと思いますが、池上本門寺は、力道山の生前から、日本プロレス界と深いつながりがあったらしく、山門の仁王像のモデルは若き日のアントニオ猪木だそうです。

その他にも、日本プロレスコミッショナーの大野伴睦自民党副総裁、リキエンタープライズの山本社長、東京スポーツ会長の太刀川恒夫の太刀川家の墓もここにあります。

それらの墓の中でも特に目立つのが大野伴睦先生の墓所にある虎の石像ですね。東海道新幹線に無理矢理、岐阜羽島駅を作らせたというその強引さは、この墓のデザインにも現れているようにも思います。



また、ここの墓所の、三重塔から力道山の墓へかけての道沿いには、戦後日本社会の黒幕・児玉誉士夫を始め、大言壮語な語り口から「永田ラッパ」と呼ばれた大映オーナーの永田雅一、元自民党幹事長の斎藤邦吉、東京ガスのドン・安西浩、日本赤十字社社長の花房義質、閔妃殺害事件で投獄された岡本柳之助、稲川組の石井会長や、東声会の町井会長等の墓が左右に並んでいるんですね。これだけの大物を集めるというのもある意味、日蓮上人の威徳でしょうか...



僕は、自分の頭の中で、墓参をするときに生前のその方のイメージを沸かせて参るのですが、この道は、東京の様々な墓所の中でも屈指の"大物ストリート"で、そんな大物達の間を歩いていくというのは、イメージだけの話ではありますが、ちょっとビビります!!まぁそれが墓マイラーの醍醐味でもあるんですがww。



というわけで、今日は、池上本門寺の墓所はいつ来ても、身が引き締まり、しかも、楽しいというお話でした。



まさむね

2011年11月16日 (水)

久々に行った鶴見・総持寺でアントニオ猪木の家紋を撮影!

昨日、久しぶりに鶴見の総持寺と池上の本門寺に、TBC(東京墓石クラブ)のO君と二人で行きました。

勿論、家紋を有名人の家紋を確認、撮影するためです。



今日のエントリーでは、総持寺について書いてみたいと思います。

ご存知の方も多いかと思いますが、総持寺は、曹洞宗大本山(寺紋は五七の桐紋)で大変広い敷地を持っています。それゆえ、墓地も広いですね。



今回の目的はの第一は、「特攻隊の父」といわれた大西瀧治郎の墓、その隣にあるといわれている猪木家(アントニオ猪木の)の墓です。これに関しては、こちらのブログ(愉快痛快奇奇怪怪)を参考にさせていただきました。

さらに、僕にとっては、参考書的なサイト=名簿録に載っていた情報ですが、往年の名将・水原茂さんの墓ですね。また、例えば、コチラのブログ=カームラサンの奥之院興廃記にも書かれていますが、音楽家・黛敏郎氏の墓です。



さて、総持寺の墓地ですが、入り口から見て大きく分けて、左のエリア、正面のエリア、右のエリアがあります。

左のエリアの代表墓は何と言っても石原裕次郎さんの墓でしょう。墓地にも「裕ちゃんの墓→」という案内板が出ています。さすがスーパースターですね。

裕ちゃんの墓の他、このエリアには、哲学者の岩元禎、日本画家の前田青邨、建築家の伊東忠太等の墓があります。今回は、その他に言語政策提案者の山下芳太郎さんの墓を見つけました。この方は、横書きのカタカナ普及のために尽力した方で、墓の名前まで横書きのカタカナで彫られています。ここまで徹底しているというは、ある意味、素晴らしいですね。家紋は剣片喰い紋でした。



また、正面のエリアは、以前行った時にかなり回ったので今回は後回しにする作戦を立てました。ちなみに、このエリアには堺利彦や前田山、川上貞奴、浅野セメント会長の墓などがあります。



そして、僕らは、今回のメインターゲット、右のエリアに足を運びました。うれしいことに愉快痛快奇奇怪怪には墓の写真が掲載されてありました。僕らはこのエリアで、写真に写りこんでいる墓の背景の場所を探しました。

そうしたら、ありました、ありました。写真には、大祖堂の端が写っているじゃないですか。



O君はその情報を元に早速、墓を発見。さすが、彼は広大な墓所から墓を見つける天才です。

そして、家紋をゲット!大西瀧治郎中将の家紋は鞠挟みに違い鷹の羽紋。鞠挟みの中に何か入っている有名人の家紋は、幣原外交で有名な幣原喜重郎氏の鞠挟みに梅鉢以来の出会いです。

そして、その隣は、憧れの天才レスラーアントニオ猪木の実家・猪木家の墓がありました。猪木さんは鶴見の出身、家は、相当の資産家だったようですね。

家紋は、丸に横木瓜、猪木さんのエキセントリックなたたずまいからみると、木瓜というのは意外に「普通」な感じがしました。

ちなみに、猪木さんと同じ丸に横木瓜紋の有名人は、沖田総司、樋口一葉、豊田佐吉、坂本九、森喜朗...。ご興味のある方はコチラをご覧下さい。

そして、オマケと言っては何ですが、偶然、見つかったのは、それらの墓の前にあった益田孝氏(三井物産創設者)の墓です。これはラッキー。益田家の家紋は、三つ割り菊紋でした。



さて、残るは水原茂氏と、黛敏郎氏の墓です。あとは、二人でしらみつぶして歩いて探すしかないです。



そして、今回の重点エリア(右エリア)の最も端の壁際の列に、水原茂氏の墓を発見しました。目的の墓を発見した瞬間というのは、本当に嬉しいですね。これだから、墓マイラーは辞められません。

そして、家紋の撮影ですが、その前に、お墓に彫られている茂氏の名前と死亡年月日を読み、ご本人と確認、これは必須の手順です。

驚いたのは、その家紋が丸に右荒枝付き三階松に株竹紋だったことです。この家紋は、森本景一氏の「家紋を探る」でも、幻の家紋と評されていた家紋です。僕にとっても、初めて出会った家紋でした。

ちなみに、右寄り三階松というくくりで言えば、映画監督・木下惠介やミュージシャンの細野晴臣、X-APANのhideの家紋でもあります。ご興味のある方は、コチラをご覧下さい。



それから二人別々に、墓所を歩き回ったのですが、結局、黛敏郎の墓は見つけることは出来ませんでした。



まぁ、またいつか来ればいいや、墓探しは深追いは禁物です。心の中で両手を合わせ、頭を下げて、総持寺を去りました。

次の池上本門寺が待っていますからね。



まさむね



※本門寺探訪に関しては明日のエントリーで書こうと思います。

2011年7月15日 (金)

青山霊園に行って新たに気づいたことなど

先月行った青山霊園に関して、書こう、書こうと思いながら、時間ばかりが経ってしまった。

やっぱり、ブログは思い立った時に書かないとダメだ。



で、まず、何を書こうとしたかと言うと、青山霊園が、自ら墓マイラーへのPR作戦を大々的にはじめているということである。

なんと、事務所に行くと、詳細な地図と、有名人の墓の案内パンフレットを無料で配ってくれるのだ。以前の地図に比べると数段、豪華になっているではないか。

特にこの地図は、わかりやすい。霊園はとにかく、どこもそうだが、1種、2種、イ、ロみたいに複雑な符番制になっているので、こういった詳細な地図が(しかも無料で)あるととっても嬉しい。

墓マイラーの方は是非、事務所に立ち寄られることをおススメしたい。



ちなみに、一般的に、霊園の中でも青山霊園や春秋苑のように、墓マイラーに好意的なところと、例えば、横浜・日野公園墓地みたいにそうでもないところのポリシーの違いが明確にあるようだが、僕らとしては是非、多くの霊園で、公式ツアーマップのご用意をお願いしたいところだ。



また、今回、青山霊園に行って驚いたことが一つ、なんと、トップレベルの名所だった吉田茂の墓が無くなっているのである。なんでも、横浜市の久保山墓地に移転されたそうであるが、さびしい限りである。当然のことではあるが、有名人の墓を一つのウリにしたい青山霊園としても、墓の移動は個々の家の判断なのでいかんともしがたいのだろう。今後、青山霊園名所化には一つの課題かもしれない。



また、今回の墓参りで一つ発見をした。それは橋本龍太郎の墓を見つけたことだ。もしも、橋本龍太郎が存命だったら現在の政局をどのように評されただろうか、興味深いところである。橋本龍太郎は生前、剣道の達人としても知られていた。確か、海外の要人が来られた時にも、その腕前を披露していたような。

これは僕の想像であるが、橋本龍太郎の墓が、大日本武徳会を結成し、近代剣道の確立に尽力した渡邊昇と同じ並びに構えられているというのも、そのあたりを意識してのことだろうか。



さて、最後に家紋関連のこと。



僕は今まで、第4代、6代内閣総理大臣の松方正義の家紋は抱き菊の葉だと思っていたのだが、よく見ると、抱き葉の中に、抱き茗荷が隠れていたのだ。以前、見たときに、見逃していたのだ。まったくもって恥ずかしいことである。(画像クリックで拡大)



まさむね

2011年6月26日 (日)

沖田総司の墓参りで考えたこと

昨日、25日は新撰組の人気者・沖田総司の「総司忌」ということで六本木・専称寺に行ってきた。(左が沖田総司の家紋の丸に木瓜紋、右が沖田総司の肖像画)

このお寺は、普段は墓地を開放していない。

それゆえ、この日は、多くの新撰組ファン、沖田総司ファンでお寺の周りには行列が出来ていた。

ざっと数えたところ、300名位はいたであろうか。ほとんどが若い女性であった。

一般的に沖田総司といえば、純情、美青年、剣の達人、しかも夭折というようなキーワードが思い浮かぶ。

歴史物語的には、池田屋事件で尊皇攘夷の志士を襲撃したときに、結核のため吐血したシーンに鮮烈な印象がある。(子母澤寛の創作という話もあるが...)

ただし、現在残っている肖像画は、はっきり言って、美青年とは言えない。(これは後世、親類の子供を元に書かれたものだそうだ。)美人薄命というが、男性に関しても、同じようなことがいえるのかもしれない。

そして、この肖像画を無視し、当然のごとく、映画やドラマでは、戦後一貫して、トップクラスのイケメンが沖田総司役を演じている。下の表を見ていただければ一目瞭然、女性のファンが沖田総司に対して、ある種のイメージを抱くのは自然なことであろう。































































































































作品 年代 媒体 俳優名
壮烈新選組 幕末の動乱 1960年 映画 若山富三郎
新撰組 1969年 映画 北大路欣也
沖田総司 1974年 映画 草刈正雄
沖田総司 華麗なる暗殺者 1982年 TVドラマ 郷ひろみ
燃えて散る 炎の剣士 沖田総司 1984年 TVドラマ 田原俊彦
新撰組 1987年 TVドラマ 東山紀之
幕末純情伝 1991年 映画 牧瀬里穂
御法度 1999年 映画 武田真治
新選組! 2004年 大河ドラマ 藤原竜也
矜持I 2006年 映画 加勢大周
実録 新選組 2006年 OV 大沢樹生







さて、先月、僕は「「新撰組」の人気の秘密について」というエントリーを書いたのだが、その中で司馬遼太郎さんの次の言葉を引用させていただいた。

近藤と土方、この二人は出身についての劣等感があっただけに必要以上に士道的な美意識を持っていた。


人は劣等感があると、無意識的にでも、過剰にその役割を演じるものかもしれない。ここでは、司馬さんは近藤と土方の生き方について語っているのだが、本日、NHK大河ドラマ「江」の中での秀吉にもそのことが言えるのかもしれない。彼は農民(あるいは下級武士)階級出身という出自ゆえに、より過剰に関白になろうとしたのである。

同様のことは、三種の神器のうち、刀剣無くして天皇となられた後鳥羽天皇が、武断的なふるまいをされたとか、いわゆるくじ引きで将軍となった足利義教が、強い将軍を目指し、残忍な振る舞いを行ったのも、通底する心理かもしれないと僕は思う。

(あるいは、最近ではオカマ芸人が、女性よりも女性らしく振舞おうとするのも、その一連の流れか?!)



話を新撰組に戻す。

彼らは、過剰に士道的美意識にこだわった反面、内部粛清の手段は思いのほか陰険だったようにも思える。近藤、土方達は芹沢鴨を暗殺したときも、伊東甲子太郎を闇討ちした時(油小路事件)も、その前に酒を飲ませて、相手を泥酔させているではないか。これは、江戸中期以降の武士道には見られない振る舞いである。

しかし、彼らの酒を利用しての卑怯さは、ある意味、日本の伝統かもしれない。古くは古事記において、スサノウがヤマタノオロチを退治した場面、ヤマトタケルが熊襲タケルを倒した場面、いずれも酒を飲ませて油断したところを討っている。時代が下れば、平安時代の源頼光とその四天王による酒呑童子退治の逸話、室町時代の赤松満祐が足利義教を討った嘉吉の乱、江戸時代初期の松前藩がアイヌのシャクシャインを騙し討ちした事件なども、いずれも酒の席での話である。酒の席というのはその意味で、暗殺”特区”なのだろうか。

これは西洋でも同じだが、乾杯をして、誰彼もが一緒に杯を傾けるのは、そういった暗い記憶が残した形式なのかもしれないと思う。



どうしても新撰組から話がずれてしまう。さて、沖田総司の話だった。

彼は戊辰戦争の最中に、結核に倒れる。近藤勇を戦場に送り出す病床で、涙したとも伝えられている。本当に感情の豊かな青年だったのでろう。

しかし、当時は結核は死に至る病である。沖田総司は、そのまま病床で息絶える。あの時代、結核で倒れた偉人といえば、高杉晋作も思い浮かぶ。でも高杉の場合はまだ救われる。彼の意思は次の世にも引き継がれるのだから...



しかし、歴史の”優しさ”とでもいうべきか。新撰組は歴史の藻屑と消えたが、あの専称寺の長蛇の列を見るにつけ、沖田総司は死して、確実に伝説を残したようだ。



さて、幕末の乱世が通り過ぎた明治以降、結核は、文学者の生き方と大きく関わっていく。結核こそ、上品さや繊細さの指標となっていったのである。正岡子規、石川啄木、中原中也、立原道造...夭折の詩人はみな結核による死とともに、伝説を残すのだ。

ちなみに、太宰治も、結核にあこがれて、汚水を飲んだことがあるという話もどこかで読んだような気がするが覚えていない。



まさむね

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