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カテゴリー「日常雑事 雑感」の129件の記事

2012年9月26日 (水)

モノを表現するという過剰さについて

先日、竹熊健太郎さんにお会いしたときに紹介していただいた岩井澤 健治さんの「福来町、トンネル路地の男」です。



5分弱の作品なのですが、三年間、シコシコと書き続けたということです。本当に凄い作品ですね。



こういう過剰な作品に出逢うと、僕も、なんか、頑張ろうと思います。この一本気新聞の有名人の家紋コーナーも2000人を突破しましたが、過剰というにはまだまだです。目標は当面、3000人です。僕はモノをクリエイトする才能に欠けているので、足で稼いでデータベースを作ることに専心したいと思っています。



過剰といえば、先日、日馬富士の優勝で終わった秋場所。一番一番を過剰なまでに相撲を取りきる舛ノ山のことが思い浮かびます。彼は、他の人よりも、肺が小さいというハンディを抱えているそうですが、人一倍努力家で、他の兄弟弟子が休んでいる時も、部屋で黙々と四股を踏んでいるそうです。また、中学の頃は、フィリピンのスラムの雨が降ると雨漏りがするような家に住んでいて、その頃から家計を助けるためにアルバイトをしていたとのこと、そういった過剰な物語性をも持っています。



それにしても、取り組み後、花道を引き上げていく、息を切らすその姿は、伝わるものがあります。この力士は、本当の意味で、土俵上で死んでもいいと思いながら相撲を取っているのではないかと、想像させます。先場所は前頭六枚目で9勝したので、来場所はもしかしたら、横綱との対戦も期待出来る番付となるかもしれません。本当に楽しみです。



デフレの現代、モノを作るという事がどんどん、割りに合わなくなってきています。ビジネスとしてやっているのであれば、売上げと経費を計算に入れるのは仕方のないことかもしれませんが、それでもせっかくモノを作るのであれば、他人の記憶に残るようなものを創りたいと思うのは、クリエーターの本能のようなものです。あるいは、それを逆から見れば、自分の中の過剰なものを排出したいという欲なのかもしれません。

そうであれば、マーケッティングが透けて見えるような商業主義の範囲でモノを作るのではなく、先ほどご紹介したアニメのようにそこからはみ出す過剰なゾーン(ある意味、レッドゾーン)で作るものに僕らの興味はどんどん移っているようにも感じます...。



いや、そんな単純な話ではないかもしれません。ビジネスの範囲であっても、ももクロや舛ノ山のように過剰なパフォーマンスをすることは出来ますし、あるいは、「エヴァ」のように破綻そのものがまた、ビジネスになることもありますしね。



まさむね

2011年12月 7日 (水)

日本人にとって伝統を守るということはそれほど厳密なことではないのではないか

最近、少し考えていることがあります。

もしかしたら、日本人にとって伝統を守るということはそれほど厳密なことではないのではないかということです。

いや、むしろ、曖昧に、いい加減に伝えて、でも、「まぁいいか!」というような、その伝え方自体が伝統ではないのかということです。



例えば、先日、青山霊園の一条実良の墓へ行きました。一条実良という方は、幕末から明治にかけての公家で、明治天皇の正妻・昭憲皇太后のお兄様にあたる方で、当時の一条家の当主、右大臣にもなっています。それで、この人のお墓には家紋が彫ってあるのですが、それが一般的に紋帳に出ている一条下り藤(一条藤 左図)とは微妙に違うんですね。

葉っぱの形状がまばらな感じではなくて、普通の下り藤紋と同様の形状でした。ただ、中央から下に垂れ下がる蔓の部分の形状は同じです。

藤原五摂家という、人臣では最高位の家柄が使用する家紋にして、このように微妙な変化を、寛容している、僕はなんとなく、そういったところに日本の文化の伝承の特徴があるのではないかと想像したのでした。

勿論、これはあくまでも想像ですので、その変化にはなんらかの意味や意図があったのかもしれませんが、とりあえず、探求はしないでおきます。

ちなみに、昭憲皇太后の名前についてこんな話があるのをご存知でしょうか。本来であったら、天皇の正妻ですから、昭憲皇后となるべきなのですが、それが内宮大臣のミスによって、皇太后になってしまったというお話です。こちらの経緯に関しては、明治神宮のHPのQ&Aコーナーでも取り上げられています。



そういえば、以前も、多磨霊園にある西園寺公望の墓の巴紋が、左三つ巴ではなく、右三つ巴であることがちょっと気になったことがありました。西園寺家の巴紋といえば、11世紀の「愚管抄」にも著されており、最も古い家紋の一つといわれているのですが、それにして、いつの間にか、左が右となっておりました。



まぁ、日本の伝統の根源たる人々ですら、こういった感じなので、私達のような一般人は、それほど、形式にこだわって伝統を守ろうとしなくてもいいのかもしれないですね。



まさむね

2011年11月30日 (水)

今日は、11月最後の日です。どうでもいい事を書きます。

今日は11月30日、11月最後の日です。

実は、自分の今月の目標はとりあえず、1ヶ月間、毎日、一つづつエントリーをアップすることでした。

いくら、時間があるとはいえ、そして、何を書いてもいいとはいえ、1ヶ月間、毎日書くというのはそれなりに大変なことでした。新聞記者とか、作家とか、プロで毎日、文章を書かれている人って本当に凄いと思います。



というわけで、明日からは、また、元のペースに戻って、アニメなどについても書き始めたいと思います。アニメ修行100と言いながら、48で止まってしまっていましたからね。



さて、今日は、たまたま、外で人に会う用事があり、その前にちょっと青山霊園に足を運びました。

変に思われる方も多いかもしれませんが、僕にとっては青山霊園は都会のオアシスのような場所です。あそこに行くと、なんだかホッとします。

そういえば、今日、初めて気づいたことがありました。



青山霊園は、1種イ、1種ロ、2種イ、2種ロというように、墓所が、4つのランクで分かれています。2種よりも1種の方が、そしてロよりもイの方が、いい場所にあり、しかも、立派な墓も多いようです。

それで、気づいたことというのは、実は、青山霊園には、1種イ14という地区が存在しないのですね。1種ロ14や2種ロ14は存在するのにです。これはなんとなく、不気味ではないですか。

そういえば、その昔、ゲゲゲの鬼太郎に4階の存在しないビルというのが出てきたことがありました。そこには人間は行けません。確か、妖怪・達磨が住んでいたんですよね。そこで、僕は、この1種イ14には、何か別世界への入り口があり、普段は地図にも載っていないが誰も気づかないでいる...そんなエリアではないのではないかと想像してしまいました。



以前にも書いたことがある(4番ベッドの無い病院、13階の無いビルなど)のですが、僕は4番が存在しない場所やビルがなんだかとっても気になります。

例えば、毎週土曜日に、C型肝炎治療のために、ネオファーゲンの注射をしてもらいに、病院に行くのですが、そこの治療室には4番のベッドがありません。その治療室に入るたびに、今でも、3番ベッドと5番ベッドの間の"不在の4番ベッド"を見ちゃうんですよね。



まぁ、それはともかく、今日、撮ってきた家紋はまた、おいおい「有名人の家紋」にアップしたいと思います。また、伊地知彦次郎の家紋も撮影したので、こちらも、近々、「NHKドラマ「坂の上の雲」 主要登場人物 家紋一覧」の方へアップしたいと思います。



それでは、今日は疲れたので、このあたりで、お休みなさい。



まさむね

2011年11月13日 (日)

日本人的無意識の行動の困った点と美徳

青山繁晴の地獄の果てまで生ニコニコ」というニコニコ動画の番組を観ました。



ご存知の方も多いかと思いますが、青山氏は、元々は共同通信の記者だったのですが、退社後に、御自身のシンクタンク「独立総合研究所」を設立され、エネルギー政策などに独自の視点から提言を続けておられる方です。

僕は、『青山繁晴が答えて、答えて、答える!』というチャンネル桜の番組は、YOUTUBEなどで、よく拝見しているのですが、上記の番組はそれを拡大し、テンションを上げ、若干、若者向けのノリにしたようなエキサイティングな番組になっておりました。



さて、その番組の中で、視聴者からのこんな質問が紹介されました。



TPPはデメリットの方が大きいように感じるけれども、それでもなお、政府を始め、根強く推進派の政治家が多く存在します。それは、やはりアメリカの政治的圧力というものがあるのでしょうか。



それに対して、青山氏は以下のように答えていました。



アメリカの政治的圧力があるというならまだいいんです。そうじゃなくて、野田総理を始めとする保身に走った政治家が、勝手にアメリカを気にして、アメリカの言う事を聞かないと自分の将来がなくなると思い込んでいるから、それが圧力になっているだけであって、僕の知る限り、アメリカが直接圧力をかけてきた気配はほとんどないんですね。

(中略)

言われる前から、「はい、私はちゃんと、アメリカ様の気持ちをわかっていますよ」ということでやろうとしているのが日本の政治の実態だと思っています。



つまり、ここでは日本の政治家や官僚が、ある種の空気に従って行動することによって、自ら進んで、その主権を放棄しようとしているということですね。ついで言えば、彼らは、無意識的に、何を守ろうとしているのかと言えば、おそらく、戦後日本の体制であり、目の前の経済的繁栄という(敢て言えば)幻想になるのだろうと思います。



こういった無意識の空気に突き動かされるという日本人の気質は、長い間、閉鎖された島国で生きてきた僕らの習性なのでしょうか。

勿論、上記の例は、かなり情けない話なのですが、こういった習性は、「目的が明確である場合は、特に誰から指示されたわけでもないが、それぞれが適切な行動を取る」というようにポジティブに発揮されることもあり、実は、それほど悪い面だけではないということもあります。



このところ、連日引用している『忘れられた日本人』のなかにも、そういった行動を取る日本人達のことが出てきます。



それは、昭和の30年代の始め頃の、周防大島の農村での話です。



一年生くらいの男の子が、突然、居なくなってしまったのです。心配した家の人は、警防団の人に出てもらって、家の近所のお宮の森へ何十人もが探しに出ました。結局は子供は、家の戸袋の隅からひょっこりと出てきて事なきを得たということなのですが、著者(宮本常一氏)は、その時のことを驚きをもって以下のように書いています。



子供がいたとわかると、さがしにいってくれた人々がもどってきて喜びの挨拶をしていく。その人たちの言葉をきいておどろいたのである。Aは山畑の小屋へ、Bは池や川のほとりを、Cは子供の友達の家を、Dは隣部落へという風に、子供の行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている。これは指揮者があって、手分けしてそうしてもらったのでもなければ、申し合わせてそうなったのでもない。それぞれ放送をきいて、勝手に探しにいってくれたのである。警防団員以外の人々はそれぞれその心当たりをさがしてくれたのであるが、あとで気がついてみると実に計画的に捜査がなされている。

(中略)

そういうところにも目に見えぬ村の意志のようなものが動いていて、だれに命令せられると言うことでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができているようである。



おそらく、日本人の連帯というのはこういった、目的が明確な時に最強に発揮されるのだろうと僕は思います。冒頭に紹介した同調圧力に弱いという日本人の欠点も、こうした場面では十分、美徳、あるいは力になり得るということですね。そして、311の震災の時の東北の被災された方々の行動にもこういった暗黙の行動規律があったようにも思いますね。



関係ないですが、この場面を読んで、僕は宮崎駿の「となりのトトロ」で、行方不明になったメイを村人が総出で探すシーンを思い出してしまいました。そして、もしかしたら、『忘れられた日本人』は、宮崎駿さんのネタ元だったのかもしれないと思いました。



話を戻します。

しかし、この日本人の特徴は、段々薄れてくるのではないかということも、実は、この『忘れられた日本人』には示唆されています。

一方で村人が真剣に探し回っている最中に、捜査に参加しようとせず、まったく他人事で、噂話だけをしている人々もいたということなのです。

そして、そういった人々は、新しく村人になったような人々で、普段は、旧住民と普通に交際しているのですが、いざというときには役に立たないのだと、宮本氏は述べているのです。

以前、僕は、「現代における「絆」とは? ~天皇陛下のご感想と飯島愛の死~」というエントリーを書きました。

そこで、危機的な状況の時に大事な「絆」は、お互いがお互いを縛るという性質のものであり、維持していくにはそれなりの「強制」がないといけないのではないか、というようなことを述べてました。



そして、この気持ちは、311以降、さらに強くなっています。抗しがたい歴史の流れの中で、人々がどのように「絆」を維持し、あるいは再生できるのかというのは、現代の日本人とって一番大事なことだと、今でも思っています。



そして、付け加えるならば、そうした絆がポジティブに発揮できるような、共通の目的を持たせること、それが政治家の大事な仕事だと僕は思います。



まさむね



※ここのところ、数回、引用してきた『忘れられた日本人』については、とりあえず、今日のエントリーで一旦離れようと思います。

明日からまた別のことについて書いてみようかな。

2011年11月 6日 (日)

教養のある人とは

かなり以前、友人と話をしているときに、「一体、教養とは何だ?」という話になったことがありました。もう、30年も前の話です。



確かに、「あの人は教養がある」というような言い方をするとき、その定義は曖昧ですね。

物知りというのは、教養というのに近い気がしますが、最近は、スマフォを携帯している人が多くて、知識の多さや、正確さは、ネットにはかないません。

なので、知識を頭の中に持つということの価値が以前に比べて、落ちてきているようにも思えます。



そこで、Wikipediaの「教養」の項を見てみることにしました。すると、このように書かれてあります。

一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指す。


なるほど、知識に加えて、人間力が必要ということでしょうか。これはなかなかハードルが高そうです。



また、日本における教養の箇所を見ると以下のように書かれてありました。

古代中国の影響を強く受ける形で、日本でも四書五経や漢詩は伝統的に重要視されてきている。やがて、日本独特の諸文芸や和歌がこれらと並ぶようになった。文人画などの絵画を自ら描く事も教養の一部を担っている。


それにしても、、現在の日本人に漢詩や和歌や文人画などを理解している人はどれだけいるのでしょうか。



でも、いつになるのかわかりませんが、出来れば、死ぬ間際に和歌(いわゆる辞世の歌)を残すというようなことぐらいはしてみたいものです。



夏の夜の 路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 柴田勝家

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた 豊臣秀吉

嬉しやと 再びさめて ひとねむり 浮き世のは あかつきの空 徳川家康




これらは、現在放送されている大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の主人公・江の義父達がそれぞれ残した辞世の歌ですが、どの歌にもという言葉が入っているのが目に付きます。

あんなに激しい人生を生きた人々が最期に行き着く場所に、「この世は夢だった」という観念があるというのが極めて日本的ではないですか。



その和歌に関してなのですが、以前、どこかで渡部昇一先生が「日本には和歌の元の平等がある」というようなことを書かれていました。つまり、万葉の昔から、日本人は、歌を詠む歌人としては、庶民も天皇も平等だという意味でしょうか。これも日本文化のある側面を言い当てた言葉だと思いますね。



さて、最後に僕が数日前から話題にしている『忘れられた日本人』からの話です。

この本には、幕末から明治にかけての、何人かの庶民(特に放浪民)のインタビューで成り立っているのですが、そこに世間師という人々が登場します。



世間師というのは、旅から旅へと、様々なところに移動しながら情報や新しい知識を得たり、村々に伝えていった人々のことで、宮本先生も本の中で「こうした人々の存在によって村が遅ればせながらもようやく世の動きに着いていけたとも言える。そういうことからすれば過去の村々におけるこうした世間師の姿はもうすこし掘り起こされたによいように思える。」と述べておられます。

おそらく、彼らはその知識と人格によって、人々の役に立っていたのでしょう。その意味で、世間師と呼ばれた名も無き人々は、十分に教養人だったといえるのかもしれません。



そんな世間師からのインタビューには、以下のような気になるような箇所があったので記しておきます。

京都あたりにはおっとりとして風流のわかる女がたくさんいた。あるとき宿屋で気品のある女中がきたので、歌を書いてお膳の上にのせておいた。するとお膳をひきにきたとき、それをちょっと見て帯の間へはさんで出ていった。何も言わなんだが、夜ねていると、そっとやってきた。気品のある女には恋歌を書いてわたすと大抵は言うことをきいてくれたものである。


まるで、「源氏物語」のような男と女の関係が、昭和の時代にまで残っていたということでしょうか、なんとなく羨ましい限りです。



「いざというときに、さっと和歌が書けるような人が教養のある人である」



とりとめのない話で恐縮でしたが、とりあえず、今日の結論はこのくらいにしておきたいと思います。



まさむね

2011年7月 6日 (水)

有元利夫さんの画はこの世のものとは思われないこの世の絵である

昨年のちょうど今頃、画家の有元利夫さんの展覧会「天空の音楽」が目黒の庭園美術館で開催されて絵を見に行ったことがあった。ぼくは有元さんの絵が以前から大好きで、ご存知の方も多いと思われますが、独特のフレスコ画のような風合いと極端にデフォルメされた女性たちの姿態に特徴がある。いずれも太った女性が多く、顔が極端に小さい。どこか天上的で、祈りに満ちていて、祝祭的かつ音楽的な画風で、何度見ても新鮮で飽きない。


左より「ある経験」「花火の日」「花降る日」「厳格なカノン」


あれからほぼ一年。一年後にこんな大震災が起きて、原発の事故が起きるなんて夢にも想像していなかったが。よく言われることだが、好むと好まざるとにかかわらず、たぶんいろんな作品が持つインパクトがおそらくこの3・11以前と以後で鑑賞の意味や評価が大きく分断されて変わってゆくだろうと思う。

震災以前に評価されていたものがあまり評価されなくなったり、逆に震災後により評価が高まる作品が出てくる可能性もあろう。そのように評価が高まる作品はもともと震災前から今日のカタストロフィ的なものを内在化していたり、どこか予見的で、先駆的だったりしていたとも言えるのだろう。



そういう意味でいえば、ぼくにとってはまさに有元さんの絵は震災以後なおいっそう輝きを増すような作品のひとつだ。いつになったら自分の家に帰ることができるか分からない避難地域の方々がまだまだ多い状況が続いていますが、そのような状況下でなおさらその静かな祈りにみちた作風が妙にリアルでなつかしいと思えます。

なかでも同展覧会でみた「花火の日」「七夕の夜」と「出現」に描かれていた慈愛にみちた聖母のような女性像にはその軽さと厳かさのすべてにおいて完璧無比で形容すべき言葉が見当たらない。ただ素晴らしい!としか言うことができない。

これらの絵の聖母の祈りのようなものがぜひ被災地の方々にも届くように。いつか当たり前に目にする機会が出現する日が早く来ることを! もうすぐ七夕だ、そして好むと好まざるとにかかわらずまた夏がやって来る。


左より「七夕の夜」「出現」「春の少女」「遊戯の部屋」




よしむね

2011年6月28日 (火)

現在、僕の一番お気に入りのミュージシャンはアイ高野である

沖田総司の墓を後にした僕らは、次に麻布、三田近辺の寺寺に足を運んだ。このあたりは中国大使館をはじめ、各国の大使館が多いエリアである。

道行く人々も上品な外国人が多いような気がする。

まずは、賢崇寺。ここは、肥前・鍋島家の菩提寺で、家臣達の墓も一緒にある。僕は都内の墓所の中でも、ここの墓所が好きだ。静かで緑も多いからだ。

この日の目的は宇都宮太郎陸軍大将の墓である。ご存知通り、衆議院議員・宇都宮徳馬氏の父親である。

以前、写真を見たときに、宇都宮家の家紋は桔梗のように見えたのだが、実際に見てみると桜紋であった。やっぱり、微妙なところは写真ではわからないことが多い。

ちなみに、この宇都宮家は、筑後国柳川城主の蒲池氏の家老・蒲池鎮久の子の蒲池貞久を祖とする諫早宇都宮氏の流れを汲んでいる。

ということは、松田聖子(蒲池法子)の遠縁にあたるということか。ただし、血のつながりはないようである。



さて、次に僕らが向ったのは三田である。ここには、荻生徂徠が眠る長松寺や、永井龍男の斎海寺がある。

ところが、僕らの足が途中で止まった。御田いずみ霊園という新しい装いの霊園があったからだ。それは墓石の形、デザインでわかる。

最近の墓には、亡くなられた方の記憶を墓石に彫るような、家の墓というよりも個人の墓という意義の強いものが多い。「風」「笑顔」「やすらぎ」などという文字や、ペットの絵、歌の歌詞、俳句などが描かれたものも見かける。これも時代の流れであろうか。



普通だったら、こういう霊園は通り過ぎるところなのであるが、O君が「入ってみましょうか」という。彼は無口だが、墓に関する勘が鋭い。なにか、発見があるかもしれないと僕らはその霊園に足を踏み入れた。



先ほども述べたように、個性的な墓が並ぶこの霊園だが、その中でもさらに、一際目立つ墓を見つけた。

赤いハート型の墓石に「好きさ♪好きさ♪好きさ♪」と彫られている。

お~、これは「好きさ好きさ好きさ」で一斉を風靡したザ・カーナビーツのドラム兼ボーカリスト、アイ高野の墓ではないか!!



歌の中の「お前のすべて~♪」という箇所で、右手で耳を押さえながら、左手でドラムスティックを突き出すパフォーマンスは今でも覚えている方も多いのではないか。(YOUTUBEに、後年、収録した動画があったので、リンクを貼っておきます。)



このザ・カーナビーツは、いわゆるGS(グループサウンズ)ブームの火付け役ともいえるバンドで、このデビュー曲「好きさ好きさ好きさ」は120万枚のミリオンヒットを記録してる。

当時(1967年)、アイ高野は16歳、おそらく普通の少年だった彼はこの曲で一躍アイドルになるのである。

しかし、その後、1969年にザ・カーナビーツは解散。その後は、アイドルから転進、ロックミュージシャンとしてザ・ゴールデンカップスのドラマー、クリエイションのボーカルと、活躍の場所を移す。そして、80年代以降は、アニメの主題歌などもリリース、しかし、2006年に急性心不全で、55歳という短い人生を終えている。

実は、僕は高野さんのこのような経歴を知っていたわけではない。偶然、墓を見つけてそれから調べたものである。



ここからは僕の想像であるが、16歳という人生のあまりに早い時期に突然の大成功を手にした高野さん、そのインパクトがあまりにも強烈だったため、おそらく、その後の人生において、ファンが、高野さんに一方的に求め続けるイメージと、実際に彼がやろうとしていた音楽のギャップに悩まされた時期もあったのかもしれない。人間というものは、一つの場所に留まることの出来ない生き物だからだ。

これもYOUTUBEにアップされていた後年のインタビューで高野さんは、ザ・カーナビーツを振り返り、「スレッドなバンド、メチャクチャなバンドだった」というような自己評価をされている。また、当時、日本のキースムーン(ザ・フーのドラマー)と言われていたことに対して、「(そのイメージを)ぶっ壊したかったね(笑)」と述べている。つまり、彼自身、あの時代の自分に対して、全面肯定しているわけではなく、どちらかといえば、脱皮したい”なにものか”だったようにも思えるのだ。



しかし、高野さんは、結局は、ファンが求める「お前のすべて~♪」を死ぬまで、いや、死んでまでも、演じ続ける人生を選らんだのではないだろうか。墓石に刻まれた「好きさ♪好きさ♪好きさ♪」の言葉は僕にそんなことを想像させるに十分であった。



正直言って、最初、晩年の「好きだ好きだ好きだ」を歌うアイ高野をYOUTUBEで観た時、僕は、カッコいいとは思えなかった。むしろ、「無理しているなぁ。」とすら感じてしまった。



しかし、高野さんに関することを調べ、彼の人生をシュミレートし、さらに繰り返してその動画を観ていくうちに、死んでも16歳の時のままのアイドル・アイ高野であろうとする、そんな高野さんのスタイルを、僕は、一周半してカッコいいと思えるようになった。さらに、敬意すら感じるようになった。



誤解を恐れず、極論するならば、現在、僕の一番お気に入りのミュージシャンはアイ高野である。



まさむね

2011年6月24日 (金)

現在の中高年は幕末という時代に、「当時の中高年がいかに、何もしなかったのか」を学ぶべきである

現在、放送されている「JIN」や昨年の大河ドラマ「龍馬伝」もそうであるが、幕末ドラマを観ると僕はいつも疑問に思うことがある。

それは、あの激動の時代、中高年の武士達、つまり志士の上司達は一体、何を考え、何をしていたのかということである。

あの時代に活躍した有名人達は、みんなあまりにも若いのである。

明治維新があった1867年にそれぞれが何歳だったのかを見てみよう。





















































































名前 当時の年齢
勝海舟 44歳
西郷隆盛 39歳
大久保利通 37歳
木戸孝允 34歳
江藤新平 33歳
近藤勇 33歳
土方歳三 32歳
榎本武揚 31歳
坂本龍馬 31歳
後藤象二郎 29歳
高杉晋作 28歳
伊藤博文 26歳







幕府の全権を委ねられ、江戸城開場を決めた勝先生はさすがに40歳を超えているが、他はすべて20歳代~30歳代というのに今更驚く。

勿論、現在に比べると、平均寿命は短いというのはわかる。さらに、脱藩浪人として、ある意味、自由な立場で活躍した坂本龍馬が31歳というのはわからなくもないが、270年も続いた巨大組織である幕府の軍艦を率いて蝦夷地に逃走して、一時的にでも蝦夷島政府を宣言した榎本武揚も、龍馬と同じ歳の生まれ・1867年には、31歳なのである。これはいくら、榎本が優秀だったとしても、若すぎやしないか。

しかも付け加えて言えば、榎本はその父の代に、榎本家の株を購入したばかりの俄か幕臣なのである(勝海舟も同じようなものだ)。



一体、彼よりも年長の、そして、いわゆる三河以来の旗本・直参達は、何をしていたのだろうか。



さて、ひるがえって、現代について考えてみたいと思う。山野車輪さんの「若者奴隷時代」にも詳細が書かれているのであるが、現在の若者は、高齢者の生活を支えるためにまるで奴隷のように、身動きすら取れない状況で働かされているではないか。勿論、若者達が現状を満足し、幸せならばそれはそれでいいのかもしれないが、けっしてそんなことはない。就職難、ワーキングプア、ニートなど、様々な問題が彼らの世代を直撃しているではないか。

おそらく、若者達はチャンスを与えられれば、それなりに活躍できる能力があるのであろうが、その上の世代(僕も含めて)が大量に現役として存在しているがゆえに、くすぶらざるを得ないのである。

僕ら中高年は、今こそ若者に対して、「近頃の若者はダメだ、試練を乗り越えて、頑張れ!!」などと無責任なことを言うのではなく、上手に若者にチャンスを与えつつ、少しづつ身を引くべきなのではないだろうか。

組織に居座って、若者の邪魔をしながら、搾取している場合ではないのである。

不安の時代、激動の時代だからこそ、むしろ、そうすべきなのだ。



その意味で、幕末という時代に学ぶべきなのは、当時の志士と同年代の若者ではなく、むしろ、僕ら中高年なのではないかと思う。

それは、何をすべきかを学ぶのではなく、いかに出しゃばらずに、そして、いかに何もしなかったのかを学ぶべきなのである。



まさむね

2011年6月23日 (木)

僕らはもしかしたらいまだに概念を通してしか外部を見れないのかもしれない

いくつか自分の中のテーマが錯綜して、ここ数日間、ブログの更新すらままならなかった。

一本気新聞復活といっていた自分が少し恥ずかしい今日、この頃である。



かと言って、何も書かないで日々が無為に過ぎてしまうのもアレなので、とりあえず今日はなにかを書こうかとおもってPCの前に座っている。

さて、そのテーマというのは次のいくつかだ。



1)日本で何故、マンガが大人にまで浸透したのだろうか。

2)「魔法少女まどか☆マギカ」と「フラクタル」の比較で見えてきた内から外に出るということはどういうことか。

3)上記の問題と日本にだけ家紋文化が発展した理由にはどこか通底はないものか。

4)震災後、日本人の意識はどのように変化したのか。



まぁ、時間があるというのは、本当にいいことだ。こんな何の役にも立ちそうもないことが頭の中を駆け巡っても、一応、誰の迷惑にもならないのだから。



とりあえず、僕は「内から外に出る思想を考え直してみよう」ということで、80年代によく読んだ柄谷行人をパラパラとめくってみることにした。「マルクス、その可能性の中心」「隠喩としての建築」「日本近代文学の起源」などである。

当時僕は、これらの本で気になったところを線を引きながら読んでいた。そして友人にも貸して、友人にも線を引いてもらった返してもらうことにしていた。自分と友人との興味のズレが楽しかったからである。

さて、その中で特に僕の目に止まったのが、「日本近代文学の起源」の中の「風景の発見」という章であった。そこには、日本が江戸時代から明治になった時に、それまで、日本人が見えていなかった「風景」が見えてきたというようなことが書かれていた。

「風景の発見」は、過去から今日にいたる線的な歴史において在るのではなく、あるねじれた、転倒した時間性においてある。


「山水画」において、画家は「もの」をみるのではなく、ある先験的な概念をみるのである。


風景とは一つの認識的な布置であり、いったんそれができあがるやいなや、その起源も隠蔽されてしまう。


なるほど、今、読み返してみても鋭い。よくわからないが鋭い。確か、東浩紀が、日本の文芸批評は「日本近代文学の起源」で止まっているというようなことをどこかで書いていたが、その位、インパクトある言い切りである。

これを僕なりに解釈すると、現代(明治以降)、僕らが当たり前だと思っている概念の多く(柄谷行人は、この「日本近代文学の起源」のなかでそのようなものとして「風景」「内面」「児童」などをあげている)、しかもそれが歴史的にも普遍的だと思っているものの多くが実は、歴史的に作られてきたものであるということである。

僕はその中でも「風景」に興味を持ったのは、それがマンガや家紋という画像の日本における独自性を解き明かすヒントを与えてくれそうだからだ。

確かに、絵画は、明治以前と明治以降とでは、その大きな変化がわかりやすい。例えば、女性を描いた作品でも、江戸時代に描かれた歌麿の美人画と明治31年に描かれた黒田清輝の「湖畔」では、上手い下手の問題というよりも、絵を描くということの意味が全く違うように思える。そして、僕らは既に黒田清輝と同じ地平に存在しているがゆえに、彼の絵を「自然」に思え、浮世絵を何か別なもののように感じるのだ。

簡単に言えば、浮世絵では、「女性」という概念を描いているのであり、黒田清輝は女性そのものを描いているということなのだろう。



そして、柄谷行人は、この絵画における近代以前-以降の違いを文学について、書いている。わかりやすい例で言えば、松尾芭蕉の「奥の細道」は旅行記ではあるが、東北の人々や風景が活写されているわけではない。元々、芭蕉にとって、現在の僕らが「自然」と書いてしまうような旅行記など想像も出来なかったのではないか。彼が東北旅行で見たのは歌枕、つまり、過去の文学的概念だったということなのである。



そして、明治二十年代頃、言文一致運動とかもあり、日本人は近代文学を自分で書けるようになる。つまり、普通の人の普通の生活を「小説」という形式で表現することが、当たり前になったというわけである。



実は、橋本治も「江戸にフランス革命を!」の中で、同じようなことを言っている。それは江戸時代の様々な意匠についてだ。

例えば、四角いパターンというのがあったとする。いわゆる市松模様だ。僕らだったら、そのパターン、それ自体がカッコいいとか、イケてないとかいって採用したり不採用にしたりするのだが、江戸の職人さんたちは違うというのである。

”四角”がただの四角であって言い訳がない。だから”四角いもの”があったら、「これは石畳だ」と思う訳さ。四角い石が敷石となって地面に置いてあるっていうのが、その”四角いパターン”の正解になる訳ね。デザインの前にまず、”意味”がある。「江戸のデザイナーは最初に物語を作っちゃう」っていうのはこれなんだけどね。


橋本治独特のわかり易いようでわかり難い文章であるが、ようするに、江戸の人々はすべてのものを「意味」=「概念」としてみていたということだと思う。だから、市松模様の手ぬぐいがあったとして、それの模様は石畳だと、そして石畳は人工的なもので、しかもそれは「美」とは遠いものだ、だからそれをデザインしたものは、とても「粋」なものとは言えない、しかし、そんな「粋」じゃないものを敢えて手ぬぐいにするというミスマッチの行為自体は、「乙」だ、だから、それもアリなのだ...というような回りくどい思考回路(無意識としても)を通って、デザインとして流行っていくということなのだろう、多分。ちなみに、「偐紫田舎源氏」の作者・柳亭種彦の墓にはこの石畳紋が刻まれている。さすがに乙である。



しかし、日本人が長年培ってきた、概念を通して世界を見るという見方は、江戸から明治となっても、そう簡単に霧散したわけではないのではないかというのが僕が、最近、考えていることである。

そして、僕は、この、現実そのものではなく、概念を通して現実を見るという見方そのものが、日本人をして家紋という文化を発展させたのであり、ゆくゆくはマンガというフィクショナルメディアを発展させた一因ではないかと仮定したいのである。

例えば、松は長寿、片喰は正直、桐は高貴、鷹の羽は尚武...というようにデザインと意味というのが表裏一体になっていたところに、それぞれの意匠を家のシンボルとする文化が発展したのではないかということである。

また、マンガというのも、世界のパーツパーツを記号化(概念化)することによって成り立っている、これ自体、極めて日本的センスだと思わざるを得ないのだ。



(申し訳ないが、今日は、この考え方を展開する準備はないのでここまで。ここからはちょっと飛躍!!)



そして、この日本的世界の見方(概念を通して世界を見る)のおかげで、日本人は尊皇攘夷とか、富国強兵とか、鬼畜米英とか、一億玉砕とか、高度経済成長とか、反戦平和とか、バブルとか、失われた10年とか、規制緩和とか、原発反対とかいう次々と出てくる新しい概念にあわせて「自然」に頭を切り替えることが出来るのではないかということも考えられないだろうか。



もしかしたら、僕らは論理的に思考するよりも、ある概念の内部に身をゆだねるほうが楽だし、いろんな意味で有利だということを知らず知らずのうちに考えてしまう民族なのではないだろうか。ということである。



なんていうことをここ数日考えていたのでした。



まさむね

2011年4月14日 (木)

紡錘形の、灰

                        























                                 紡錘形の、灰





































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