いくつか自分の中のテーマが錯綜して、ここ数日間、ブログの更新すらままならなかった。
一本気新聞復活といっていた自分が少し恥ずかしい今日、この頃である。
かと言って、何も書かないで日々が無為に過ぎてしまうのもアレなので、とりあえず今日はなにかを書こうかとおもってPCの前に座っている。
さて、そのテーマというのは次のいくつかだ。
1)日本で何故、マンガが大人にまで浸透したのだろうか。
2)「魔法少女まどか☆マギカ」と「フラクタル」の比較で見えてきた内から外に出るということはどういうことか。
3)上記の問題と日本にだけ家紋文化が発展した理由にはどこか通底はないものか。
4)震災後、日本人の意識はどのように変化したのか。
まぁ、時間があるというのは、本当にいいことだ。こんな何の役にも立ちそうもないことが頭の中を駆け巡っても、一応、誰の迷惑にもならないのだから。
とりあえず、僕は「内から外に出る思想を考え直してみよう」ということで、80年代によく読んだ柄谷行人をパラパラとめくってみることにした。「マルクス、その可能性の中心」「隠喩としての建築」「日本近代文学の起源」などである。
当時僕は、これらの本で気になったところを線を引きながら読んでいた。そして友人にも貸して、友人にも線を引いてもらった返してもらうことにしていた。自分と友人との興味のズレが楽しかったからである。
さて、その中で特に僕の目に止まったのが、「日本近代文学の起源」の中の「風景の発見」という章であった。そこには、日本が江戸時代から明治になった時に、それまで、日本人が見えていなかった「風景」が見えてきたというようなことが書かれていた。
「風景の発見」は、過去から今日にいたる線的な歴史において在るのではなく、あるねじれた、転倒した時間性においてある。
「山水画」において、画家は「もの」をみるのではなく、ある先験的な概念をみるのである。
風景とは一つの認識的な布置であり、いったんそれができあがるやいなや、その起源も隠蔽されてしまう。
なるほど、今、読み返してみても鋭い。よくわからないが鋭い。確か、東浩紀が、日本の文芸批評は「日本近代文学の起源」で止まっているというようなことをどこかで書いていたが、その位、インパクトある言い切りである。
これを僕なりに解釈すると、現代(明治以降)、僕らが当たり前だと思っている概念の多く(柄谷行人は、この「日本近代文学の起源」のなかでそのようなものとして「風景」「内面」「児童」などをあげている)、しかもそれが歴史的にも普遍的だと思っているものの多くが実は、歴史的に作られてきたものであるということである。
僕はその中でも「風景」に興味を持ったのは、それがマンガや家紋という画像の日本における独自性を解き明かすヒントを与えてくれそうだからだ。
確かに、絵画は、明治以前と明治以降とでは、その大きな変化がわかりやすい。例えば、女性を描いた作品でも、江戸時代に描かれた歌麿の美人画と明治31年に描かれた黒田清輝の「湖畔」では、上手い下手の問題というよりも、絵を描くということの意味が全く違うように思える。そして、僕らは既に黒田清輝と同じ地平に存在しているがゆえに、彼の絵を「自然」に思え、浮世絵を何か別なもののように感じるのだ。
簡単に言えば、浮世絵では、「女性」という概念を描いているのであり、黒田清輝は女性そのものを描いているということなのだろう。
そして、柄谷行人は、この絵画における近代以前-以降の違いを文学について、書いている。わかりやすい例で言えば、松尾芭蕉の「奥の細道」は旅行記ではあるが、東北の人々や風景が活写されているわけではない。元々、芭蕉にとって、現在の僕らが「自然」と書いてしまうような旅行記など想像も出来なかったのではないか。彼が東北旅行で見たのは歌枕、つまり、過去の文学的概念だったということなのである。
そして、明治二十年代頃、言文一致運動とかもあり、日本人は近代文学を自分で書けるようになる。つまり、普通の人の普通の生活を「小説」という形式で表現することが、当たり前になったというわけである。
実は、橋本治も「江戸にフランス革命を!」の中で、同じようなことを言っている。それは江戸時代の様々な意匠についてだ。
例えば、四角いパターンというのがあったとする。いわゆる市松模様だ。僕らだったら、そのパターン、それ自体がカッコいいとか、イケてないとかいって採用したり不採用にしたりするのだが、江戸の職人さんたちは違うというのである。
”四角”がただの四角であって言い訳がない。だから”四角いもの”があったら、「これは石畳だ」と思う訳さ。四角い石が敷石となって地面に置いてあるっていうのが、その”四角いパターン”の正解になる訳ね。デザインの前にまず、”意味”がある。「江戸のデザイナーは最初に物語を作っちゃう」っていうのはこれなんだけどね。
橋本治独特のわかり易いようでわかり難い文章であるが、ようするに、江戸の人々はすべてのものを「意味」=「概念」としてみていたということだと思う。だから、市松模様の手ぬぐいがあったとして、それの模様は石畳だと、そして石畳は人工的なもので、しかもそれは「美」とは遠いものだ、だからそれをデザインしたものは、とても「粋」なものとは言えない、しかし、そんな「粋」じゃないものを敢えて手ぬぐいにするというミスマッチの行為自体は、「乙」だ、だから、それもアリなのだ...というような回りくどい思考回路(無意識としても)を通って、デザインとして流行っていくということなのだろう、多分。ちなみに、「偐紫田舎源氏」の作者・柳亭種彦の墓にはこの石畳紋が刻まれている。さすがに乙である。
しかし、日本人が長年培ってきた、概念を通して世界を見るという見方は、江戸から明治となっても、そう簡単に霧散したわけではないのではないかというのが僕が、最近、考えていることである。
そして、僕は、この、現実そのものではなく、概念を通して現実を見るという見方そのものが、日本人をして家紋という文化を発展させたのであり、ゆくゆくはマンガというフィクショナルメディアを発展させた一因ではないかと仮定したいのである。
例えば、松は長寿、片喰は正直、桐は高貴、鷹の羽は尚武...というようにデザインと意味というのが表裏一体になっていたところに、それぞれの意匠を家のシンボルとする文化が発展したのではないかということである。
また、マンガというのも、世界のパーツパーツを記号化(概念化)することによって成り立っている、これ自体、極めて日本的センスだと思わざるを得ないのだ。
(申し訳ないが、今日は、この考え方を展開する準備はないのでここまで。ここからはちょっと飛躍!!)
そして、この日本的世界の見方(概念を通して世界を見る)のおかげで、日本人は尊皇攘夷とか、富国強兵とか、鬼畜米英とか、一億玉砕とか、高度経済成長とか、反戦平和とか、バブルとか、失われた10年とか、規制緩和とか、原発反対とかいう次々と出てくる新しい概念にあわせて「自然」に頭を切り替えることが出来るのではないかということも考えられないだろうか。
もしかしたら、僕らは論理的に思考するよりも、ある概念の内部に身をゆだねるほうが楽だし、いろんな意味で有利だということを知らず知らずのうちに考えてしまう民族なのではないだろうか。ということである。
なんていうことをここ数日考えていたのでした。
まさむね
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