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カテゴリー「映画」の31件の記事

2012年7月15日 (日)

『桐島、部活やめるってよ』 ~全ての高校生に観てもらいたい映画~

現在、僕も関わっているNPO・映画甲子園では、映画『桐島、部活やめるってよ』の予告編を全国の高校生に作ってもらおうという企画(予告編甲子園)を行っています。



優秀作品は、映画の上映前に実際の映画館のスクリーンで上映される予定です。

作品応募の締め切りは7月末日なのですが、今から、どんな予告編が集まってくるのか大変、楽しみにしています。



さて、先日、その関係で、映画『桐島、部活やめるってよ』の試写会を見に行きました。

僕は、今までこのブログでは、"ネタバレ勘弁"というスタンスで、様々なアニメや映画について語ってきたのですが、この映画は、封切りが8月11日ということなので、今回に限っては映画のあらすじに関することは語ることが出来ません。

ただ、一言で言えば、「ゴドーを待ちながら」と「涼宮ハルヒの憂鬱」を足して2で和って、そこからSFと萌えを引いたような作品ということになるでしょうか。

などと言ってしまうと、勘のいい方は大体どんな作品なのか、わかってしまうかもしれませんが...



それはともかく、この作品は、全ての現役高校生に観てもらいたい作品だと思います。



エース・桐島がいなくなって突然、レギュラーに抜擢されるが、そこで自分の限界に直面するバレー部員。

そんな彼を心の中で応援しながら自分を重ね合わせるが何も出来ないバトミントン部の少女。

何でもソツなくこなすんだけど、どこか自信を持てないでいるイケメンの少年。

その少年に、恋心を抱き、遠くから眺めながらクラリネットの練習をする吹奏楽部の女の子。

そして、そんな同級生達からは見下されながらも、自分達が好きな映画を撮ろうとする映画部員の面々...



この映画の中には、どこの学校にでもいるような学生たちが、多角的に、そしてリアルに描かれています。

おそらく、誰しもがこの映画に登場する学生の中に、感情移入出来るような人物を見つけることができるでしょう。

そして、一方で、自分とは全く相容れないと思われる登場人物の気持ちも、どこかで理解することが出来るでしょう。この映画の面白いところはそういう創りになっているところです。



羨ましいと思っていた奴が、自分を持っていないつまらない奴だったり、今まで馬鹿にしていた奴の中に、自分にはないキラリと光るものを見つけたり...



この夏は、是非、この映画を観るために映画館に足を運んでみてください。

そこには、テレビドラマとは違った新鮮な映画的な感動があると思います。



西村昌巳

2011年12月 6日 (火)

映画甲子園2010優秀作品賞「漂泊」とりあえず、予告編だけでも観てほしい

縁あって、最近、映画甲子園をボランティアでお手伝いしています。

若い才能を目にするのは本当に楽しいことです。今年(2011年)も数多くの作品にエントリーしてもらい、いくつかの面白い作品がありました。一次審査は終わり、表彰式は12月28日になります。なので、今年の作品に関しては、それ以降に書きたいと思いますが、去年の作品、特に下に予告編をリンクした「漂泊」という作品について語りたいと思います。







この作品は、慶応義塾高校の映画部によって作られたということですが、そのレベルの高さには驚きです。早熟といういうか、高校生の作品とは思えません。いや、勿論、大人だからといって作れるものではないでしょう。

話の展開は、まさにロードムービーの王道です。崩壊した家族から一人離れた少女と、余命いくばくもな少年とが、海を目指すという展開。社会というシステムから、脇道に逸れた二人だけの楽しくも、美しく、しかし絶望的な閉じられた世界が描かれています。

その意味で、アニメ「火垂の墓」や映画「悪人」にも近いといえば近い作品です。



戻れる場所の無い旅。

その場限りの幻想としての現実。

そして、もしかしたら理想的な人生...



もし、ご興味のある方は、本編はこちらにアップされているので、ごらんいただけます。



まさむね

2011年11月 9日 (水)

「悪人」論2 房枝を主人公として観た「悪人」とは

昨日に引き続き、本日も映画「悪人」について書きかせていただきます。



昨日は主に、若い世代の登場人物について書いたのですが、今日は逆に、主人公・祐一(妻夫木聡)の祖母の房枝(樹木希林)について書いてみたいと思います。



彼女は、本当に日本中何処にでもいるような普通の「おばあちゃん」です。母親に捨てられた孫の祐一を育て上げ、体が動かなくなった寝たきりの夫・勝治(井川比佐志)の世話を見ながら、パートで近所の魚市場で働いています。そして、そのささやかな収入を、いつか、可愛い孫のためにと、爪に火を灯すように貯金をしています。



しかし、そんな彼女にも「落し穴」が待っていました。お年寄りを集めて、面白おかしく巧みな講習で気を惹き、最終的には法外な健康食品を売りつけるという悪徳商法の販売員・堤下(松尾スズキ)の罠にひっかかってしまうのです。

房枝は、自らの足で、堤下の怪しげな事務所に足を運んでしまいました。

それは、おそらく、彼女の単調な日々の生活に紛れ込んだ一瞬の罠だったのかもしれません。悲しいことに、あまりに悲しいことに、事務所の中の堤下は、講習会で、房枝を「美人秘書」ともちあげたあの優しい顔をしていなかったのです。



それにしても、こういう役をさせた時の松尾スズキは、憎い程、上手ですね。「大人計画」の役者独特の、素の邪悪さに満ち満ちています。

そういえば、この映画、この松尾スズキ以外でも、主演の妻夫木聡とその叔父役の光石研、ヒロインの深津絵里とその妹役の山田キヌヲ、被害者の満島ひかり、その母親役の宮崎美子、と、見事に九州出身の役者さんを揃えていますね。しかも、今日のエントリーのテーマである房枝役の樹木希林も、そのルーツは九州にあるといいます。このあたりもこの映画のリアリティを支えているのだなぁと僕は思いました。



房枝に話を戻しましょう。

堤下の甘言にひっかかってしまった彼女も、残酷なようですが、実は、昨日のエントリーでも書いた「今、ここではないどこか」に幻想を抱いてしまった普通の人、ということが言えるかもしれません。邪悪な推測をするならば、房枝が堤下の事務所へ行ったのは、実は、体がポカポカになるお茶が欲しかったのではなく、心をポカポカにして欲しかったからではないでしょうか。



しかも、そんな房枝に対して、追い討ちをかけるように、孫・祐一が引き起こしてしまった大事件、それを目当てにやってきたハゲタカのようなマスコミ取材陣、そして、さらに、房枝の心を傷つけたのは、祐一を捨てたはずの母親・依子(余貴美子)が突然やってきて、房枝に投げかけた、その言葉でした。

母親のあたしまで白か眼で見られるとよ



祐一は、祐一はあたしが育てた、あたしの子やけん



私だって、祐一には悪かことしたと思うとるけん

だけん、今でも会うたびに涙流して 謝っとるよ



あんた祐一に会いよったと?



会いよるさ。

会うたびに涙流して謝るあたしから、あん子、お金せびるとよ

千円でも二千円でも。ギリギリで生活しよるあたしから

ったく、よか、人間に育ててくれたとよ。


房枝は、事件によって、それまで彼女が知らなかった祐一の陰の部分を見せられてしまうのです。

房枝にとっては、祖母・孝行のいい孫だった彼は、それまでずっと、陰で、出会い系サイトでオンナを買い、母親に金を無心するような"悪人"の顔を持っていたというわけですね。

しかも、この映画が残酷なのは、それだけではない。最初から最後まで、祐一から、房枝に対するリアルタイムの愛情の発露が描かれていないことなのです。彼は、殺人を犯し、光代と出会うことよって、一瞬の救いを得るわけですが、彼は母親との事は切実に思い出すけれども、もう、房枝のことは意識に上らない、距離を置いた存在になってしまっているのです。

いや、逆に言えば、祐一にとって房枝とは、それまで、無言のうちに自分を抑圧し続けてきた諸現実の象徴として見えていたのかもしれません。



面白いことに、祐一は、まさに彼の母親が祖母の家に怒鳴り込んだその夜に、光代と一緒に暮らす家の夢を見ます。そして、その家の絵を描くのですが、それは、距離を置いた平屋の二世帯同一敷地内別建て住宅となっています。この二つの家の間の曲がりくねった道が、そのまま、祐一の心の中の房枝との距離を表しているのでないでしょうか。



そして次の日、房枝は思い切った行動に出ます。それが、房枝を主人公として観た「悪人」のクライマックスとも言えるシーンです。

彼女は祐一が、初めて仕事をした得た給料で、彼女にプレゼントしたというスカーフを着けて、堤下の事務所へ乗り込み、取られた金を返してもらおうと戦いに行くのです。その前に、夫の介護のため、病院へ行く際には、そのスカーフをしていなかったのですが、イザ、"決戦"という前にそれを身に纏います。これは明らかに、祐一との"共闘"、あるいは、"応援"を意味する仕草だと思います。そして、それと同時にこれは、房枝の祐一からの独立闘争という意味も担っています。つまり、これからは、自分の力で生きていかなければならないという自分自身に対する決意表明でもあるのです。



ただの、優しい、孝行孫だった祐一が、自分の知らないところで持っていた別の姿、そんな祐一が、今まさに闘っている

それは確かに、「悪いこと」かもしれない、

しかし、ばあちゃんだけはお前の味方だという、そんな声にならない沈黙の声と同時に、これがばあちゃんの闘いだ、よく見ておけという声を、僕らは聞きます。



たった一人で勝ち目の無い戦(いくさ)に挑戦していく房枝の姿は、同時に、人生で始めて「生きている」という実感を得た祐一が、これまた、敗戦必死で立ち向かう「灯台闘争」=独立闘争のシーンとシンクロするのです。



最後で、佳乃(満島ひかり)が、殺された現場で、父・佳男(柄本明)が静かに手を合わせるシーンが出てきますが、そこのガードレールには、あのスカーフが巻かれています。

これにはいろんな解釈が考えられると思いますが、例えば、被害者の佳乃に対して、

「あなたを殺した、祐一は私の孫だけど、本当を悪い奴じゃないんだよ、このスカーフはその祐一が私にくれたんだから...だから許しておくれ。」

という声を聞く人もいるかもしれません。

しかし、一方で、全く逆に、スカーフを巻くという行為が、祐一をこの現場に置いてくる、という、残酷なる"追放"を意味しているという解釈も出来るのではないでしょうか。それは房枝から祐一への「私に出来るのは、ここまでだ、お前は、一人で、この娘さんを弔い続けなさい」というメッセージとして。



つまり、あの祖母から孫への最後の贈り物(戦闘という応援)は、孫の独り立ちへの餞別だったという解釈です。

そして、祐一は、人生で二度目の"残酷なおきざり"にあったという解釈です。

それでは、それは何のために?

それは、房枝の胸の中のある暗い部分だけが知っていることではないでしょうか。



まさむね



※佳男(柄本明)もこのドラマではかなりインパクトのある役を演じているのですが、今回のエントリーでは触れることが出来ませんでした。もし、それを期待されていた方がいたとしたら、申し訳ありません。



関連エントリー:映画「悪人」における本当の悪人は土地の呪縛ではないでしょうか

2011年11月 8日 (火)

映画「悪人」における本当の悪人は土地の呪縛ではないでしょうか

今週の日曜日の日曜洋画劇場で「悪人」が放送されました。

この映画は、2010年の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、最優秀主演女優賞、最優秀助演男優賞、最優秀助演女優賞などを受賞し、加えて、権威のあるキネ旬の日本映画ベスト・ワンにも輝いた作品です。

僕は、そのタイミングで観ようとも思ったのですが、時間が拘束されるのが嫌だったので、なんとなく見逃してしまいました。



しかし、後で、その映画を観た妻から、そのストーリーや俳優の演技の素晴らしさを聞くにつれ、後悔の念が沸き起こり、結局、次の日に、観ることにしたのでした。



映画の舞台は北九州(福岡、佐賀、長崎)、一言で言うと、この映画は、その土地に暮らす普通の人々が巻き込まれていく、どん詰まりの悲劇を描いた作品ということになるのでしょう。

僕は映画のストーリーや役者さんの演技もさることながら、登場人物達の暮らしぶり、意識、あるいは、その人間関係、家族関係など、つまり、この映画の背景となるものに対して、興味を抱きました。



彼らは一人一人、精一杯生きています。しかし、彼らは決して満たされてはいません。

例えば、主人公の清水祐一(妻夫木聡)は、長崎県のうらぶれた海の見える村の平屋に住んでいます。

僕はここで、まさにこの「悪人」の舞台となった長崎県諫早生まれの天才詩人・伊藤静雄の「帰郷者」という詩の冒頭を思い出さざるを得ませんでした。

自然は限りなく美しく 永久に住民は貧窮してゐた...


さて、祐一には友人も彼女もいません。叔父の会社で、肉体労働をしながら、時々、出会い系サイトを利用して、女性と関係を持つ、そんな毎日を過ごしています。彼には人間関係というものが全く無かったのです。

彼にとっての祖父母、そして叔父は、彼の意識の中では、無味乾燥な存在のようにも思えます。(それは、祖母の彼への想いとは、対照的です。)

そんな彼の唯一の趣味は車でした。

そのことは彼の部屋に張ってある車のポスターや模型でわかります。また、彼は自分の車に愛着を持っていることは、彼が愛車に、こだわりのナンバープレートをつけていることで表現されています。

話はちょっとズレますが、この映画では、シーンシーンに登場するオブジェが、本当によく練られています。意味を持たせています。スクリーンには極力、無駄なものが写っていない、優れた映画なのです。

例えば、祐一と対照的な存在として描かれている裕福な老舗旅館の息子で大学生の増尾圭吾(岡田将生)は、アウディを乗り回し、I-phoneを使いこなしています。それに対して、祐一のほうは、国産車(日産GT-R)に乗り、携帯も数世代前のガラバゴス携帯を操作していのです。つまり、そんなところにも二人が所属する社会階層や情報感度がほのめかされているわけですね。





また、その祐一と出会い系サイトでメールをやりとりすることをきかっけにして、彼とのっぴきならない関係になっていく、ヒロイン・馬込光代(深津絵里)は、紳士服の量販店の売り子をしているのですが、典型的に、「土地に縛られている」女性として描かれています。

二人は、最初に寝たホテルのベットの上でこんな会話をします。



ここに来る途中、安売りの靴屋があったやろう

あそこを右に曲がって、真っ直ぐ田んぼの中を進んだところが、

あたしの高校やったとよ

そのちょっと手前に小学校と中学校

今の職場もあの国道沿い

なんか、考えてみたら、あたしって、あの国道から全然、離れんやったとよね

あの国道を行ったり、来たりしよっただけで...



俺も似たようなもん



でも、海ん近くに住んどっとやろ。海ん近くっとか、うらやましか



目の前に海があったらもう、その先、どこにも行かれんような気になるよ



先ほど、僕が光代について「土地に縛られている」と言ったのは、彼女は、無意識的に土地から出られないと思い込みながら(思い込まされながら)、一方で、いつも現状に不満を抱いているからです。彼女には同居する妹がいますが、二人の気持ちは決して通じ合っているわけではないのです。



そして、そういった意識は、強弱こそあれ、この映画に登場する多くの人々が共通して持つ、いや、もしかしたら、現代に生きる日本人の多くが持つ、呪縛と幻覚なのかもしれません。

彼らは(そして、僕らも)、その呪縛と幻覚ゆえに、いつの間にか、「今、ここではないどこか」を求めて生きざるを得ない存在から抜け出ることが出来ないのです。



この「悪人」という映画は、この「今、ここではないどこか」というどこにも無い幻想を求めた者達の悲劇を描いた映画ということすら言えるのではないかと僕は思うのです。

その最初の悲劇の犠牲者が、石橋佳乃(満島ひかり)でした。彼女は、高校を卒業して保険の外交員をしています。親は久留米で理容師をしているのですが、彼女は、博多の寮で一人暮らしをしています。また、同僚とは表面的には仲がいいのですが、お互い本音の付き合いは出来ていません。そして、一方的に、大学生の増尾に幻想を抱いています。

しかし、現実は残酷です。彼女は、偶然に通りかかった増尾の車に乗せてもらうのですが、機嫌の悪かった彼に疎んじられ、なじられ、挙句の果てには、誰もいない峠で、車から蹴り出されてしまうのです。

そして、身も心もボロボロになった最悪の佳乃は、その車を尾行していた祐一に声をかけられるのですが、逆上して彼を罵倒してしまいます。

彼女の精一杯のプライドが、祐一を傷つけるのです。



警察に言ってやる。

絶対に言ってやる。

レイプされたって、拉致られたって言ってやる。



勿論、彼は彼女に対して、そんなことをしたわけではありません。いや、むしろ、彼女を助けようとしていたのです。しかし、逆上した彼女の言葉は残酷でした。

祐一にとって、最も、言われたくない言葉を言ってしまうのです。



誰があんたのことなんか信じると?

誰も信じんよ!



実は、祐一は子供の頃に、母親に捨てられていたのです。

そして、子供の彼は、母親が戻ってくるということを必死に主張しました。しかし、誰にも相手にされなかった...

彼は、後のシーンで、光代に、こう、述懐します。

かぁちゃんは戻ってくる!

かぁちゃんは...

誰も信じやんかった。

俺の言うことなんか。

誰も信じやんかった。



そして、それ以来、祐一は、自分が、存在する意味がわからないまま、ただ孝行な孫を演じるようになっていたのです。

そして彼の心は、爆発します。



俺だって今まで生きとるかも、死んどるかも、ようわからんやった。

(光代に対して)俺にさわるな!

なんでこんな人間なんやろ、俺...



僕は、祐一の自動車への愛着は、彼の「今、ここ」からの脱出願望の表現だというように感じます。彼は、車でどこかへ行こうとするときだけ、自分を感じることができたのかもしれません。

しかし、彼も、先ほど述べたような意味で、呪縛された男です。結局、祐一は、母親が彼を見捨てた「灯台」へまでしか行けないのです。

言うまでも無く、「灯台」は、自由に海を行き来する船を見つめるだけの存在、自分自身では何処へも行けない存在、つまり、祐一自身なのです。

そして、祐一は、佳乃の首を絞めてしまいます。こうして、祐一は殺人者となってしまうのです。



その後、祐一は、光代という、初めて自分を分かってくれる存在に出会います。

しかし、時は既に遅かった...祐一は既に殺人者から、逃亡者となってしまっていたからです。

そして、光代は祐一に一緒に逃げようと言ってしまうのです。

ついに、二人は、彼らを抑圧してくる現実よりも、「一瞬の幻想」への道をつき進んでしまうのです。

日本の西のどん詰まりの「灯台」、そこでわずかな間、祐一と光代との二人だけの生活が始まるのです。

しかし、現実の残酷さによって、二人の逃避行はカタストロフ(破局)を迎えてしまいます。残念ながら、当然の結果とも言えるでしょう。

同様の境遇に陥った二人という意味で類似している「火垂の墓」における兄妹は、衰弱死という結末を迎えますが、「悪人」においては、祐一は逮捕され、光代は、元の生活に戻るのでした。



光代は、以前と同じように例の国道を自転車で通勤し、以前と同じように、お客に愛想を言いながら紳士服の売り子に戻ります。



僕の妻は、この最後のシーンを見て、「あれだけ大騒ぎを起こしたら、同じ職場で働き続けるというのは有り得ないんじゃない?」と言っていました。



しかし、僕は、逆に、それほど、彼女を抑圧する土地の呪縛は強い、ということを表現しているんじゃないかと思いました。

もしかしたら、彼女には、他の土地に出て、新しい人生を送るという選択肢すら、見えていなかったのかもしれません。僕には、人間関係を寸断され、「今、ここではないどこか」への幻想を持たされながらも、土地に縛られて生きざるを得ないその社会からの呪縛こそが、この映画のテーマである本当の悪人のように思えたのでした。



まさむね



※本当は祐一の祖母・房枝(樹木希林)や、佳乃の父・佳男(柄本明)についても語らなければいけないところなのですが、それはまたの機会とさせていただきます。

関連エントリー:「悪人」論2 房枝を主人公として観た「悪人」とは

2011年8月 9日 (火)

「うさぎドロップ」 アニメ版VS映画版の勝敗の行方

現在、僕がリアルタイムで追っているアニメは、『輪るピングドラム』と『うさぎドロップ』(左画像)である。『輪るピングドラム』のほうは、一人の少女がペンギンの帽子を被ると、突然、画面が切り替わりテンションが上がる、その落差に惹かれる。

これぞ、アニメ独自の表現とでも言うべきか、『生存戦略~!』というのは僕の中での隠れた流行語になってしまっている。



話はまだ中途なので、全部観終わった時点で感想を書いてみたいと思う。



一方、『うさぎドロップ』のほうは、地に足が着いているとでも言おうか、『輪るピングドラム』のような破廉恥な演出もなく、淡々と有り得そうな展開が進む。正直言って、実写のほうが似合っているストーリーとも言えるかもしれない。ただ、このアニメが放映されている『ノイタミナ枠』は、萌えアニメと一線を画するアニメを放送している枠で、前々クールでは、『フラクタル』を、また、前クールでは、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』を放送しており、よくも悪くもアニメという概念に対する挑戦(少なくとも意識)はしている枠として認知されている。



そういう文脈で見れば、今回の『うさぎドロップ』は、同時期に上映される映画版とのライバル関係にある、ある意味、実写への挑戦という意味があるのではないかというのが僕の見立てである。つまり、いかにアニメ表現が、実写の得意フィールドであるファミリードラマというお題を与えられた「試合」で肉薄し、そして勝ることが出来るのか、そういったテーマをこのアニメは担っているのではないかということである。その意味で僕はこのアニメに期待しているのだ。



ちなみに、若干ビジネス的な視点から言えば、アニメ版の制作委員会には電通が名前を連ねているのに対して、映画版はショーゲートという博報堂系の配給会社による配給だ。その意味で、この作品のアニメ版VS映画版を企業の代理戦争として、横目で見るという楽しみが無いわけではない。



まぁ、映画版は8月20日封切りのため、現在は予告編しか観られないのであるが、それを観た限りでは、僕は映画版の方に肩入れしたい気がしている。



以下は、本当に、僕の超個人的な贔屓感覚なので、他の方には、あまり参考にならないかもしれないのをご了解下さい。

導入部分の解説をWikiより引用する。

祖父の訃報で訪れた祖父の家で、30歳の独身男、河地大吉(ダイキチ)は一人の少女と出会う。

その少女、鹿賀りんは祖父の隠し子であった。望まれぬ子であったりんを施設に入れようと言う親族の意見に反発したダイキチは、りんを自分が引き取り育てると言った。こうして、不器用な男としっかり者の少女との共同生活が始まる。


そして、その祖父の葬式で、親族は、順々に菊の花を棺に入れていく。しかし、りんは、祖父が好きだったということで、庭に咲いていた竜胆の花を採ってきて棺に入れる。何故ならば、祖父は、竜胆の花が大好きだったからである。実は、りんという名前も、その竜胆から取られたのだ。それゆえに、竜胆という花は、祖父と彼女とを結ぶ特別の花だったのである。

さらに、彼女は主人公の大吉(ダイキチ)に引き取られ、小学校に上がるとき、通名として河地姓を名乗らないか、と薦められるのであるが、祖父との繋がりを大事にして鹿賀という名字を自ら選ぶという経緯も出てくるのである。



それでは、何故、祖父は竜胆という花が好きだったのだろうか。そのヒントが映画版の予告編にはチラっと出てくるのだ。

実は、祖父の葬式の時の提灯には、ちゃんと笹竜胆紋があるのである。

それゆえに、僕は映画版に肩入れしたいのだ。

決して、常々電通よりも博報堂のほうに好感が持ているというだけの理由、あるいは、ただ松山ケンイチファンということだけの理由でもないのである。



一方で残念なことにアニメ版では、提灯の描写はなく、おばさんの紋付には、紋らしき白丸は描かれているのだが、それはただの白丸にしか見えないのである。

しかし、勝負は決まったわけではない。

アニメ版の第一話は、サブタイトルが「りんどうの女の子」なっているように、竜胆という花がかなり重要視されて出てくるのであるが、映画版においてはまだ、りんが祖父の棺に竜胆を手向ける場面を確認したわけではないからである。笹竜胆の提灯が(あくまで家紋主義的に)意義を持つためには、そのシーンがきちんと描かれていることが必須なのである。



おそらく、映像コンテンツの価値というのは、そういったディテイルをいかに予算&時間内で、丁寧に描き出すのかにかかっていると僕は思っている。

勿論、提灯の家紋に意味を見出すという視線で『うさぎドロップ』を観ている視聴者はけっして多くはないかもしれない。しかし、そういった所で、映像の評価をする人もいるのだということを一言記しておきたくて、このエントリーを描いた次第である。



まさむね

2011年3月 9日 (水)

「Nowhere Boy」それはあまりにも正直な男の話である

飯田橋ギンレイホールで「ノーウェアボーイ」を観た。


この映画は、ジョン・レノンの青春時代をドラマ化したもので、特に母親ジュリアンと伯母ミミとの間で翻弄され、傷つきながらもロックンロールや仲間たちと出会い、一人の男として成長していく彼の姿を描いている。正直、秀作だ。



開場前から、長蛇の列が出来ていた。改めてジョンレノンの人気の深さを思い知る。特に中高年の方が多いようだ。おそらく、観客一人一人、それぞれのジョン観を胸に抱きながらスクリーンを見つめていたに違いない。そんな言葉にならない暖かさが会場に満ちていたというのは僕の錯覚か。



さて、これは僕の見立てであるが、ジョンは、実の母親であるジュリアンから労働者階級的な享楽主義、ロックンロール、肉体主義などを受け継ぎ、伯母のミミからは中産階級的な教養や知性、向上心を受け継いだ。そのために彼は肉体は労働者階級、頭は中産階級という複雑な存在としてビートルズを奇跡的な成功に導いたのである。



この映画で、繰り返されるシーンがあった。ジョンが外出しようとすると、必ず、ミミがジョンに、「眼鏡をかけていきなさい」と声をかけるのだ。ジョンは、その場ではミミの言う事を聞いて眼鏡をかけるが、家から離れると眼鏡をはずすのである。正直、カッコ悪いからだ。


おそらく、ここでは眼鏡はミミへの服従(のフリ)のメタファーになっている。逆に言えば、眼鏡をはずすということは少年・ジョンにとって、自由を得るということでもあるのである。



ちなみに、こんなシーンもあった。「眼鏡をかけなさい」というミミ、「ポケットに入っているよ」とジョン、「ポケットは近眼じゃないでしょ」とミミ、このあたりにイギリス的ユーモアが垣間見られた。



しかし、僕らが後年、ビートルズ史を振り返る時、ジョンレノンが、アイドルという仮面を脱ぎ出した頃、つまりステージを降りた頃、年代でいえば66年頃に眼鏡をかけ始めたという歴史に思い至る。そして、逆に眼鏡こそ、ジョンの象徴的アイテムになっていくのだ。彼がロックンローラーから、内省的なロックミュージシャンに変貌していくために、そして労働者階級的肉体主義から、中産階級的観念主義へ移行していくために、眼鏡は必要なアイテムだったと言うのは言いすぎだろうか。


もっともそれは、この映画の観点からすれば、まさに皮肉だ。ジョンの眼鏡は、逆に、社会の反逆者・ジョンの象徴となっていくのだから。





さて、この映画について、もう一つ語ってみたいことがある。それはこの映画のタイトル「NowhereBoy」のことである。映画の最初の方で、ジョンは学校の教師に叱責される。その時、お前はこのままで行ったら就職が出来ないだろう、行き場もなくなるだろうと言われる。そこでNowhereという言葉が使われる。それに対して、ジョンは「そこは天才のたまり場?おれの場所です」というように返す。


そして、映画の中では、ミミの家は窮屈、ジュリアンの家には居場所がないという、悩み多きNowhereBoyとしてのジョンが描かれている。



しかし、ジョンの凄さは、上記二つの個人的なNowhereBoyを超えて、普遍的なNowhereManを発見したことだろうと僕は思っている。


少々大げさに言えば、「Rubber Soul」の中の「Nowhere Man」は、共同体から引き剥がされて、自分自身とは何なのかについて夢と不安の中で生きざるを得ない運命を背負った20世紀後半以降の若者を表現するのにもっともふさわしい曲なのだ。



さらに言えば、「Nowhere Man」というのは「Now Here Man」ということでもある。


つまり、どこにも居場所の無い男は、今、ここにいるありふれた男、というダブルミーニングにもなっているということだ。



この映画のもう一つの見所、それは、後に天才と言われたジョンは、実は、やんちゃで、スケベで、嫉妬深い、時に暴力的で、時にナイーブでわがままでおちゃらけた、しかし優しい普通の少年だったというところである。


彼の天才性は、特別の才能というよりも、そんな自分をさらけ出せる特別な正直さだったのかもしれない、この映画はそんなことも僕らに教えてくれる。


昔、僕がお世話になった会社(GAGA)が配給している映画だからというわけではないが、未見の方は、是非、劇場で見て欲しい映画だ。



まさむね

2011年1月 3日 (月)

僕の妻が観たもう一つの「ノルウェイの森」

昨日のエントリーでも書かせていただいたが、昨日「ノルウェイの森」を観にいった。

久しぶりの映画である。

80年代〜90年代にかけてはよく映画を観にいったが、最近はトンと映画館に足を運ばなくなってしまった。

この「ノルウェイの森」は以前より、妻と一緒に行く約束をしていた映画だ。

僕自身、ビートルズ、村上春樹と来たからには、どうしてもトライ・アン・ユンも押さえておきたかったのである。個人的に「ノルウェイの森」三部作の最終章というわけだ。

一方で妻も事前に小説を読んだり、ネットで情報を収集したりして、準備万端だったようだ。僕のこの映画に対する雑感は昨日の「「ノルウェイの森」、小説と映画におけるテーマの違い」で記したので、今日、ここに書きたいのは妻が抱いた「ノルウェイの森」評を中心とした話である。

        ★

妻の観方は、直子(菊地凛子)からみた視点であった。

当然といえば、当然であるが、僕は男性ゆえに、主人公のワタナベ(松山ケンイチ)にシンパサイズしてこの映画を観ていた。

しかし、彼女は違った。徹底的に直子からの視点で、スクリーンを見ていたのである。

僕らは家に帰ってきて、自然と、今、観た映画の話になった。僕は直子の死因は、キズキとワタナベに対する罪ではないかと思っていたが、彼女の観方は微妙に違った。



直子は、男性を好きなると、逆に体が閉じてしまうという悲しい精神をした女の子だ。キズキの死もそのことが原因であるという自覚を持っている。つまり、罪の意識に囚われているのである。

また、直子はワタナベに対しても、心が惹かれていくに連れて、体は閉じてしまう。そして、その自分の精神の宿命に対して、思い詰めて病んでいくのだ。多分、ここまでは僕と妻の観方はほぼ同じだと思う。しかし、最終的に、直子がその命を絶つ理由の解釈が微妙に違っていたのだ。

僕はある意味、単純に罪の意識が生きる意欲を凌駕した時点に彼女の死があったのではないかと考えていたのであるが、妻は、罪による死という以上に、自分の21歳の時の姿を永遠にワタナベの中に刻印するために死んだのではないかというのだ、例えば、ル・コントの「髪結いの亭主」において妻・マチルドが幸せの絶頂で死を選んだのと同じように...



なるほど、でもそれって女性(直子)にとっては最高の死であっても、一方の男性(ワタナベ)にとっては残酷すぎる結果にしかならないのではないの?と僕。



17歳のままのキズキ、21歳のままの直子を心の中に刻印しながら生きていくことを選択しなきゃいけないワタナベ。それが残された者の道でしょ、と妻。



しかし、妻はそれも究極の愛の形だというのである。

プラトニック恋愛の至高形を「死」で示した直子、その一方で、愛情と肉体とが矛盾無く連動しているダイナミックな「生」の世界に生きている女の子・ミドリ(水原希子)、そして愛情とを全く無関係なものとしてセックスをする永沢(玉山鉄二)。異なる3つの世界(「死」の世界、「生」の世界、「快楽」の世界)を流されるように放浪させられた存在がワタナベなのではないかと、そして、最後のワタナベの「僕はどこにいるんだ?」というセリフは、そんなワタナベが今までの放浪から生還し、自分が生きていくべき世界はミドリのいる世界であることに覚醒した瞬間としてとらえるべきではないかと言うのである。

        ★

一つの映画を観た後に、思いっきり語るというのは楽しい。

誰の意見が正しいとか間違っているとかは置いておいて、いろんな観方が出来るような映画はやっぱり名作といってもいいと思う。

どの映画とは言わないが、「愛する人が不治の病になって死んでしまう」というような映画は確かに、涙を誘うが、それはある意味、一面的で強引だ。

むしろ、泣けない死を描いた「ノルウェイの森」こそ映画らしい映画というべきではないのだろうか。



「これはヒットしないね」

僕と妻の共通の一言はそれであった。



まさむね



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2011年1月 2日 (日)

「ノルウェイの森」、小説と映画におけるテーマの違い

村上春樹の「ノルウェイの森」のテーマは何か。

僕はそれは、共同体が崩壊した後、人は突然に死んだ隣人を弔うことが出来るのだろうかというということだと思っている。

そして、死の比喩として草原にぽっかり空いた井戸の話が出てくるのだ。おそらく、それは必然的な挿話である。

引用してみよう。

直子がその井戸の話をしてくれた後では、僕はその井戸の姿なしには草原の風景を思い出すことができなくなってしまった。実際に目にしたわけではない井戸の姿が、僕の頭の中では分離することのできない一部として風景の中にしっかりと焼きつけられているのだ。(中略)僕に唯一わかるのはそれがとにかく おそろしく深いということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒が-世の中のあらゆる種類の暗黒を煮詰めたような濃厚な暗黒が-つまっている...


今まで隣を一緒に歩いていた恋人がいきなり深い井戸に堕ちてしまう(突然、死んでしまう)。残された者は、わけが分からずに、言うにいわれぬ喪失感を抱き、泣き、悲しむ。

しかし、現代人には死者を弔う作法が既にない。



日本人は長らく、村落共同体を基本にして生きてきた。そこでは共同体の作法を無視しては生きてはいけない。村八分という言葉があるが、仲間はずれになった家でも、火事の消化と葬式だけは付き合ってもらえたということだ。逆に言えば、村落にとって火事の類焼と死者の穢れを共同体の外へ捨てる儀式だけは、仲間はずれにされた家の問題というよりも共同体の問題として片付けなければならないと考えられたということなのである。

しかし、近代以降、多くの学生や労働者が都会へ出てきた。つまり、共同体の作法が希薄な世界に身を置くことになった。そして、そこで生じたのが(共同体ではなく)個々人が「死者を弔うことは可能なのか」という課題である。

そして、村上春樹の「ノルウェイの森」は、都市生活者にとっての隣人の唐突自死への対応の不可能を真正面から取り上げた小説である。

しかし、トラン・アン・ユンが解釈し、映画化した「ノルウェイの森」には、上記の草原の穴のエピソードはまるっと抜けていた。

なぜ、彼は映画でその場面を抜かしたのであろうか。

それが本エントリーのテーマである。



さて、ストーリーを簡単に追ってみよう。(とりあえず、本エントリーに不要な部分は、だいぶ省略していることをご了解下さい)

ワタナベとキズキと直子の3人は、高校時代いつも一緒にいた。キズキと直子は幼馴染であると同時に恋人でもある。だから、3人で一緒にいるとは言っても、その二人とワタナベの間には微妙な距離があった。ある日、キズキとワタナベがビリヤードをした夜にキズキはガス自殺をしてしまう。それは何の前触れも無く突然の出来事であった。

ワタナベはその日から、喪失感というよりも、逆に「ぼんやりとした空気のかたまりのようなもの」を抱えて生きていくようになる。そして彼は東京に出て、大学生となり漠然とした日々を生きている。

しかし、ある日、偶然に直子と再会するのだ。それ以来、徐々に、親しくなってゆく直子とワタナベ、そして直子の二十歳の誕生日に二人は寝るのである。

しかし、その後、直子はワタナベの前から姿を消し、京都の山奥の療養所に入ってしまう。

そして、数ヶ月後にワタナベはその療養所を訪れ、直子と再会し、直子からキズキとの秘密の話を聞く。

それは、直子はキズキとは一度もセックスをしていなかったということである。しかも、それは、しようとしなかったということではなく、直子の体が決してキズキを受け入れようとしなかったというのだ。

心では愛していても、体は拒絶してしまうというダブルバインド(心と体の分離状態)を気に病む直子。そしてキズキの死。

直子は、キズキの死を自分のせいであるという罪を背負って生きていたのである。

そんな直子の前に、キズキのとの思い出を共有しているワタナベが出現。

そして直子は、ワタナベとセックスをすることによって、つまり、ワタナベと一緒にキズキを裏切ることによって、罪、そして死の穢れを共有しようとするのだ。



しかし、その後、直子はワタナベにも体を開くことが出来なくなっていた。

つまり、直子は、キズキへの罪の意識に加えてワタナベへの罪の意識をも抱くようになる。そして、抱えきれなくなった時に、自らの命を絶ってしまうのだ。



東京で彼女の死を知らされたワタナベ。

彼はキズキの死と直子の死という二つの罪による穢れを負わされ、悲しみの中で放浪する。

そして東京に戻ると、京都の山奥の療養所で同室だったレイコさんがワタナベのアパートを訪ねてくる。

キズキの死を直子とワタナベが共有しているのと全く同じように、レイコさんはワタナベと直子の死を共有している友達である。

ワタナベとレイコさんは、直子とワタナベがしたように、寝る。

レイコさんは、ワタナベに「寝るべき」といい、ワタナベは拒絶できずに言われたままに、彼女と寝るのである。

おそらくレイコさんが、ワタナベの体に溜まったキズキと直子の死の穢れを、セックスという「共犯的儀式」によって自分の身にまとわせて、遠く(旭川)に去る(おそらく死ぬ)ことによって、ワタナベの罪と穢れを浄化しようとしたのだ。

トラン・アン・ユンにおける「ノルウェイの森」のテーマは共犯的セックスによる死者の弔い(罪と穢れの浄化)ということだと僕は解釈する。

実は、映画では、レイコさんがワタナベと半強制的に寝るように描かれているが、原作では違う。二人は、レイコさんが弾くビートルズの曲によって音楽葬を行い、その後、お互いの気持ちから出たセックスをするのである。

引用してみよう。

「ねえ、ワタナベ君、私とあれやろうよ。」と弾き終わったあとでレイコさんが小さな声で言った。

「不思議ですね」と僕は言った。「僕も同じこと考えていたんです。」


また、映画では、ワタナベが一方出来に旭川に遊びに行きます、というのだが、原作では、レイコさんが「いつか旭川に遊びに来てくれる?」と誘っているのである。

つまり、原作ではレイコさんとワタナベの性関係と、レイコさんの遠方への旅立ちには特別な意味が付与されていないようにも読めるのだが、それに対して映画では、レイコさんは自ら罪と穢れを引き受け、別世界に旅立とうとする、まさに自覚的な犠牲者としての役を担っているのである。



そして、最後のシーンにおいて、アパートの赤電話からすがるように電話をするワタナベに対して、「生の象徴」である緑が電話に出る。

それによって、ワタナベは死の穢れた場所から抜け出し、いつの間にか、生き生きとした世界に生まれ変わっていたことが示されるのだ。



緑がワタナベにたずねる。

「あなた今、どこにいるの?」

ワタナベが答える。

「僕はどこにいるんだ?」



さらにいえば、原作のラストシーンでは、ワタナベは人ごみの雑踏の中で電話をするという設定だったのに対して映画ではアパートからの電話という設定になっていた。

この設定変更においても、個々人がバラバラになってしまった現代社会における問題という僕が原作で特に意識したテーマは、トライ・アン・ユンはそれほど重要視はしていないということを読み取ることが出来るのではないだろうか。



共同体が崩壊した後の現代社会において、隣人の突然の死を弔うことは出来るのかという自問に対して、「どのような強さも愛する人を亡くした哀しみを癒すことは出来ない」と、絶対的な哀しみを抱えて生きざるを得ない、つまり弔いの不可能性を提示したのが村上春樹の「ノルウェイの森」だとすれば、トラン・アン・ユンの「ノルウェイの森」には、自殺に対する残された者の贖罪意識とその浄化という、敢えて言えば極めて西洋的なテーマが強く出た作品になっていたというのが僕の解釈だ。

つまり、草原の穴のエピソードを削除したのは、トラン・アン・ユンにとって、そのシーンはむしろ邪魔だったからだというのが僕の結論である。



そして、さらに言えば、彼の作品には、もう一つの「ノルウェーの森」、つまりビートルズの原曲も入る余地はなかった。

だから、エンドロールでしか流せなかったのである。



まさむね



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2010年12月30日 (木)

「少年メリケンサック」 僕らはなんて不自由なのか

人間というものは、はたして成長することが出来るのだろうか。

20歳の時、30歳の頃、40歳になって、そして今50歳を越えて、実は何も変っていないのではないかと思うことがある。

今日、テレビで「少年メリケンサック」を観た。

伝説のパンクバンドが25年の歳を経て復活するという話だ。

もちろん、官九郎の本だから、シビアな話の中にもオリジナルなギャグがあるが、全体的に重い。

しかし、宮崎あおいだけは活き活きとしている。この映画が、一方で「篤姫」の撮影時期に重なるというのだからやっぱり彼女は天才だ。

いや、逆に一方で「篤姫」になっていたからこそ、ここで、徹底的にパンクな女子になれるのかもしれない。

いずれにしても彼女は天才だ。



パンクというのは、人間が意地と欲望と本能と激情に近い場所でいかに生きること出来るのかという人体実験みたいなところがある。

それは世間に対して徒党を組んで挑む、無謀な戦いである。

しかし、僕ら日本人は人がいい。だからどうしてもパンクになりきれない。

反体制であるべき話が、いつの間にか友情や兄弟愛の話になってしまう。

それは民族的限界か、あるいは、僕らはまだそこまで追い詰められていないのか。



映画の中でも、彼らは、敗れ去った25年前の青春を乗り越えることが出来なかった。結局、同じことを繰り返してしまうのだ。

でも、だからこそまたパンクな人々=「絶対に成功しない人々」は永遠にいとおしい。



現実世界において僕らの多くはパンクロッカーではない。だか、心のどこかにやり残した過去の想いを抱きながら生きている。

そしていつか、その心の傷に復讐できないだろうかと考え続けている。

しかし、結果としては、再び、敗れてしまうにちがいない...



おそらく、この再び敗れ去る青春、これこそが官九郎の大きなテーマに違いない。「木更津キャッツアイ」もそういった繰り返しの話であった、確か。



「少年メリケンサック」を観ながらそんなことを考えた。

映画の内容は多分、1ヶ月もすれば忘れてしまうだろうが、今日、この映画を見て想った事からはしばらく自由になれないだろう。

人間とはなんて不自由なものか。とりあえず、それが結論である。



まさむね

2010年11月10日 (水)

ある時代の「ひとつの坂の上」の雰囲気がよく描かれていたということだけでも、映画「シングルマン」を見る価値はある

映画「シングルマン」を見た。バイセクシャルの話なのだが、そうした題材というよりも、描かれている当たり前の個人としての孤独感に共感できるし、ぼくはとても好きな部類に入る映画だ。監督がファッション・デザイナーのトム・フォード(ぼくはこの人の眼鏡のデザインが好きだ)ということもあり、映像がスタイリッシュで抑制が効いていてかつ最小限の美しさにあふれているような感じもいい。どこかノスタルジックな映像表現だ。もちろん映像だけではなく、人物や状況の描写も優れていると思う。



だが、それよりも一番良かったのは1960年代のアメリカという舞台設定だ。ちょうどキューバ危機の前後この当時のアメリカのおそらくミドルクラス以上の生活風景。芝生つきの広い家。モータリゼーション(自動車)の進展期。主人公が運転するアナログ的なインパネをもつ4ドア自動車がまたいいのだ。これはイーストウッドの「グラン・トリノ」の世界にも通じるもの。そして銀行での顧客サービス。すべてにおいてまだ上品で余裕があった時代のアメリカ白人社会が透けてみえるようだ。



総じて中流やや以上の暮らしが中心なのだろうが、それこそあの時代もっとも全世界があこがれていたに違いないアメリカの暮らし。冷蔵庫とTVと自動車と広い庭つきの白亜の家(それは空虚と裏腹だとしても)。そしてリビングの風景、60年代のファッション。女性の髪形の編み上げかたの面白さ。ポップだった時代。とくにジュリアン・ムーアのパーマネント・ウェイブがまたあの時代のポップな感じを想わせていい。ツイッギーみたいな感じか。ビートルズもこの時代の申し子。



いずれにしてもその功罪は別にして、それらはどういう時代であれまず貧しい国が成長を目指す過程でかならず思い描くであろう日常生活としての欲望のかたちにつながっている。そして映画のなかでの自信にみちて明るく紳士的・淑女的にみえる登場人物たち(もちろん登場人物たちの性格のねじれはあるのだが)。いっぽうで個人によってはどこか破滅的になりつつある(主人公が感じている核戦争の危機による世界の終わり)予感もある。



そうした諸々の変化に取り巻かれながらも、まだ健全で強く、退廃的であることが許されていたアメリカの古き良き時代。それは「トゥルーマン・ショー」の管理社会まではまだずっと遠い時代でもあり、登場人物はみんなやたらとタバコを吸っていたりするのだ。



最近読んだ関川夏央さんの「坂の上の雲と日本人」によると、司馬遼太郎さんの見方でもあるのだろうが、日本は日露戦争までの坂に至るまでは健康で明るい国だった(いわゆる偉大な明治だった)が、その達成以降劣化してゆくということになる。



その言い方にならえば世界史的にみればおそらくアメリカの全盛時代は1950年代から60年代前半あたりまで(ケネディ大統領が暗殺される辺りまで)で、それ以降はベトナム戦争への没入とともに劣化していくことになるといえるのかもしれない。そしてもっと広げていえば西欧やアメリカを中心とした先進国が文化的にも成長という意味でもまだ全的に輝いて見えた時代とはおそらく60年代までということになるのではないか。文化史的にみればフーコーとかラカン、バルトとかレヴィ=ストロースなどの一連のいわゆる構造主義者の著作が目白押しだったのが1966年という年だった(文化的にエポックの年)という指摘もあるようだ。



そしてこの辺りを境に日本でも世界でも学生運動が頻発し、その挫折とともにどこか停滞のステージに入っていく。70年代は石油危機が起こり、ローマクラブからは「成長の限界」というレポートが出るDecadeでもあった。先進国での人口増加のカーブ曲線もこの辺りをピークに変局していくともいわれている。ぼくが中学生から大人になってゆくのはこれ以降の時代だ。



没落の予感に怯えつつ、でもまだ日常生活の風景(消費社会)としてはアメリカが頂上の栄華を極めていた時代。だいぶ蛇足が長くなってしまったが、そのように紛れもなくある時代の「ひとつの坂の上」の雰囲気と、どこかそこはかとなく漂っているノスタルジーの感覚がとてもよく描かれていたということだけでも、「シングルマン」を見る価値はあるように思う。そしてそこにひとりの個人史の生と死もオーバーラップされて刻まれているのだ。



よしむね



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