今週の日曜日の日曜洋画劇場で「悪人」が放送されました。
この映画は、2010年の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、最優秀主演女優賞、最優秀助演男優賞、最優秀助演女優賞などを受賞し、加えて、権威のあるキネ旬の日本映画ベスト・ワンにも輝いた作品です。
僕は、そのタイミングで観ようとも思ったのですが、時間が拘束されるのが嫌だったので、なんとなく見逃してしまいました。
しかし、後で、その映画を観た妻から、そのストーリーや俳優の演技の素晴らしさを聞くにつれ、後悔の念が沸き起こり、結局、次の日に、観ることにしたのでした。
映画の舞台は北九州(福岡、佐賀、長崎)、一言で言うと、この映画は、その土地に暮らす普通の人々が巻き込まれていく、どん詰まりの悲劇を描いた作品ということになるのでしょう。
僕は映画のストーリーや役者さんの演技もさることながら、登場人物達の暮らしぶり、意識、あるいは、その人間関係、家族関係など、つまり、この映画の背景となるものに対して、興味を抱きました。
彼らは一人一人、精一杯生きています。しかし、彼らは決して満たされてはいません。
例えば、主人公の清水祐一(妻夫木聡)は、長崎県のうらぶれた海の見える村の平屋に住んでいます。
僕はここで、まさにこの「悪人」の舞台となった長崎県諫早生まれの天才詩人・伊藤静雄の「帰郷者」という詩の冒頭を思い出さざるを得ませんでした。
自然は限りなく美しく 永久に住民は貧窮してゐた...
さて、祐一には友人も彼女もいません。叔父の会社で、肉体労働をしながら、時々、出会い系サイトを利用して、女性と関係を持つ、そんな毎日を過ごしています。彼には人間関係というものが全く無かったのです。
彼にとっての祖父母、そして叔父は、彼の意識の中では、無味乾燥な存在のようにも思えます。(それは、祖母の彼への想いとは、対照的です。)
そんな彼の唯一の趣味は車でした。
そのことは彼の部屋に張ってある車のポスターや模型でわかります。また、彼は自分の車に愛着を持っていることは、彼が愛車に、こだわりのナンバープレートをつけていることで表現されています。
話はちょっとズレますが、この映画では、シーンシーンに登場するオブジェが、本当によく練られています。意味を持たせています。スクリーンには極力、無駄なものが写っていない、優れた映画なのです。
例えば、祐一と対照的な存在として描かれている裕福な老舗旅館の息子で大学生の増尾圭吾(岡田将生)は、アウディを乗り回し、I-phoneを使いこなしています。それに対して、祐一のほうは、国産車(日産GT-R)に乗り、携帯も数世代前のガラバゴス携帯を操作していのです。つまり、そんなところにも二人が所属する社会階層や情報感度がほのめかされているわけですね。
また、その祐一と出会い系サイトでメールをやりとりすることをきかっけにして、彼とのっぴきならない関係になっていく、ヒロイン・馬込光代(深津絵里)は、紳士服の量販店の売り子をしているのですが、典型的に、「土地に縛られている」女性として描かれています。
二人は、最初に寝たホテルのベットの上でこんな会話をします。
ここに来る途中、安売りの靴屋があったやろう
あそこを右に曲がって、真っ直ぐ田んぼの中を進んだところが、
あたしの高校やったとよ
そのちょっと手前に小学校と中学校
今の職場もあの国道沿い
なんか、考えてみたら、あたしって、あの国道から全然、離れんやったとよね
あの国道を行ったり、来たりしよっただけで...
俺も似たようなもん
でも、海ん近くに住んどっとやろ。海ん近くっとか、うらやましか
目の前に海があったらもう、その先、どこにも行かれんような気になるよ
先ほど、僕が光代について「土地に縛られている」と言ったのは、彼女は、無意識的に土地から出られないと思い込みながら(思い込まされながら)、一方で、いつも現状に不満を抱いているからです。彼女には同居する妹がいますが、二人の気持ちは決して通じ合っているわけではないのです。
そして、そういった意識は、強弱こそあれ、この映画に登場する多くの人々が共通して持つ、いや、もしかしたら、現代に生きる日本人の多くが持つ、呪縛と幻覚なのかもしれません。
彼らは(そして、僕らも)、その呪縛と幻覚ゆえに、いつの間にか、「今、ここではないどこか」を求めて生きざるを得ない存在から抜け出ることが出来ないのです。
この「悪人」という映画は、この「今、ここではないどこか」というどこにも無い幻想を求めた者達の悲劇を描いた映画ということすら言えるのではないかと僕は思うのです。
その最初の悲劇の犠牲者が、石橋佳乃(満島ひかり)でした。彼女は、高校を卒業して保険の外交員をしています。親は久留米で理容師をしているのですが、彼女は、博多の寮で一人暮らしをしています。また、同僚とは表面的には仲がいいのですが、お互い本音の付き合いは出来ていません。そして、一方的に、大学生の増尾に幻想を抱いています。
しかし、現実は残酷です。彼女は、偶然に通りかかった増尾の車に乗せてもらうのですが、機嫌の悪かった彼に疎んじられ、なじられ、挙句の果てには、誰もいない峠で、車から蹴り出されてしまうのです。
そして、身も心もボロボロになった最悪の佳乃は、その車を尾行していた祐一に声をかけられるのですが、逆上して彼を罵倒してしまいます。
彼女の精一杯のプライドが、祐一を傷つけるのです。
警察に言ってやる。
絶対に言ってやる。
レイプされたって、拉致られたって言ってやる。
勿論、彼は彼女に対して、そんなことをしたわけではありません。いや、むしろ、彼女を助けようとしていたのです。しかし、逆上した彼女の言葉は残酷でした。
祐一にとって、最も、言われたくない言葉を言ってしまうのです。
誰があんたのことなんか信じると?
誰も信じんよ!
実は、祐一は子供の頃に、母親に捨てられていたのです。
そして、子供の彼は、母親が戻ってくるということを必死に主張しました。しかし、誰にも相手にされなかった...
彼は、後のシーンで、光代に、こう、述懐します。
かぁちゃんは戻ってくる!
かぁちゃんは...
誰も信じやんかった。
俺の言うことなんか。
誰も信じやんかった。
そして、それ以来、祐一は、自分が、存在する意味がわからないまま、ただ孝行な孫を演じるようになっていたのです。
そして彼の心は、爆発します。
俺だって今まで生きとるかも、死んどるかも、ようわからんやった。
(光代に対して)俺にさわるな!
なんでこんな人間なんやろ、俺...
僕は、祐一の自動車への愛着は、彼の「今、ここ」からの脱出願望の表現だというように感じます。彼は、車でどこかへ行こうとするときだけ、自分を感じることができたのかもしれません。
しかし、彼も、先ほど述べたような意味で、呪縛された男です。結局、祐一は、母親が彼を見捨てた「灯台」へまでしか行けないのです。
言うまでも無く、「灯台」は、自由に海を行き来する船を見つめるだけの存在、自分自身では何処へも行けない存在、つまり、祐一自身なのです。
そして、祐一は、佳乃の首を絞めてしまいます。こうして、祐一は殺人者となってしまうのです。
その後、祐一は、光代という、初めて自分を分かってくれる存在に出会います。
しかし、時は既に遅かった...祐一は既に殺人者から、逃亡者となってしまっていたからです。
そして、光代は祐一に一緒に逃げようと言ってしまうのです。
ついに、二人は、彼らを抑圧してくる現実よりも、「一瞬の幻想」への道をつき進んでしまうのです。
日本の西のどん詰まりの「灯台」、そこでわずかな間、祐一と光代との二人だけの生活が始まるのです。
しかし、現実の残酷さによって、二人の逃避行はカタストロフ(破局)を迎えてしまいます。残念ながら、当然の結果とも言えるでしょう。
同様の境遇に陥った二人という意味で類似している「火垂の墓」における兄妹は、衰弱死という結末を迎えますが、「悪人」においては、祐一は逮捕され、光代は、元の生活に戻るのでした。
光代は、以前と同じように例の国道を自転車で通勤し、以前と同じように、お客に愛想を言いながら紳士服の売り子に戻ります。
僕の妻は、この最後のシーンを見て、「あれだけ大騒ぎを起こしたら、同じ職場で働き続けるというのは有り得ないんじゃない?」と言っていました。
しかし、僕は、逆に、それほど、彼女を抑圧する土地の呪縛は強い、ということを表現しているんじゃないかと思いました。
もしかしたら、彼女には、他の土地に出て、新しい人生を送るという選択肢すら、見えていなかったのかもしれません。僕には、人間関係を寸断され、「今、ここではないどこか」への幻想を持たされながらも、土地に縛られて生きざるを得ないその社会からの呪縛こそが、この映画のテーマである本当の悪人のように思えたのでした。
まさむね
※本当は祐一の祖母・房枝(樹木希林)や、佳乃の父・佳男(柄本明)についても語らなければいけないところなのですが、それはまたの機会とさせていただきます。
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