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カテゴリー「書評」の95件の記事

2012年7月19日 (木)

「ものづくり敗戦」という現実を僕らは正視しなければならない

木村英紀氏の「ものづくり敗戦―「匠の呪縛」が日本を衰退させる」(日経プレミアシリーズ)はいささか、衝撃的な本だった。

かつて、そして今でも、日本のお家芸だと思われていた「ものづくりの精神」が、誇るべきどころか、逆に今後、世界市場で戦っていくために必要なソフトウェア製作の足かせになっていくという話だからである。



確かに、何年も一つの鍛錬して得られるような特殊技術、あるいは、プロジェクトX的な人々の血のにじむような人々の刷り合わせの団結力。そういったものに、僕ら日本人は、どこかでプライドや美徳を感じてきた。

しかし、この本では、日本人が美徳とするそういった「匠の技」は、実は今後、世界で戦っていく科学技術の世界には不要なものだというのである。

逆に、これからの科学技術の主流となるであろうソフトウェア技術に必要なのは、一定の知識さえあれば誰しもが、理解できるし真似の出来るようなロジックであり、システム思考なのだ。そして、それは、「匠の技」の対極にある、普遍的なものなのである。



この本では、日本が、大東亜戦争に負けたのは、兵器の量ではなく、質において劣っていたからだと、繰り返し述べている。

これもちょっとしたショックだった。僕らは敗戦の原因は質ではなく量だと教わってきたが、実は、その教えは、気休めに過ぎなかったということがこの本に書かれていたからである。いや、それは、気休めと言うよりも、結果としては「ものづくりでは負けていない」という神話を温存するためのウソだったということですらあったのだ。



戦争当時、日本は大量生産、大量消費に最適化されたマニュアル化された生産システムを持っていなかった。ゼロ戦にしても、戦艦大和にしても、三八式歩兵銃にしても、それらの武器の優秀さは、質が高く、豊富な個々の技術者達の勤勉さと熟練した手先の器用さに依存していたというのである。それがゆえに、日本の武器生産の現場では合理的なシステムは排除され、それに変わって、「大和魂」なる精神論が跋扈したのである。



しかも、恐ろしいのは、それが決して、戦中(の失敗)だけの話ではないということである。合理的な生産システムは、実は現代の日本においても、重要視されておらず、いまだに、「匠の技」が第一といわれているような、いわゆる「ものづくり神話」の呪縛に囚われているのではないかという?のが筆者の見立てなのであった。

(また、筆者は、戦後の高度成長時代、日本人の「匠の技」が生かされるような労働集約的なものづくりが、鉄鋼、自動車、家電といった工業部門で多いに生かされたは、ある意味、ラッキーであったとする。)



確かにそうかもしれない。僕にも心当たりがある。今から20年前、僕はソフトウェア技術者であった。しかし、その世界では全く成功しなかった。

僕は論理的にプログラムを組むよりも、コードの美しさとか、オリジナリティにこだわるような、利己的で三流のプログラマだったからだ。

しかし、それは、僕だけではなかったような気がする。多くの同僚達も、コードの書き方は自己流であった。しかも、公開したがらなかったし、ましてや、後輩に教えたがらなかった。

そんなこと、ソフトウェアにとって、ほとんど意味のないことなのであるが、多くの同僚達は、どこかで、匠の技術の呪縛に囚われていたのかもしれない。



よく、日本人は集団主義だという言い方をすることがあるが、実は、日本人は個人主義的なところもある。そんな時、僕が思い浮かべるのは、鎌倉時代末期に、あの元が攻めてきたとき、元の集団戦法に一人づつ挑んでいった武士達の姿である。



ちなみに、僕は、その名残で、いまだにvim32を使って自己流の秘儀を楽しんでいるのだ(ご興味のある方は「UNIX思想の流れを汲むvim32のちょっとした使い方講座」を参照してください)。それはただの自己満足なのであるが、それでも止められないでいる。



「理論」「システム」「ソフトウェア」。

この三つは、今後、世界市場で日本の技術がかつての栄光を取り戻すために必要な三要素であると筆者は言う。

しかし、今まで、この三つに関して言えば、「理論」よりも、「経験・カン」が、「システム」よりも「要素技術」が、そして「ソフトウェア」よりも「ハードウェア」が重きを置かれてきたのが日本なのである。

「それはそれで、捨てがたい日本の良さである、なんとかそれを生かして、日本独自の技術で世界に打って出よう」というような言い方は、耳障りがいいが、逆に、そういった考えこそが、今後、日本が捨てなければならない思想なのかもしれない。



最後に、この本の中に書いてあった面白話が一つ紹介したいと思う。

戦国時代に、西洋から鉄砲と同時に、時計が輸入された。当時、日本人は競って鉄砲の模造品を創り、またたく間に、世界一の鉄砲生産国となった。しかし、一方で、時計の方は、西洋では、その技術を応用して自動機械が作られ、後のコンピュータへと繋がっていった。しかし、日本では、時計の技術は、カラクリ人形を経て、文楽の世界へ応用されていったというのである。



これをほのぼのとした日本のオリジナリティを称えるエピソードとして捉えるべきなのか、日本における技術のガラパゴス化(あるいは退化)の一例と捉えるべきなのか。



答えは既に出てはいるのだが、僕はまだ、前者に軍配を上げたくなる呪縛のようなものから、いまだ、自由ではない。



まさむね

2012年7月14日 (土)

「韓流、テレビ、ステマした」が前作よりもさらにパワーアップしていた件

一本気新聞にエントリーを上げるのはなんと、2ヶ月ぶりとなってしまった。

この間、五十肩になって、突然、右手が上がらなくなってしまったのには参った。今でも、痛いことは痛いが、もう慣れた。でも、文章を書くのはまだ辛い。人からの話によると、「ある日、突然に直る」ということなので、しばらくは、この痛みと付き合っていこうと思う。



さて、今日、僕が敢えてエントリーを上げようと思ったのは、「韓流、テレビ、ステマした」という本を読んだからだ。



この本は、チャンネル桜内の「さくらじ」というトーク番組のホストとしても活躍中の古谷経衡氏の第2作目の単行本である。

前作の「フジテレビデモに行ってみた!」もそうであったが、この第2作目でも彼の文体が冴え渡っている。おそらく、現代の若手の評論家で、彼のようにユニークな文体を持っている人はほとんどいないだろう。敢えてライバルを探すとすれば「中国化する日本」の著者である與那覇潤氏くらいであろうか。

それほど、僕は古谷氏を買っているのである。その理由は、前作のレビュー(「僕が期待するのは古谷ツネヒラ氏の文体である ~『フジテレビデモに行ってみた!』を読んで~」)に書かせていただいたのでここでは繰り返さないが、「韓流、テレビ、ステマした」では、その、生得的ともいえる秀逸な文体に加え、さらに綿密な調査、論考が加わり、よりパワーアップしていることだけは疑いのないことのように思えた。



さて、僕は以前から、古谷氏の「エリートサヨクほど、差別主義者である」という論法に対して小さくうなずく者である。が、しかし、一方で、彼の言葉が実際のサヨクに対して届いていないことに対して危惧する者でもある。

彼も自覚しているように、なんだかんだと言っても、現在のマスメディアはそういったエリートサヨク的言論によって支配されている。例えば、端的に言えば、その空間では竹島は憂う対象ではあったとしても、取り戻す対象とはなっていないということだ。



僕はそんな空間に、古谷氏に突入してもらうこと、例えば、毎月末に夜を徹して流されるTBS文科系トークラジオ「LIFE」のような番組に飛び入りで参加してもらうことなどを夢想している。

おそらく、古谷氏の言論はそういった、"別のリング"で修行することによって、こそ、より揉まれ成長していくように思うのである。



彼の潜在的ターゲットユーザーは、チャンネル桜界隈に限らず、まだまだ、広い世界にいるはずだ。



そんな彼の存在を知ってほしくて、思わず、PCに向った次第です。でも、まだちょっと肩が痛い。



まさむね

2012年2月 1日 (水)

僕が期待するのは古谷ツネヒラ氏の文体である ~「フジテレビデモに行ってみた!」を読んで~

古谷ツネヒラ(古谷経衡)氏の「フジテレビデモに行ってみた! 大手マスコミが一切報道できなかったネトデモの全記録」を読んだ。



古谷氏に関しては、この一本気新聞でも何度か名前を出させていただいたことがあるが、僕は氏のブログ(「アニオタ保守本流」)を読み、アニメトークラジオ(「ニコニコアニメ夜話」を聞いて、アニメに目覚め、アニメを観始めた。その意味で言えば、僕にとって、古谷ツネヒラ氏は、お会いしたことはないが、ある意味、導師のような存在なのである。



僕が、彼のブログや今回発売された著書を読んで、まず直感するのは、その文体のユニークさである。



僕は学生の頃から、数多くの文体のユニークな著者達に惹かれつづけてきた。例えば、70年代には小林秀雄、夏目漱石、鈴木大拙などの作品に感心し、80年代には、柄谷行人、蓮實重彦、三浦雅士といった文芸評論家に憧れ、その後、井上義啓やターザン山本などプロレス記者の文章を読み漁り、同時に、スタパ斉藤や竹熊健太郎といった「ファミ通」近辺の濃い文体に驚愕し続けてきた。



独自の文体を持つ作家は、より遠くまで行ける




これは、三浦雅士の言葉であるが、僕は、古谷氏にも、そういった文体を持つ作家としての可能性を感じるのである。

例えば、「フジテレビデモに行ってみた!」の冒頭は、いきなり「一匹の恐竜が日本を歩き回っている。テレビ局という名の恐竜が」という小見出しから始まる。言うまでもなく、これは、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」の冒頭の一句を援用したものであるが、古谷氏の活動を追ってきた者が読むならば、それはマルクス・エンゲルスが記した文章であると同時に、耳の奥から「ビューティフルドリーマー」のメガネ氏(あるいはサクラ先生)の声がかぶってきたりもするわけで、おそらく、古谷氏の文体の独自性とは、その独特な硬派な言い回しの中に、そういったサブカル的文脈の多様性を知らず知らずのうちに、読者に想起させる、その豊潤さにあるのではないかと考えたりするのである。



敢えて言えば、古谷氏の発想の面白さは、大学の史学科を卒業したという公式の経歴でもうかがえるような本格的な歴史知識に加えて、庵野秀明、押井守、今敏や大友克洋などのアニメに対する深い愛情は勿論のこと、ゲーム(「信長の野望」など)、アーケードゲーム(「ガンダム」など)、軍艦プラモデル(「田宮模型」など)、軍記物(「大逆転シリーズ」など)、漫画(「闇金ウシジマくん」など)といったサブカル系話題、あまつさえ、猫(チャン太)に対する愛情や果ては不動産に対する異常な関心といった混沌とした興味対象から湧き出てくる雑多な「言葉達」を独自の「言い切り」によって再編成する、その強引さにある。



もっとも、学問的な体系ロジックを「良」とするような立場からすると、いささか、不躾と言われかねないところも無いわけではないが、僕は、彼が発する言葉や文章におけるそうした不躾な文体に、なんともエネルギッシュな魅力を感じるのである。

フランスの詩人・ボードレールは「人を唖然とさせるような精神」のことをダンディズムと呼んだが、古谷氏の場合、まさにその強引さゆえに、「現在、日本で最もダンディな男の一人」であるといえるのではないだろうか。



さて、この本の中身に関してであるが、正直言って、僕は古谷氏の主張に対して全面的に同意する者ではない。例えば、韓流コンテンツに関して言えば、僕は、特に韓国製だからといって、それを流すテレビ局に対して、抗議すべきだとは思っていない。

勿論、僕の耳にも、フジテレビの最大株主の一つがSBIインベストメントがあり、そこに韓国系ファンドが大量の資金を流しており、その影響かどうかは不明だが、局内で反韓流プロデューサが配置転換されたという程度の(噂)情報は入ってきてはいるが、それも所詮、他人事であり、韓流も、「芦田愛」「お台場合衆国」あるいは「踊る大捜査線」のような売れるコンテンツメニューの一つだと考えるからである。



それよりも、コンテンツが韓国製であるかどうか以上に、いわゆる公共の電波を私物化し、80年代に「楽しくなければテレビじゃない」などと言って無理やりに彼らがはじめ、しかし既に終わっているバカ騒ぎを、彼らが依存し続ける「システム」の利益のためのみに偽装し続けるその醜悪さに対して憤慨するものである。

おそらく、一つのコンテンツが受けるとわかると、まるで蟻が甘い物に群がるかのごとく、朝から晩まで、露骨な番組内宣伝をし続けても何の恥じらいも無い、あの傲慢さに我慢しきれず、どれだけ多くの良心的な視聴者がテレビから離れていったことであろうか。

しかも、尖閣事件や311震災などを経て、次第に明らかになった彼らの恣意的な(とでも思いたくもなる)報道姿勢や、そもそも根本的にクロスオーナーシップ問題や電波オークション先送り問題などといったマスメディア自体がもつ不条理な課題を前にして無力な僕らには、古谷氏たちがフジテレビ前で「テレビを返せ」と叫んだ、その気持ちは痛いほどわかるのである。



そしてその叫びは、僕の個人的な怨嗟感情をも呼び起こしてしまう。

この場を借りて、そんなフジテレビの傲慢さの例として、自分自身の体験に触れておきたい。



ほんの数年前、僕はある食品を昼の老舗番組に提供したことがあった。その際に、番組のADが会社にやってきて、「商品の代金は、番組のデスクに請求してください」という。

後日、僕は教えられた電話番号にかけ、そのデスク氏(女性)に、以下のように尋ねた。

「◎月×日の昼の△時に放送されたコーナーで提供させていただいた食品のご請求をさせていただいてもいいでしょうか。金額は5万円になります。」

勿論、これは、実費である。すると、デスク氏は無愛想にこう言った。

「聞いていませんが!!」

ちょっと、待って欲しい、それはないだろうと思ったので、僕は続けた。

「番組のADの△×さんから、こちらに請求するように言われたのですが...」

すると、しばらく黙っていたデスク氏はこう言ったのである。

「2万円にならない?おたくだって、テレビに出してあげたんだから、宣伝になったでしょ。」

僕は耳を疑った。いくら、こちらが無名な一業者だからといって、それは、あまりにも失礼な応対ではないか。



これは、古谷氏も「フジテレビデモに行ってみた!」の中で、語っている「テレビ屋による一般人に対する見下し」のほんの一例であるが、おそら、く現在でもこういった「見下し」は続いているのではないだろうか、多分。



さて、話は変るが、今後、古谷氏が、その有り余るエネルギーをどちらの方向に向けていくのかは、大変、興味深いものがある。それは、この著作を手にした読者の多くも感じることだと思う。

個人的には、第三期「さくらじ」で、年長者の話をうかがうホストというポジションから、再び、闊達で強引な言論活動(特にアニメに対して)に戻っていただきたい、などと勝手なことを思っているが、それは古谷氏と、その文体のみが知るところなのであろう。僕らはそれをただ見守ることが出来るだけである。



まさむね

2011年11月19日 (土)

「家紋歳時記」がささやきかけてくる日本文化の本質

高澤等先生が書かれた「家紋歳時記」を拝読いたしました。



この本は2009年に、一年間を通して、全国の地方紙で、先生が連載された『家紋歳時記』を改訂・加筆されたものですが、様々な家紋と絡めたかたちで、日本の四季折々の習慣・文化・風俗が綴られており、その内容は驚異の一言です。



一つ一つの家紋と、そして、その背景にある日本文化への愛情が一ページ毎に、いや、一言毎に込められた珠玉の一冊と言っても過言ではないと思います。

おそらく、その愛情は、極めて正確に、過去から現在にかけて、この国土において生活を営んできた名も無き日本人達の自然や、家族、先祖、そして輩(ともがら)への愛情の深さとリンクしているのだと思わざるを得ません。



本の「はじめに」には、次のように書かれています。

多くの災害にみまわれ、経済的な行き詰まりに自信をなくした時に、日本人自らを支えるものは知らずに身にまとっていた文化であると、誰もが気づくはずれある。


勿論、これは今年の311の大震災を踏まえた言葉です。

今回の大災害を目にして、私達、日本人は、自分達の短所を、嫌と言うほど知らされました。

しかし、その一方で、私達は、まさに「日本人自らを支えるものは知らずに身にまとっていた文化」であったということも改めて確認したのではないでしょうか。



抽象的な言い方になってしまいますが、日本人のいざという時の強さは、目に見えるような経済力や技術力もさることながら、その基層に厳然と存在した無意識の文化力であったということです。

そして、その文化力というものは、大声のシュプレヒコールや単純なイデオロギーなどでは掬いきれない、まさに、人々が育んできた、あるいは時には忘れ去ってきたようなものも含めた、多様な営みの総体だということを、この264個の歳時記は、静かに、教えてくれます。

さらには、日本文化の本質とは、愛国的言説が、勢い陥りがちな、日本文化の単一性や独自性といったものよりも、寛容さ、曖昧さ、謙虚さにあるという教えも、この本の中から、ささやくように、にじみ出てくるように思われます。



例えば、【宝船】の項では、「七福神はそれぞれ、仏教、ヒンドゥー教、道教、日本土着の神々であり、宝船という一つの船に集うように乗る姿は、多くの神を受容する日本の風土だからこそ生まれ得た平和のシンボルでもある。」と書かれています。

日本人は、この【宝船】に象徴されうるような、なにかを、今こそ、振り返ってみるべきではないでしょうか。



さらに、日本文化の素晴らしいところは、先ほど述べた多様な営みというものが、決して、バラバラに存在しているわけではなく、日本人であれば、必然的に持つある種の共感(美意識)によって、暗黙のうちに理解・共有されてきたということではないでしょうか。そして私達は、この本から、皇室から庶民まで、あらゆる階層が満遍なく所有しているこの美意識の結晶が、家紋文化というものだ、という主張を読み取ることが出来るのです。



おそらく、この本は一気に通して読むだけではなく、一年をかけて、じっくりと、その季節ごとに、一ページづつ、読むべき本に違いありません。



それゆえ、この一本気新聞においても、「家紋歳時記」の具体的な内容に関して、折々に触れて語っていきたいと思います。



まさむね

2011年11月10日 (木)

日本人とは何かを考えるとき、たまに思い出したい「忘れられた日本人」

昨日、一昨日と映画「悪人」について熱く語ってしまいましたが、今日はまた『忘れられた日本人』についてお話を戻したいと思います。



この作品は本当に、話が具体的で面白いですね。一方で柳田國男は文献から、真実を読み取る天才ならば、この宮本常一は、フィールドワークの天才かもしれません。話の引き出し方が本当に巧みです。

ただ、この宮本さんは、柳田さんからは疎んじられたという話が伝わってきます。これは想像ですが、どこか、柳田さんは宮本さんのフットワークの軽さに嫉妬していたかもしれません。

また、「性」に対する臆面の無いスタンスが柳田さんから嫌悪されたという話も聞きます。確かに、民俗学で「性」を扱えるかどうかって、本当に、「肌(学風)」に依存するところが大きいのかもしれません。「性風俗」は一方でエリート官僚だった柳田さんの肌にはやっぱり合わないような気もします。



さて、『忘れられた日本人』の中にも、そんな「性」を扱った箇所がところどころに出てきます。

特に、農村の女性達が、田植えなどの農作業をするときに、エロ話ばかりをしていたという話は面白い。

例えば、ある、年増の女性二人がこんな話をします。



「この頃は田の神様も面白うなかろうのう」

「なしてや・・・」

「みんなモンペをはいて田植するようになったで」

「へえ?」

「田植ちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行きはせんので、田の神様を喜ばして、田植えを手伝うてもろうたもんじゃちうに」

「そうじゃろうか?」

「そうというの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが田の神さまがニンマリニンマリして・・・」

「手がつくまいにのう(仕事にならないだろう)」



僕には、一般的な知識として、日本には、冬は山にいた「山の神」が春になると里へ降りてきて、「田の神」となり、稲作を手伝ってくれるという信仰がある、という程度のことは知っていたのですが、具体的に、田植えをしていた女性達が「田の神」に対してどのように接していたのかは想像の外でした。

でも、こんな話を読むと、かなり具体的に、イメージ出来たような気がします。

昔の人々達は、本当に親しみを込めて神様と接していたということなんでしょう。

それは神様というよりは、本当に普通のアンちゃんを相手にしているような、肩の力を抜いた接し方ですからね。



さて、この本には、そんな女性達も嫁に行く前には、世間のことを知らないといけないということで、数人で旅に出たという話も出てきます。

「はぁ、昔にゃ世間をしらん娘は嫁にもらいてがのうての、あれは竈の前行儀しか知らんちうて、世間をしておらんとどうしても考えが狭まうなりますけのう、わしゃ十九の年に四国をまわったことがありました...」



というわけです。今でも大学卒業時などに、卒業旅行と称して、女性達がグループで旅行することは普通ですが、もしかしたら、そのルーツはこんな時代にもあったのかもしれません。

当然、昭和初期以前ですから、彼女達は歩いて旅行をして、いろんな土地を見て回るのですが、特に四国地方では、お遍路さん饗応の伝統があるので、そんな女性たちにも、道々の人々は食べ物や宿を提供したみたいですね。

本当に、昔の日本人達は、貰うほうも、あげる方もおおらかだったのでしょう。

そして、若い女性たちは、そんな見知らぬ人とのやりとり(交渉)の中で、世間を知っていったということなのではないでしょうかね。



最後に、もう一つ、面白い話。

実は、彼女達が旅をしていると、人々からもらったものは食べ物だけではなかったという話が出てきます。



「食うものばかりではなかったんですのう。」

「はあい、いろんなものをくれました。伊予の山の中では娘をもろうてくれんかと言われて・・・何をさせて使うてくれてもかまわん。

食わして大きうしてくれさえしたらええと言うておりました。よっぽど暮らしに困っておりましっしゃろう。

遍路の中にも子供の手をひいてあるいているのがたくさんおりました。たいがいはもらい子じゃったようであります。

(中略)

中には買うて来た子もいたが、たいがいは親がよう育てんからもろうてくれといわれてもらうて来たものであります。」



これはある角度から見ると、残酷物語ですが、別角度から見ると、人々のおおらかさのある側面を表したものといえるかもしれません。



日本人は、ほんの二~三世代前には、こんな風にして生きていたんだなぁと、しみじみ思います。



政治家などが、よく、日本人らしさとは何か、とか、日本人とは本来こうこうあるべきだ、みたいな話をよくしますが、そんな時、ちょっと『忘れられた日本人』を思い出しながら聞いてみるのもいいかと思いました。



まさむね

2011年11月 4日 (金)

「忘れられた日本人」は必読書ですね

先月、読んだ本の中で一番面白かったのが『忘れられた日本人』という文庫でした。



この本は宮本常一という民俗学者が書いた本で、主に西日本を中心とした庶民へのインタビューをまとめたものです。

僕は多分、学生時代に一度、読んだ記憶があるんですが、今回読み直してみて、その内容の素晴らしさに驚嘆してしまいました。

もしかしたら、それは僕自身が成長して、いろんな人生経験を積んだからこそ味わえたのではないかとも思いましたが、是非、若い人にも読んで欲しい一冊です。



さて、この本が面白いのは、ここでインタビューされている人々が、いわゆる定住の農民だけではなく、漂白民、海や山の民も含まれていることですね。

この本には、そういった人々が幕末から明治、昭和初期にかけてどのような人生を歩んできたのかが活写されています。



例えば、対馬つつ村の浅藻という集落の梶田富五郎という80歳過ぎの爺さんの話。

彼は生まれは山口県の周防大島の久賀という場所なんですが、子供の頃に両親を亡くし、魚船に乗せてもらうメシモライになったといういうんですね。

久賀の大釣にはメシモライというて-まぁ五つ六つ位のみなし子を船ののせるなわしがあって、わしもそのメシモライになって大釣へのせられたのじゃ


このメシモライというのは、多分、ある種の人身御供でしょうね。

その昔、海がシケてきたら、こういう子供達を海に投げ込んで、神様へ捧げ、怒りを鎮めてもらうとしたのかもしれません。そういった民俗学的な悲しい歴史の痕跡なんじゃないかと僕は思います。

どこか、中世ヨーロッパのサバトとかで赤ん坊を悪魔に捧げる儀式とか、アステカの稚児の生贄を思い出させたりもしますね。



そういえば、先日、港区三田の元神明宮という神社に行ったのですが、ここの相殿には水天宮がありました。そして、この水天宮に祀られている神様についてちょっと考えさせられましたね。

実は、そこの祭神には、あの壇ノ浦における源平最終合戦時に、海に身投げて亡くなったという安徳天皇(当時4歳)も祀られていたんですね。僕は知りませんでした。

おそらく、その痛ましさの記憶が、安徳天皇をして、後世に海運、漁業の神様にしたのだろうな、ということが想像できます。また、こんなところにも、一般庶民の宗教観念と皇室との間にある微妙で連綿とした繋がりが垣間見られます。



さて、話を戻します。

この梶田富五郎さんは、その後、漁師さんたちと一緒に、周防大島から、この対馬に移り住むようになるのですが、その時の話がまた面白い。

漁師たちは、周防から、対馬まで船でやってくるのは結構大変だということで、どこか対馬に住まわせてくれないかという話になるのです。

「それじゃあ、浅藻の裏へ住むことをゆるしてもらえまいか」

と頼うでみました。

「たいがいのことはきてあげらるが、あそこはシゲ地じゃからたたりがあるといけん」

というから、

「たたりがあってもええ、それに生き神さまの天子様が日本をおさめる時代になったんじゃから、天道法師もわしらにわるさはすまい」

ということになって、浅藻へ納屋をたてることをゆるしてもろうて久賀へ戻ってきやした。


つまり、明治維新になって天皇中心の国家となったという事実が、日本の最果ての対馬では、こういう風に影響していたということですね。



日本列島に様々な形態で暮らしを営んできた日本人達、彼らの日常生活は時代時代の流れの中で、あるときは、翻弄されながらも、ある時はちゃっかり活用しながら、しぶとく続いてきたんだなぁということを感じます。



明日から、しばらくこの『忘れられた日本人』の中のネタをアップしていきたいとおもいます。



まさむね

2011年11月 3日 (木)

「まなざしの地獄」を読んで考えたこと

僕は昨日のエントリーで、幕末の開国以来、日本の歴史は共同体の解体の歴史であるというようなことを書きました。



その過程は、おそらく一つづつ「日本人らしさ」あるいは古来からの「日本人の幸せ」が剥奪される歴史であったことを僕は今、改めて思います。

繰り返しますが、それは、一方では「自由」や「便利」という新しい幸せの獲得であったという側面があることも付け加えないと不公平になりますが。



僕は先月一ヶ月の間に何冊かの本を読みました。その中に、Twitter上で、僕にいつも様々なアドバイスをくれるすがりさんが勧めてくれた「まなざしの地獄」(見田宗介著)がありました。

この本は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件を起こした永山則夫という男の行動を社会学的に解釈した本です。

数年前にあの加藤智大による秋葉原通り魔事件が起きた時に、この加藤と永山との類似性が、一部で指摘され、それを機会に再編集・発売された本ですね。



ちなみに、僕自身も当時、「寺山と永山と加藤智大」というメモのようなエントリーを書いていました。



で、見田さんは、この永山則夫についてこんなことを書いています。(41ページ)

そしてN.Nが、たえずみずからを超出してゆく自由な主体性として、<尽きなく存在し>ようとするかぎり、この他者たちのまなざしこそ地獄であった


また、別のところ(19ページ)でこんな風にも書いています。

都市が要求し、歓迎するのは、ほんとうは青少年ではなく、「新鮮な労働力」にすぎない。しかして「尽きなく存在し」ようとする自由な人間たちではない。


ようするに、当時、集団就職などで大量に都市に流入してきた若者達、彼らは「自由」を求め、「夢」を抱いて都市にやってくるのですが、一方で都市の方は、彼らはそういった存在としてみ見たいわけではなく、たんなる労働力として使いたいだけだったということです。

そして、その二つの視線の齟齬が究極にずれたときに発生したのが、あの射殺事件だったのではないかというのが見田さんの見立てなわけですね。



これは、この事件の背景に経済格差とか、地域格差といった問題があるけど、本質的には、それは意識の問題だという話だと僕は解釈しました。



おそらく、近代以前の村社会では、人々は他者がから見られる自分像と、自分が自分自身を見る自分像とのズレってそれほど大きくは無かったんだと思うんですよね。

いい悪いは別にして、大抵の場合は、武士の子は武士になるんだし、庄屋の子は庄屋になるんだし、小作人の子は小作人になります。

だから、無駄に「自由」や「夢」といった観念を抱き、そこからくる挫折を味わわなくてもすむような社会だったんですね。



勿論、最上徳内のような例外的な人もいて、彼は山形の貧農の家で生まれるんだけど、学力でのし上がり、最終的には武士になり、しかも蝦夷探検で歴史にまで名前を残します。

ちなみに、僕の先祖は、この最上徳内が子供の頃に通っていた寺子屋で、彼の隣の席にいた平凡な百姓だったんですww。



さて、話がズレましたが、ようするに、僕らが明治維新以降に得たのは、一面で「自由」や「夢」なんだけど、その反面で得たのが「挫折」であり、失ったのが「故郷」だったというお話がしたかったんですね。



そして、問題なのは、永山や加藤が競争に負けて失敗してしまったという結果じゃなくて、負けた時に帰っていく場所(故郷)がもう無なかったという現実だと僕は思います。

その意味で、1968年に永山事件によって顔をだした問題は、今尚、連綿と解決できないまま残っているということですよ、いや、逆に言えばさらに進化しているのかもしれないですね。



じゃあ、ここでいう「故郷」というものは、例えば、政治の力とかで復活できるのでしょうか。う~ん。

あるいは、それは具体的な地域や人々じゃなくて「日本」という観念で代用できるものなのでしょうか。それもどうかな?

さらに言えば、例えば、ネットにおける人と人とのランダムな結びつきは、少なくとも僕らにとって癒しになることは出来るのでしょうか。まさかね!



最近、そんなことも少し考えています。



まさむね

2011年7月20日 (水)

「新・信長公記」を読んで。歴史上の人物を考えるというのはなんと楽しいことか

高澤等先生の「新・信長公記」をようやく読了した。

時間がかかってしまったのは、他でもない。僕が信長に関して、ほとんど具体的な予備知識がなかったからだ。

勿論、僕の頭の中には通り一遍の信長像は頭に入っていたのだが、それがいかに、「常識(=偏見)」に満ちたものだったのかを、改めて本書は教えてくれた。その「常識」を一つ一つ壊していく作業に時間がかかってしまったのである。



例えば、いわゆる乾坤一擲の大勝負と言われている桶狭間の合戦。

実は、信長はその情報戦を含めてかなり、周到な作戦を立てているのである。

つまり、少数精鋭を引き連れての突然の出陣こそ、敵に集兵を悟られないために、しかも、密度の高い攻撃力をピンポイントで活用するための合理的な判断だったという言うわけである。

また、武田の騎馬隊を撃破した長篠の合戦においては、その決戦日までに味方の武器・弾薬をじっくりと準備するだけではなく、敵方の弾薬を消耗させ、経済的に追い詰めるなどの前哨戦を進めつつ、いわゆる武家の正統のプライドという武田軍の最大の利点を逆手に取り、敢えて決戦日の申し入れを行ない、相手が引くに引けない状況を作ってしまう信長一流の巧妙な誘導作戦があったのではないかという説を出されている。



つまり、本書を読むと、信長、いかに、今川義元、あるいは武田勝頼と戦ったのかという以上に、いかに相手を戦わざるをえない状況に陥れたのかという、いわゆる総合戦略に長けていたのかがわかるのである。それは、冷徹、残忍、短気といった「常識」的な信長像からは、決して導き出されない姿のように思えた。



さて、高澤先生は、「結び」において、このように述べている。

本書を書き終えて自分でも気がつかなかったが、私は信長のことをついに一度も天才と表現することがなかった。つまり信長の一生で繰り返された日常は、私のような凡人でも理解することが可能なものばかりであったということだろうと思う。・・・(中略)・・・つまり信長という人間はひらめき型の天才ではなく、理詰めに物事を考えてゆく秀才型の人間であったのである。おそらく信長を天才と表現する者は信長を真に理解するに至らぬ者が降参の意味で用いる言葉に違いない。




ただ、それでも僕は、信長を天才という言葉で語ってみたい誘惑に駆られてしまう。



勿論、個々の局面において、後世、彼の行動を微分していけば、それは合理的な行動の積み重ねなのだと思うし、その一つづつは本書でも十分に証明されている通りかと思われるが、あの混沌とした時代に、唯一、彼だけが天下統一ということを考えていたこと、つまり自分自身の戦いを私闘ではなく公闘とする哲学を持っていたということ、しかも、そのあまりにも大きな目的を信じ続けることが出来たということ、そして、そのために冷静なリアリストであったということ、さらに言えば、そうしたことを結果としてほぼ成し遂げる宿命を持っていたということ、つまり、哲学、情熱、実行力、そして運という4点を備えていたという意味で、僕は、ロマンチックな心情を込めて信長のことを天才と呼びたいのである。

そして、以上の4点を軸として、他の戦国武将達と比較した場合、おそらく信長だけは別次元の存在のように思えるのだ。



いずれにしても、歴史上の人物を、現代から振り返り、考えたり、想像したり、悪口を言ったりするというのはなんと楽しいことか。

僕にとって、そういうことをしている時間は至福の時と言ってもいいようにすら思う。



そして、本書はその楽しさを十分に味合わせてくれる内容を持っている。

僕がこの本を読むのに時間がかかってしまった理由に関してであるが、実は、冒頭の話は言い訳に過ぎない。



本当は、早く読み終わってしまう(=至福の時間が終わってしまう)のがあまりに残念だったからである。



まさむね

2011年6月15日 (水)

「キュレーションの時代」を読む

著者の佐々木俊尚氏は過去に「電子書籍の衝撃」(ディスカヴァー携書)や「グーグル」(文春新書)などでも時代の先端を読み解く作業をされてきたが、本書「キュレーションの時代」(ちくま新書)ではそうした一連の流れをうけてこれからの未来社会へ向けたより突っ込んだご自身の考えを披瀝しているようにも思う。一個一個の時代の先端の読み解きも面白いが、ここでは筋立てて細かには紹介しない。ぜひご一読いただければ。



ぼくが一番興味深かったのは、これからは「もの」から「こと」へ着実に転換がなされてゆくということを述べられていた箇所。なぜアップルのiPhoneが受け入れられたか、それは「こと」をムーブメントとして提示できたからという論拠がかつて「電子書籍の衝撃」のときにもなされていたように記憶しているが、本著でもその主旨は変わらない。まったく同感。「もの」にこだわりつづけて、iPhoneを生み出せなかった日本メーカーには辛い話だ。



同様に利休の茶が優れているのは徹底的に「こと」=行いをめぐる場の共有にあったからというような論旨。これもまったく同感だ。茶とは主客が協働で作り出すものであって、どちらかが主役、一方的な提供者ということはありえないと思う。

いずれにせよ、モノさえよければいいと思って、いつまでもモノづくりの視点だけにこだわっている日本企業の先は衰退が待っているしかない。今回の震災以後の風潮は明らかに戦後の高度成長から低成長をへて今にいたる日本の単一的なモノづくり謳歌の時代が終わりを迎えつつあることを示唆している。



もう「モノ」から「コト」への動きは確実に生まれてきていると思う。若い人たちのボランティア活動然り。やはり単なる「モノ」と「カネ」を越えて「コト起こし」へ向かわなければ大きな変革には結びつかないだろう。

それから最近のSNSであれ、ツイッターであれ、フェイスブックであれ、それが優れているのは、なにかの占有ではなく、視座の提供にあるというような視点も大変興味深いとおもう。車座といってもいい。ぼくも最近ツイッターを遅ればせながら始めているが、やはり面白い。



情報の水平展開とヒエラルキーの崩壊のなかで、たしかに正しいかどうかなどの情報自体の信憑性の危うさはあるにしても、起点において誰でもが同じ地平でかつ横展開で情報を発信・受信できるという公平性がいい。なによりもそこからの座の広がりの可能性。

その意味でもはやプロもアマもない、というよりも特権的な立ち位置での情報のプロフェッショナリティーは死んだのだと思う。もともとそれは虚飾の像にすぎなかったともいえるが(いわゆる朝日新聞、岩波文化に代表される知的エスタブリッシュメント)。



フランスの思想家フーコーではないが、人は外(部)の力とかかわってゆくことで変化してゆく生き物であり、その意味でも上記のようなムーブメントをむしろ積極的に見てゆきたいというのが今のぼくの考え方、スタンスでもある。

最後に本書のタイトルであるキュレーションとは何か。それは「ひととひとのつながり」を作る、そのリレーションシップの共有以外のなにものでもないと思う。

興味のある方にはぜひ一読をお奨めしたい一書である。



よしむね


2011年6月12日 (日)

「なるまん」が提起する問題を自らの問題として受け止めることの出来る感性こそ、僕らに求められているのだ

山野車輪氏の「なるまん」は、マンガ家志望の少女達が、現代という過酷な時代において、マンガ家を志す物語である。

しかし、その道のりは平坦ではない。そこにはマンガ界が陥っている構造的な問題点がいくつも立ちはだかっているのである。

一時は隆盛を誇ったマンガ雑誌の長期的凋落、それに連動するかのように単行本部数の伸び悩みと、それに反比例するかのような出版点数の増加。

しかも、マンガ雑誌にはベテランマンガ家の長期連載が居座り、ほんの一握りの作品だけが、クロスメディア化によって巨万の富を築いている一方で、その他多くのマンガ家たち、そしてその卵達は、細々と宝くじ的な夢を食べながら生きざるを得ない現状。おそらく、こんな状態が続けば、日本が誇るマンガ文化は先細りにならざるを得ない...



外から漠然と見ているだけではわからない、マンガ業界の悲惨な状況を客観的なデータと、詳細な分析で語っていくこの「なるまん」こそ、現在、マンガ家になろうという漠然とした夢を抱いている多くの若者が手にすべき一冊である。



しかし、そんな悲観的な話ばかりをしていても仕方が無い。現状を踏まえた上で、マンガ家たちは今後、何をどうしていくべきなのか。

この「なるまん」で最も刮目すべきなのは、最終章の「あしたに向ってこれからのマンガ家のあり方を考える」である。



この章には、これからの時代の可能性として、フリーミアム(無料でサービスを提供することで多くのユーザーを獲得しそのなかから有料サービスにも金を出すユーザーを獲得する戦略)や、他のジャンルのクリエーターとのタイアップ、マンガを核としたクロスメディア戦略、政策委員会方式、そしてそれらに必要なノウハウを持つ編集プロデュースエージェントが手際よく紹介されている。

それらを総合して言ならば、それは、既成のマンガ家が頼りきっている出版社におんぶにだっこであった古いビジネスモデルとの決別のススメなのである。

マンガ家は、ただマンガを描いていればいい時代は終焉をむかえたのだ。これからは出版社に頼らず、自分の道は自分で切り開く自己プロデュースを含めた、つまり、作品だけでなく、生き方そのものが商品(ウリ)となるようなマンガ家とならなければならない時代になったということでもある。



山野氏自身の通常の雑誌漫画家出世ルートの外道で世に出たという実績、そして自負があるがゆえに、この作品には一定の説得力があるように思える。当然、山野氏は山野氏だけの正解にたどり着いたのであり、おそらく、それは他の人には通用しない正解なのであろう。



これからの時代、マンガ家になるための方程式の正解は、残念ながら一つではない。

子供の頃からマンガを書き続け、技術を磨き、出版社の賞に応募したり、作品持ち込みをしたりしてメジャー誌でデビュー、そこで人気を得て、単行本というような「マンガ道」は既に無くなってしまっているのかもしれない。

しかし、方程式は複次方程式になっただけであり、正解はどこかに必ずあるはずだ。

ただし、その正解は、それぞれのマンガ家が、見つけ出さなければならない。だからこそ、これからは厳しくもエキサイティングな時代なのである。



「なるまん」では最後のページに手塚治虫氏が出てくる。マンガ家志望の女の子は言う。

「もし、手塚治虫先生が生きていたら、これまでのマンガのかたちに執着せず新しいなにかをやろうとしたと思う。」

その通りだ。手塚氏が偉大だったのは、その残した作品だけが偉大だったわけではない。おそらく、常に、マンガを表現する場所、そしてマンガの可能性を広げようと努力してきたその姿勢こそ偉大だったのである。これからのマンガ家は、手塚精神をこそ、見習うべきだと、この「なるまん」は言っているように僕は思えた。



しかし、この「なるまん」が本当に面白いのは、実は、この作品は、マンガ界だけの話をしているわけではないからである。

マンガはあくまでも一つの例なのだ。

そうだ!!この本は、現在、閉塞状況に陥っている日本人、全員に対するメッセージとして読むべきなのである。

それこそが、「なるまん」の隠し味(肝)なのだ。



例えば、マンガ業界では雑誌のピークは1995年であり、それから徐々に衰退の道を歩む中で、今までのビジネスモデルがついにもたなくなったのが現在であるという認識は、その他の多くの業界や日本経済にとって、そして、おそらく日本人一人一人にとっても、ほぼ言える事なのではないだろうか。



中国や韓国などの新興国との争いの中で、縮小せざるを得ない業界もあるだろう。円高の影響でコスト削減を強いられている業界もあるだろう。あるいは、インターネットの普及によって、ダメージを受けた業界もあるだろう。業界によって、様々な要因はあるにしても、従来の会社システム(年功賃金、正社員至上主義など)が揺らいでいる現在、一人一人が今まで通り、全員が一つの方程式の解を求めていけばよかったような平和な時代は終わりかけているのだ。



そんな時代の転換点における「考えるヒント」として「なるまん」はおおいに啓発的な内容を持っている。

この本の内容を他人の家の火事としてではなく、自らの問題として受け止めることの出来る感性こそ、現代、求められているのである。



まさむね

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