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カテゴリー「漫画・アニメ」の97件の記事

2012年8月31日 (金)

原発事故後の日本と妙にシンクロする「人類は衰退しました」

現クール(2012年7月~)で放映されている「人類は衰退しました」というアニメが妙に気になっている。

原作は田中ロミオのライトノベルで、2007年より刊行されている作品であるが、その雰囲気が、いわゆる311以降の日本の空気と妙にシンクロしているからである。

主人公は、物語の語り手も務めている「わたし」。国連の調停官としてクスノキの里という場所に赴任している。



物語は、滅び行く旧人類である「わたし」達が、新人類の妖精達(かわいい小人達)によって次々と勝手に発明され、創造される幻想世界、道具、施設などに翻弄されるというパターンで進む。

旧人類たる「わたし」の憂鬱さと、新人類たる妖精の屈託のなさ、そして妙に明るい画面のコントラストが独特の世界をかもし出している。



「世界はあまりにも明るく、私たちはあまりにも憂鬱」なのである...。



さて、「わたし」は旧人類の中でも唯一、妖精とコミュニケートできる存在であるが、それはあくまでも表面的なこと。妖精たちが何を考え、何をしようとしているのか、その本当のことは理解不能である。妖精たちが作りだした様々なものに翻弄された挙句、事後的にようやく、彼らの意図が理解出来るのである。

しかし、そんな状況を、「わたし」は、全面的に受け入れる。おそらく、「わたし」にとっては、「全てが、終わってしまっている」、「仕方がない」、「何も出来ない」というのがこの世界の掟なのである。

そして、「わたし」は妖精に向ってつぶやく。

私たち人間はとうの昔にもう哀れなる末路に突入しています。もうじき全滅します。


ちなみに、最近、テレビのバラエティでも栗原類クンというイケメンのネガティブキャラがブレイクしているようだが、この「人類は衰退しました」の「わたし」の態度は彼のスタンスとどこか共通している。もしかしたら、今年のキーワード、「諦め」なのかもしれない。



さて、この「人類は衰退しました」であるが、その題名から推測出来る通り、登場してくる人間たちは、ほぼ全員、劣化している。彼らはみな、視野が狭く、戦略を持たず、目の前の利益に目が眩み、責任感も無く、状況に流されるままに生きているのである。

例えば、第1話~第2話のエピソードでは、食糧難に陥った村に、突如として大量の加工食品が店の棚に、いつの間にか陳列されるようになる。それは妖精達が秘密の加工工場を創り、食品を生産していたということが後でわかるのであるが、村人達は、そんな状況を何の疑いも無く受け入れ、食品を競って手に入れようとするのだ。

彼らの無邪気な態度は、1984年に封切りされた「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」で押井守が描いた、ラムちゃんが見る夢の国に暮す友引町の人々の"疑いの無さ"を彷彿させるが、僕は、この「人類は衰退しました」に登場する旧人類たちに、あれからおよそ30年経った現在、さらに完璧なシステムの中で無批判に生かされている「動物」と化した僕らの姿を重ね合わせざるをえない。

本来であれば、自分達のあずかり知らぬところから、自動的に運ばれてきた、原材料が何かもわからない食品など、口にすることもおぞましいと考えるのが普通なのであるが、この村の住民は(多分、理性ではそんなおぞましさを理解しつつも)、それらを口にして生活していかざるをえないのである。



さらに、このエピソードでは、その妖精が作った秘密の工場で働く初老の受付係や工場長(実は国連の文化局長の兼務)も、その工場が誰が経営しているのかに関して頓着していない。彼らは、ただ、システム上に乗っかり、給与や役職を得られればそれで満足しているのである。そして、その姿は、残念ながら、今日の日本人とそれほど違いはないのではないだろうか。次々と起こる様々な難題に、ただ右往左往するだけの民主党政権、大事故の後でも何一つ自分達で変ろうとしない原子力村の人々、そして僕ら...



物語は、実はその工場は妖精が創り、加工食肉となった逃げ出した鶏が、意志を持って経営しており、彼らは文字通り「チキン(臆病者)」であり、ちょっとした脅しに自らが缶詰となって出荷されたり、空に投げ出され村人の家の降って来るというような、言葉にしてもわけのわからないようなシュールなオチとなるわけであるが、それにしても、気になるのは、先ほどから述べているような、ここで描かれている人々の劣化ぶりである。



人類が滅びそうになるというディストピア・シチュエーションはアニメでは珍しいものではないが、かつての「風の谷のナウシカ」や「AKIRA」「北斗の拳」「ストライクウィッチーズ」のような作品で描かれていたのは、世界は崩壊寸前であったとしても、必死に生き延びようとする人々の姿であった。そして、少なくともそこに描かれる主人公は、決して現代人に比べて劣化はしていないどころか、むしろ優れてすらいた。

彼らは戦略や、強い意志、そして使命を背負う気概を持っていた。そして、物語の主題はそうした残された人々が抱く希望そのものであった。



しかし、残念なことにこの「人類は衰退しました」(少なくとも九話までは)では、そういった希望のカケラも見られない。

尤も、よくよく考えてみれば、人類が衰退するということは、人々が退化することに他ならないというのは当たり前のことかもしれない。むしろ、ナウシカ(風の谷のナウシカ)や金田(AKIRA)、ケンシロウ(北斗の拳)、あるいはスザク(コードギアス)やスザク(攻殻機動隊2nd GIG)といった英雄の存在の方が、実は夢物語だったのである。



さて、前のエントリー(「Fate/Zero」第2期 その華麗なる登場人物達について語る)でも書いたが、僕は昨年の311とそれに続く原発事故の最大の罪は、「日本人から、究極の楽天性を奪ってしまった」ことにあると考えている。古来、自然災害が多発した日本列島に生きてきた人々は、何度も災害から立ち直ってきた。そして、その気力を支える哲学が、「一生懸命にやればいつか復活する」という楽天性だったと思っている。

しかし、現実的に列島内で、決して復活できないような土地を生み出してしまった、あの原発事故。そして、今度、大きな地震が来たら日本中のどこでもそのような状態に陥る可能性を自覚してしまった僕たち。日本古来の円環的(=楽天的)時間観念を、強引に、終末への一直線的(=悲観的)時間観念にコンバートさせてしまったあの原発事故は目の前の「命」の問題以上に、僕ら日本人の心を、長きに渡って締め付け続けるに違いない。



そして、そんな僕らの空気と妙にシンクロしてしまう「人類は衰退しました」。



最後に、敢えて繰り返すならば、「世界はあまりにも明るく、私たちはあまりにも憂鬱」なのである...。



まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2012年7月27日 (金)

「Fate/Zero」第2期 その華麗なる登場人物達について語る

『Fate/Zero』の第二期をようやく観了した。



僕は、第一期を観た後、「Fate/Zero」の第一期はまるで世界最強タッグ開幕セレモニーだ!というエントリーをアップして、さんざん、第二期に対する期待を表明していたにもかかわらず、観了が遅れてしまい不徳のいたすところである。



さて、内容に関してであるが、期待に違わぬ大スペクタクルロマンであったというのが正直な感想。スリリングで意外な展開は、まさに傑作と呼ぶのに相応しい出来であった。

それにしても、これは虚淵玄氏の嗜好であろうか。このアニメには以下のようないくつかのメッセージがあるように思えた。



1)正義(=恒久平和)を、この世で叶えるのは不可能性である

2)カタストロフの後には希望が残る

3)他人を動かすのは理論ではなく生き様である

4)人は合理的に動けるわけではない

5)他人のために尽くしても報われるとは限らない

6)誰しもが愛すべき点を持っている




まずは1)「『正義(=恒久平和)』を、この世で叶えるのは不可能性である」というメッセージについて。

衛宮切嗣という男は、子供の頃、「正義の味方」になろうと決心する。

しかし、魔術師の血を受け継いだ彼は、そういった「正義」の意思とは裏腹に、人間を無慈悲に殺害できるという冷酷な心を持っていた。

そして、ある村を、魔術研究によって、はからずも悲劇に巻き込んでしまった自分の父親を、銃弾一発で殺してしまう。

こうして、切嗣の人生は決定付けられてしまうのである。

その後、切嗣は、多数の人間を救うためには、少数の人間を殺害することを厭わないような殺し屋として成長するのであるが、彼の思考は、マイケル・サンデルがその授業中にサンプルとして出しそうなほど、究極の功利主義的な思考であった。

そして、切嗣は、世界平和を祈念して聖杯戦争に参加し、卓越した戦略眼と冷静な采配で、難敵をしりぞけてゆく。例えば、ランサーを擁するケイネス陣営は彼の謀略によって撃破されるのである。

しかし、切嗣はこの戦争の過程で、実は聖杯というものは「この世の悪」が凝縮された存在であること、つまり、この聖杯に自分の願いを託すと、逆に世界が破滅してしまう(人類は滅亡してしまう)という矛盾に気付く。そして、サーバントであるセイバーに聖杯を破壊するように指示するのである。

僕には、聖杯を邪悪なものとする、その設定にこそ、虚淵玄氏が、「『正義(=恒久平和)』を、この世で叶えるのは不可能性である」という思想が込められているように思われた。それは、別の言い方をすれば、この世には邪悪なものは決してなくなりはしないという思想である。

おそらくそれは、「魔法少女まどか☆マギカ」において、魔女が死滅した現世にも、魔獣が残るというあの世界観と同系の発想であり、さらに、レンジを広く考えれば、この「Fate/Zero」が、"甘美な幻想が負けて厳しい現実が勝利する王道アニメの系譜(「「マクロスFRONTIER」 早乙女アルトは何故、女形でなければならないのか」参照)"にあることをも示している。



そして、セイバーによって破壊された聖杯は、その邪悪さゆえに、破壊された瞬間に汚泥を噴出させ、戦いの地・冬木を大火災に陥れてしまうという結末をもたらす。これは、切嗣の正義の戦いは、結局は残酷な破壊しか残せなかったということを意味するのであろうか。



しかし、それはあまりにも辛い結末ではないか。

それゆえ、物語はまだ続くのだ。切嗣は、破壊された冬木において、唯一生存している士郎という少年を発見する。そして、彼は、その士郎に未来を託そうとするのであった。

ちなみに、そのカタストロフの只中に、圧倒的な力を誇るアーチャーが真っ裸という情けない姿で蘇生する。思わず笑いを誘うシーンであるが、状況が悲惨であればあるほど、一服のユーモアが必要であることをこのシーンは教えてくれる。

その希望とユーモアこそが、2)の「カタストロフの後には希望が残る」というメッセージである。おそらく、この希望は、「魔法少女まどか☆マギカ」で言うならば、魔獣が残った現世で、闘い続けるほむらの希望にも相当する。



余談ではあるが、人間の歴史とは、災害とその災害からの復活の繰り返しの歴史であるとも言えるのではないだろうか。

特に、天災の多い島国、日本ではそういった歴史観は比較的自然なものであったと思われる。例えば、かつて、日本人はこの国は大きな鯰の上に乗っている脆弱なもの、というイメージ(民間信仰)を持っていた。そして、時に、その鯰は、「世直し明神」にも擬せられていた。そんな浮世絵(鯰絵)が沢山残っている。

つまり、日本人の心の中には、どこかで、「天変地異こそが、現世を変革してくれるもの」という観念があったのではないかと思うのである。それは、坂口安吾が「堕落論」で描いた日本人の楽天性にも通じている。

しかし、原発事故が起きてしまった現在、日本人のそういった観念は修正せざるをえないかもしれない。

現代人の僕らが、日本を原発に依存する社会にしてしまったということは、いつの間にか、繰り返しがきかない世界を作ってしまったということだからである。つまり、原発事故は日本人から、究極の楽天性を奪ってしまったのである。原発推進を唱える人々(特に保守主義者)は、そのあたりをどのように考えているのであろうか。



さて、僕はこの「Fate/Zero」の中で、一番、好きな陣営はどれか?と問われたら、迷わずに、ライダー陣営と答えるだろう。それはマスターであるウェイバーとサーバント・ライダー(真名:イスカンダル)の関係性が進化すること、つまり、ウェイバー自身が成長して、次第にライダーに尊崇の念を抱くようになること、また、ライダーもそんなウェイバーを承認していくこと、このアニメには、それぞれの過程が見事に描かれているからである。

そして、このライダー陣営が発するメッセージこそ、3)「他人を動かすのは理論ではなく生き様である」という命題なのだ。

自分を小馬鹿にする大学の同僚や教師に承認されたいというセコイ欲望から聖杯戦争に参加したウェイバーではあるが、最終的には、世界史の英雄であるライダー、アーチャー、そして同居の老夫婦からも、無くてはならない存在として承認を得る。

聖杯戦争から降りて、マスターではなくなるも、自信というかけがえのないものを得るウェイバーこそ、もしかしたら、この聖杯戦争における最大の勝利者なのかもしれない。

そして、ギリギリのところでアーチャーに敗れてしまうライダーではあるが、その正々堂々とした豪放磊落な生き様(魂)はウェイバーの中にしっかりと生き続けているに違いない。ライダーの、オケアノス(地の果ての海)を観たいという、子供じみてはいるが純粋な夢の力は、セイバーのような正しく立派な治者としての振る舞いからは程遠いのかもしれないが、確実に多くの臣下、そしてウェイバーを興奮させ、その生き方を変えた。ミメーシスを興したのである。



4)「人は合理的に動けるわけではない」というメッセージは、過去の(生前の)因縁を抱えているサーバント達の振る舞いが雄弁に物語っている、というのがこの「Fate/Zero」の面白いところである。

例えば、勝利のためには手段を選ばない徹底的な合理主義者である衛宮切嗣のサーバントであるセイバーは、滅びてしまったブリテン王国の復活を夢見る理想的な王であり、同時に正々堂々と戦うことにこだわる騎士である。しかし、セイバーの騎士道は、時に、切嗣の作戦を狂わせ、切嗣とセイバーの間の溝を生み出してしまうのだ。

ちなみに、同様の関係性の齟齬は、ケイネスとランサー、ウェイバーとライダーの間にも見られる。



話は少しずれるが、僕は、現代日本の多くの問題点の根っこには、合理主義(グローバリズム)と、日本人的行動規範との間の齟齬があるように感じている。「正直に生きなさい」「他人には慈悲深くしなさい」「欲は抑えなさい」「他人の嫉妬を買うような行動は控えなさい」といった日本古来の道徳観念は、実はことごとく、グローバルな経済競争で勝ち抜くためには、意味の無い価値と思われてしまっているからである。勿論、長い目で見れば、そういった道徳心は有用であると信じたいのであるが、少なくとも目先の利益を追求することを義務付けられている現代ビジネスの世界では、古来の道徳心はむしろ、邪魔ですらあるのだ。

僕らが、「Fate/Zero」を見ながら、一方で切嗣のクールな思考に憧れつつ、他方、セイバーの実直さにも惹かれてしまうのは、この物語の中に、現代社会に生きる僕らの矛盾した生き方、つまり日本人の引き裂かれた姿が比喩的に投影されているからではないかと思う。



5)「他人のために尽くしても報われるとは限らない」は間桐雁夜と、セイバーからのメッセージである。

雁夜が、聖杯戦争に参加したのは、彼が密かに愛していた時臣の妻・葵の娘の桜を救うためであった。そのために、一時は、魔術師になる道を捨てた雁夜であったが、桜が、自身の家(間桐家)の養子となり、魔術師として育てられるというということを知り、急遽、聖杯戦争に参加して、桜を救おうとしたのである。

しかし、魔術師となるにはあまりにも急であったため、雁夜にとって、聖杯戦争とは、その死と引き換えにする戦いとなってしまう。日々、衰弱していく体で必死に戦おうとする雁夜ではあったが、言峰綺礼の策略によって、葵から、夫・時臣を殺したのは雁夜であると疑われ、逆に彼女から暴言を浴びせかけられ、思わず葵の首を絞めてしまう。さらに、最期は、自分が救おうとした桜からも見捨てられてしまうのだ。

一方で、臣下や民の幸福を願って、良き王であろうとするセイバー(真名:アーサー)ではあったが、彼女を執拗に付けねらうバーサーカーの正体が、かつて自分の臣下であった凄腕の騎士・ランスロットであることに衝撃を受ける。アーサーはかつて、自分の妻と不義の関係を持った、このランスロットを、良き王であろうとする心をもって許したのであるが、実は逆に、許されたランスロットから、逆恨みを受けていたというのである。

僕は、この雁夜やセイバーの姿に、「魔法使いまどか☆マギカ」のさやかと同じような善意と裏腹の自己欺瞞を見る。さやかも、恋人の腕の再生を祈願して魔法少女となるのであるが、実はそれは、本当は彼のためではなく、自分のためであったという欺瞞に気付き、自暴自棄となるのであるが、同様に雁夜も、桜を救い出し、葵の元に返したいという心の奥底には、自己欺瞞があり、その欺瞞がゆえに、雁夜は、葵の暴言に逆上してしまうのである。

また、アーサーも、ランスロットを許すことによって逆に彼のプライドを傷つけ、怨念を抱かせてしまう。ランスロットに対する寛宥は、意識的にはランスロットを思ってのことであったとしても、実は、「良き王でありたい」というアーサーのエゴから来る無意識の自己欺瞞が、ランスロットの癪に障ったという残酷な結果なのである。



さて次に、言峰綺礼についても語っておきたい。彼は、この聖杯戦争の監督役である聖堂協会の言峰璃正の息子で、聖杯戦争の前半は、魔術協会の遠坂時臣の影のサポーターとして活躍するが、後半、時臣を裏切り、殺害。アーチャーのマスターとなり衛宮切嗣と死闘を演じる。

彼は、格闘家としては一流であり、修行に耐えうるだけのストイックな精神力も持ち合わせている。しかし、ライバル・衛宮切嗣が子供の頃から抱き続けている「正義」のために聖杯を奪取すべく、手段を選ばず合理的、戦略的に闘うのに対して、綺礼は、自分が何のために闘っているのすら、よくわかっていない存在である。つまり、その内面(存在目的)は空虚なのである。最後に、ようやく大災害の現場で己の嗜好(願望)が、破壊や醜悪なものに向いているという自覚を得るのであるが、換言すれば、そこまでの綺礼にとっての聖杯戦争とは自分探しの戦いだったということである。



この衛宮切嗣と言峰綺礼の格闘シーンは、このアニメどころか、おそらくアニメ史にも残るような出色の名シーンである。しかし、それはスペクタクルな要素を剥ぎ取ったレイヤーにおいてでも、生まれながらにして「正義」という観念に取り付かれた運命を持つ男と、目的も内面も無いがただひたすらに闘うために闘う男の戦い、つまり、まさにFate(運命)とZero(空虚)との戦いという精神戦が見えてくるところが奥深いところだと僕は思った。



さて、最後に、ここではあまり語れなかったマスター/サーバントについて。

切嗣の「起源弾」によって戦闘不能となり、結局は、切嗣の策略によって、殺されるケイネスは、確かに、ウェイバーを見下したり、聖杯戦争に勝ちたいがゆえに、神父を殺害したり、サーバントのランサーに嫉妬心を抱き罵倒するなど、醜悪でみっともないキャラではあったが、最後の最後で、自分を裏切った(ランサーのチャームによって裏切らされた)妻のソラウの命を救うために、プライドも家の名誉も捨てて聖杯戦争を諦めるという、一瞬の善人の姿を見せてこの世を去る。

また、殺人の快楽を見出す龍之介や、そのサーバントであったキャスターも、殺人狂としての自分の酔ったり、セイバーをジャンヌダルクと勘違いし続けるなど、ヒール的存在で、気持ち悪いというのも事実であるが、その動機は純粋であり、彼らの潔い死はむしろ満足感すら残した、とも言える。

ようするに、このアニメに登場するあらゆるキャラクタは、どこか、憎めない存在なのである。それどころか愛おしくさえある。それゆえに、このアニメには嫌味がない。

その点をメッセージとして読み取るならば、「6)誰しもが愛すべき点を持っている」ということにでもなろうか。



実は個人的には、その点がこのアニメの一番、好ましいところだと思っているのである。



まさむね



Fate/Zero第1期のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2012年5月 8日 (火)

2012年に観るとどことなく切ない「耳をすませば」

1995年公開のジブリ作品「耳をすませば」を観た。



原作は柊あおいの少女マンガ。監督は近藤喜文。宮崎駿は脚本・絵コンテ・制作プロデューサーとして関わっている。

内容は、一言で言ってしまえば、東京近郊の多摩地区を舞台にした受験を控えた中学三年生の少女の恋と成長の物語である。

特に、少女が、自分の心の中に生まれたある種の感情の正体を段々と恋だと認識していくその過程とか、恋というのものが素晴らしいことと同時に他人を傷つけるものでもあるという両面性に気付くその瞬間とかが、リアルに描かれていて、"現役"の人が観れば顔から火でも吹きたくなるかもしれない。



坂道のアポロン」もそうであったが、この作品も登場人物の仕草やセリフの一つ一つが繊細で、愛おしい。しかも、音楽も素晴らしい。ジブリ作品の中でも最高傑作の一つであることは間違いないと思う。



おそらく、時代は90年代前半であろう。都営アパートらしき集合住宅(2DK位か?)に暮らす月島一家の家族構成は、両親と姉妹。

冒頭で、コンビニで牛乳を買ってきた主人公の雫の母親の「また、ビニール袋?牛乳一本なのに。」というセリフだけで、彼女が環境問題に意識が高い女性であることがそれとなくわかる。しかも、その母親は、40歳を過ぎているだろうに、大学院の修士課程に通っていて、中学生の娘に「あなた、好きで勉強してるんでしょ。」などと言われている。

さらに、姉の「生協で買い物」というちょっとしたフレーズを重ね合わせると、この家族は多摩地区あたりにありがちな、中の下流の知的「市民」家族であろうことが想像できる。

一方で、彼女の友人の夕子の家は、裕福そうな一軒家に住み、父親は家に帰ると野球を見ている。そして、母親は子犬を抱いている。想像逞しくするならば、おそらく、父親は民間の一流企業のサラリーマンなのだろう。あの頃、バブルの恩恵を受けていない地方公務員の現業はつつましやかなのに対して、民間は金回りが良かった。しかし、その二つの層の間には何のわだかまりも上下意識も無い。だから、夜、遅くだとしても、雫は夕子の家にあがりこんで普通に時間を過ごすのだ。勿論、公務員がうらやましいなどという価値観は無く、一億層中流が無意識に共有されていた...



上記はほんの一部に過ぎないが、このアニメでは、こうした丁寧なディテイルが全編にちりばめられていて、あの時代の普通の人々の息遣いが、まさに聴こえてくるかのようだ。

もっとも、このような、耳をすませば聴こえてくるようなディテイルも、多分に時代性を帯びていて、現在から見返してみると、若干のノスタルジーとして聴こえてくるし、もしかしたら、最近の若い人にはピンと来ないかもしれない。しかし、年寄りくささも気にせずに、その調に身を任せるのもまた、心地よいではないか。



また、アニメの中で何度も流される「カントリーロード」の音楽と、その背景に映し出される高台から見下ろされた東京都下の風景は、自動車が激しく往来する道路と狭い空間に密接して建てられた民家やビルなどによって構成されており、それは、「カントリーロード」の元歌で歌われているウェストバージニアの田園風景などとは、おそらく似ても似つかないが、しかし、「カントリーロード」を「コンクリートロード」と替えて笑いながら歌う少女達の笑顔や、イタリアへ職人修行に行こうとする少年の「お前のあの歌(「コンクリートロード」)を歌って頑張るからな!」というセリフには、ニヒリズムを明確に超えた「ここが我が故郷なのだ」という、ささやかな誇りとしたたかな希望を感じさせてくれる。

あるいは、こうも言えるかもしれない。いい悪いは別にして、僕らの民謡は、いつの間にか、西洋のカントリーミュージックになっている。これは戦後日本の文化、社会があまりにも自然にアメリカ化した結果であると。



しかし、このアニメで描かれている純朴な誇りと希望を、2012年の僕らが共有しているのかどうかと言えば、それはいささか躊躇が必要かもしれない。そこが、このアニメを現在に観ることの、どことない切なさと繋がっているように思われる。



物語は、坂の上にあるある西洋アンティークショップ(地球屋)に置いてあった一体のウサギの人形(バロン)が、戦争をはさんで、恋人と出会えなかった悲恋の物語と、同時に、この人形の持ち主であるお爺さんの悲しい青春の記憶の物語、そして、その人形をネタに雫が書き上げたファンタジー小説、さらに、その雫と、このお爺さんの孫である天沢聖司との恋愛の行方。この四つの恋の物語が絡みながら進行して行く。



その途中にさりげなく挿入される雫からバロンへの「あなたことは先から知っていたような気がするの。」という独り言や、お爺さんが、かつての恋人(ルイーズ)が帰ってくる夢を見て目を覚ました瞬間に雫が現れるというタイミングを勘案すると、露骨な想像力で力任せに「戦争で亡くなったルイーズの生まれ変わりとして雫が現れた」などという妄言も口に出してみたくもなるが、この作品の"現実を超えた何か"の寸前で止まる上品な倫理性の前では、これ以上、妄想を語ることは、極めて野暮な気もしてくる。



ただ、ここに登場してくるブタ猫のムーンについてだけは、敢えて語っておきたい。

というのも、僕が観たアニメの中には、しばしば、夢の世界へ案内したり、恋人達を遭わせたりといった場面にこのブタ猫が登場するのが気になっていたからである。例えば、「借り暮らしのアリエッティ」(2010年)におけるニーヤは、最初はアリエッティに対して危ない存在として登場するのだが、アリエッティと少年・翔を引き合わせるのもこの猫なのである。また、「老人Z」(1991年)におけるブタ猫・小春も、最後に、高沢老人に会いに来る妻・ハルが乗り移ったグロテスクな合体機械のための部品(コアプロセッサ)を運ぶという大事な役割をする。

そして、この「耳をすませば」のブタ猫・ムーンも、電車で雫の隣に乗ったかと思えば、都市空間の中の迷路のような場所を通って、彼女を恋人・翔とお爺さんが居る地球屋へと導く。それは、まるで、「迷宮物語」(1989年)の中の「ラビリンス*ラビリントス」でかくれんぼをしながら、少女(サチ)と一緒に幻想世界へ迷い込むブタ猫のチチロネを思い出させる。さらにいえば、「となりのトトロ」における猫バスもブタ猫と言えなくもない。そして、ご存知の通り、この猫バスは、現実界とあの世とを運行する。



左から小春「老人Z」、ムーン「耳すま」、猫バス「トトロ」、ニーヤ「アリエッティ」、チチロネ「迷宮物語」






かつて猫の妖怪といえば、人間の怨念が乗り移った化け猫と相場が決まっていたものだが、ここ二十年位の間で、縁結び、霊界先導としての猫という観念も生まれてきているということであろうか。昨今は、ネコ型人間という言葉もあるらしく、組織に縛られない自由な生き方として注目され始めているとも聞く。先日のエントリー(「デスノート」 名前が書かれると死ぬというあまりにも日本的な設定)との関連で言うならば、その名前がムーンだったり、オタマだったり、ムタだったりと相手と場所によって、名前を特定させないこのブタ猫は、まさに、自由の象徴なのではないだろうか。



しかし、その一方で、名前を知られるということが、相手に支配されることであるならば、最初から一方的に名前を知っていた天沢聖司は、その時点で、月島雫を支配していたいたとうことであり、図書カードで自分の名前を意識させるという高等戦術によって、逆に雫が彼に恋をするように仕向けたと言えなくもない。中学生にしては、見事な戦術である。



最後に、この物語が興味深いのは、大団円。丘の上で朝日を見ながら、結婚の約束をした翔と雫ではあるが、いざとなったら、あのブタ猫が戦闘機によって邪魔をしに来るかもしれない、そんな愉快な夢想の余地を残しているところである。

それにしても、2012年の現在、あの翔と雫は、幸せなゴールインを迎えることが出来たのだろうか。それは、もしかしたら、残酷な問いかもしれない。



まさむね

2012年5月 6日 (日)

「デスノート」 名前が書かれると死ぬというあまりにも日本的な設定

以前から妻に勧められていた「デスノート」の第一部(全26話)をようやく観た[1]。



実は、ずっと「何だか難しそう」な気がして敬遠していたのであるが、ここのところ気分が乗っていたので一気に観てしまおうと思い、およそ一日で観てしまった。

とにかく、凄い作品だ。シナリオの練られ方は、おそらく、今まで観たアニメ(映画も含めて)の中でもトップクラスと言っても過言ではない。

さすがに、原作のコミックが世界累計発行部数は3000万部を突破しているだけのことはある。この緻密なシナリオは、これぞ世界に出しても恥ずかしくない日本コンテンツであることは間違いない。



簡単に言えば、このアニメは「名前を書いたら、その人物が死ぬ」というデスノートを巡る話である。

勿論、このルール以外にも、いくつか他に重要なルールがあるのだが、基本的には、この「デスノートに名前を書いたら、その人物が死ぬ」という単純な設定さえ飲み込めれば、この作品は楽しく観ることができると思う。



僕は、このアニメが日本で作られ、世界中で大ヒットした背景には、この名前を書くと相手が死ぬという発想の根底に、古来から世界中に存在する、「相手の名前を知ることは相手を支配することと同等の意味を持つ」という宗教観念があるのではないかということ、そして日本は辺境の島国ゆえにそういった古代からの観念が他の地域よりも強く残ったという事実があるのではないかと考えている。



例えば、万葉集の巻一第一歌には、雄略天皇(第21代)が草を摘んでいる少女の名前を尋ねるという内容の歌が掲載されているが、この歌は、まさに相手の名前を知ることによって、相手を支配しようとする(自分の女にしようとする)歌である。そして、この観念が、近年、地下水脈からアニメというメディアを通して湧き水のように出てきたのが「千と千尋の神隠し」であり、この「デスノート」ではないかと想像しているのだ。



ご存知の通り、「千と千尋の神隠し」では、異界に迷い込んだ千尋という少女が、強引な契約によって油屋の支配人・湯婆婆に名前を奪われて、千と名付けられることによって、奴隷として働かされる物語であるが、ここで、千尋が湯婆婆との労働契約書にサインした時に、本来ならば「荻野千尋」と書くところを、荻の字の"火"を"大"と書く。つまりそこに偽名を書くのであるが、ここは、無意識的に、湯婆婆からの支配を完全なものにしたくないという千尋の無意識が働いたと考えられる。

ちなみに、この「本当の名前を知られることによって相手に支配されることに対する恐れ」という宗教観念が、まだどこかで生きているがゆえに、日本では実名登録前提のSNS・Facebookがいま一つビビッドにブレイクしていないことの一因になっているのではないだろうか。いまだに、YahooがGoogleよりも利用者数が多かったり、2chという匿名サイトが膨大なアクセス数を誇っているというようなこともそうであるが、インターネットという最新技術が、逆に、今まで隠されてきた民族のユニークさをあぶり出してくるような現象は、誠に興味深い。



さて、この「デスノート」であるが、評論家の宇野常寛氏は著書『ゼロ年代の想像力』の中で、バトルロワイヤル系作品の代表作に上げていた。このバトルロワイヤル系というのは、90年代まではセカイ系という、現実的な選択にコミットせずに甘美な観念的コクーンの中で私小説的な自意識を弄ぶタイプの作品群が後退し、バブル崩壊、金融ビックバン、平成不況、市場原理主義(成果主義)的価値観の興隆という時勢を背景として出てきた、苛烈でサヴァイブ感を前面に出すような作品群を指す概念である。



確かに、この「デスノート」における二人の主人公・夜神月(やがみらいと)、L(エル)、両者とも、目的のためには手段を選ばないタイプの合理主義者だ。それはゼロ年代初頭の一時期に脚光を浴びたIT長者や株式のトレーダーのイメージなどをも髣髴させる。



平和な世界を実現し、その世界での「神」になるという野望のために、デスノートによって重犯罪者をこの世から次々と抹殺していく月(らいと)と、犯人を逮捕するためには、拷問スレスレの取調べや、人権を無視した強制捜査を厭わないL(エル)の二人の合理主義的な価値観はまるでコインの裏と表のように良く似ている。

彼らは、古くは60年代の鉄腕アトムから、80年代のラピュタやナウシカ、90年代の「エヴァ」のシンジを経由して、最近のアニメ(「魔法少女まどか☆マギカ」「輪るピングドラム」「輪廻のラグランジェ」など)まで、連綿と続く家族や友人といった身近な他者のためには命を賭すことも恐れない登場人物達とは全く異なった行動原理で動いている。二人とも、人間関係に縛られて「空気」とやらが漫然と支配するような日本独自の村社会的価値観から超越した存在なのである。



さらに、崇高な目的を抱く超越的な存在という意味では、「コードギアス」のルルーシュや「Fate/Zero」の衛宮切嗣(セイバーのマスター)にも似ているように見えるが、そのルルーシュや切嗣にしても、プライオリティ最上位は、結局は肉親の幸せであるということを考え合わせれば、月(らいと)とL(エル)の行動原理の方が、より冷酷で合目的的のように思われる。



さて、この「デスノート」の最大の見せ場は、L(エル)の名前をゲットして、デスノートに書き込むことによってL(エル)を抹殺しようとする月(らいと)と、月(らいと)を真犯人として逮捕しようとするL(エル)との間の、見ているだけで心臓がキリキリ痛むような心理戦である。二人は出来る限りの合理的推理を重ねて相手を追い詰めていく。

二人の判断は、決して天才的(超越的)な勘によって行われるわけではなく、ゆっくりと考えれば誰でもがたどり着けるようなロジックに添って行われる。それは、今クールに放送中の日曜劇場「ATARU」におけるアタルや、かつての古畑仁三郎が初動時に発動する神がかり的な勘とは無縁の合理性である。



彼ら二人の推理ロジックの根拠は、「人間というものは必ず合理的に動くはずだ」という地道な前提なのである。それは彼らの人間観と言ってもいい。おそらく、この人間観のわかりやすさ、すなわち合理性こそ、「デスノート」が日本だけでなく、世界的にも大人気となった大きな要因である。もしかしたら、今後の日本のアニメが、"日本大好き市場"の枠を超えて、より広い市場にインパクトを残すためのヒントがここにあるかもしれない。



しかし、先ほども述べたが、この作品に流れる人間観は、自分の命を賭して他人を助けるというような日本アニメ的な超合理的な行動原理と相反している。勿論、その日本的行動原理に縛られたアニメの魅力も捨てがたいのではあるが、僕は、この「デスノート」の合理性もユニークさとして評価したいと考えている。



それがゆえに、最後の最後(25話)の月(らいと)がL(エル)を殺すという一番大事な局面において、月(らいと)が、その確信的予測の最後の1ピースに日本アニメ的な行動を持ってきてしまうという、その不徹底さ、つまり、具体的に言えば、月(らいと)が、「弥海砂(あまねみさ)を愛する死神のレムが、L(エル)に逮捕されるのを阻止するために、自分が死ぬことを承知で、L(エル)を殺すに違いない」という、天才的(跳躍的)な推理をしてしまうその一瞬を、ただの無自覚な不徹底として捉えるべきなのか、あるいは、この作品も日本のアニメなのだというメタメッセージと捉えるべきなのか、という疑問的悩みを抱いてしまうのであった。



まさむね



[1]なので、上記の文章は第二部以降では覆されて、全然、意味をなさなくなる、あるいは間違っていたということもありえることはご承知下さい。

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2012年5月 3日 (木)

「坂道のアポロン」 独自の視線による新しいノスタルジーの発見

まだ3話までしか観ていないが、現在、ノイタミナ枠で放映中の「坂道のアポロン」が素晴らしい。



もともとは『月刊flowers』で連載されていた少女漫画であるが、『このマンガがすごい! 2009』オンナ編で1位を獲得したほどの評判作のアニメ版だ。

舞台は1966年の佐世保。横須賀から転向してきた西見薫が、土地の高校(佐世保東高校)に転向してきて、同級生のバンカラ学生・川渕千太郎や、その千太郎の幼馴染・迎律子と出会い、学園生活とジャズを通して友情や恋愛をはぐくんでいく物語である。



最近、「輪廻のラグランジェ」「Fate/Zero」「電脳コイル」「天空の城ラピュタ」「コードギアス」「トップをねらえ!」「マクロスf」といったSFモノ、戦闘モノ、ロボットモノ、あるいは冒険モノを連続して観ていたので、たまに、こうした平凡な物語に出会うとホッとした感じがしないでもない。

元々、僕は青春映画(例えば、「BU・SU」とか「青春デンデケデケデケ」)が大好きなので、このアニメも見事にストライクだった。しかも、1966年の佐世保といえば、反射的に村上龍の「69」も連想させてくれるもんだから、この作品に対する評価は、観る前から出来上がっていたと言っても過言ではない。



さて、世の中には、いつの間にか無くなっているのだけど、すぐ近くにあるかのように感じてしまうような物事が多い。このアニメにはそんな"幻想としての親近感のある過去"が沢山出てくる。

例えばそれは...

無線部に誘う内気な少年だったり...

すぐに手が出るバンカラ高校生だったり...

本物の笹に包んだ大きなオニギリだったり...

遊んでくれと近寄ってくる弟妹だったり...

水面から顔を上げているためのノシ泳法だったり...

上手く漕げない和船だったり...

剣道の竹刀を使った苛めだったり...

「日曜日に一緒に勉強しよう」というデートの誘い方だったり...

娘の男友達だと急に無愛想になる父親(レコード店主)だったり...

喧嘩した二人が、楽器で音を合わせていると段々笑顔になってくるあの瞬間だったり...

レコード針を何度も同じ溝に落としながらするミミコピだったり...

「ファッションセンスのいい」先輩に"真知子巻き"(実はほっかむり?)をしてもらって喜ぶ少女だったり...

しかもその娘が「花を摘んでくる」と言って走り去って陰で泣いているような少女だったり...


この物語には、そんな、1960年代地方都市のディテイルが、一つ一つ見事に描きこまれていて、それは「サザエさん」とも「三丁目の夕日」とも違った角度から、僕らに新しいノスタルジーを感じさせてくれる。

もちろん、それらは、自分の体験から照らしてみると、現実的にあったのか、なかったのか、わからないようなノスタルジーではあるのだが、それは、最近、よく繁華街で見かける水原弘や浪花千栄子の大塚製薬系の看板を入り口近くに掲げて典型的な昭和を演出するタイプの飲み屋の凡庸なセンスとは比べ物にならないほど繊細であり、おそらく、作者独自の視線による新しいノスタルジーの発見こそ、この物語の一つの見所であるに違いない。



まだ、序盤が終わったばかりのこのアニメの先に待っている"幻想としての親近感のある過去"が楽しみだ。



さて、僕がこのアニメにおぼえたもう一つの親近感は、ここで描かれている高校生達がかかえる無自覚な衝動(おそらく性衝動)を、喧嘩や音楽といったものにぶつけるそのぶつけ方から来ている。

例えば、バンカラ学生の千太郎は、学校では授業にろくに出ないような不良で、帰宅後は、地下室にこもってドラムを叩きまくる。それは、誰かの役にも、社会の役にも、そしておそらく、自分の将来の役にも立っていないただの衝動の吐き出しなのだが、その利己的な情熱こそが、人生におけるこの季節のリアリティとしては極めて平凡ではあるが、最も説得力がある。



音楽をやっている時だけは、今、ここから抜け出せたような気がした、あの甘美な一瞬とでもいおうか。



例えば、人類のためにロボットに乗る「マクロスf」のアルトや「トップをねらえ!」のノリコ、妹のため、母の復讐のために体制を破壊しようとする「コードギアス」のルルーシュ、あるいは友人や学校や鴨川のために走り回るジャージ部の京乃まどか(「輪廻のラグランジェ」)など、誰かのために命を賭けつづける高校生ヒーロー(ヒロイン)を観続けてきた僕の目には、時に、それがインフレを起こし、逆に、千太郎の利己的なドラミングがむしろ、健全に見えたりもするから不思議だ。



勿論、そういうのは実写でやればいいのに!という心持が僕の心の中にないわけではないが、迎律子ともう一人のヒロイン・深堀百合香、二人の美少女の顔の微妙で繊細な描き分けなどを見ていると、ただ髪の毛の色や長さだけで女の子を記号的に区別させようとするタイプのアニメに比べて、もしかしたら、このアニメはリアリティの地平において、新しい領域にまで到達しようとしているのではないか?などと期待もしたくなるのであった。



まさむね



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2012年5月 2日 (水)

「マクロスFRONTIER」 早乙女アルトは何故、女形でなければならないのか

TV版「マクロスFRONTIER」全25話を観た。

ご存知の通り、マクロスはこの作品以外にも、TVアニメ「超時空要塞マクロス」(1982年~1983年)、劇場版「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」(1984年)、OVA「超時空要塞マクロス Flash Back 2012」(1987年)、TVアニメ「マクロス7」(1994年~1995年)、劇場版「マクロス7 銀河がオレを呼んでいる!」(1995年)、OVA「マクロス ダイナマイト7」(全4話、1997年)、劇場版「マクロスF 虚空歌姫〜イツワリノウタヒメ~」(2009年)、劇場版「マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~」(2011年)などの映像作品がある。

さらに、映像の他、漫画、小説、ラジオドラマなどの作品もあり、それらは総称してマクロスシリーズと呼ばれている。



僕はその中のほんの一部に触れただけなので、大きなことは言えないが、この「マクロスFRONTIER」を観た限り、さすが、日本を代表するSFロボットアニメだけのことはあると思った。

とにかく、その映像(3DCG)の迫力と美しさは圧巻なのである。しかも、ミュージックと戦闘シーンが必然的に結びつくという設定のオリジナリティには、よく、ここまで考えたなぁと思わず頭が下る。



物語は、2059年。その舞台となるのはマクロス・フロンティアと呼ばれる宇宙移民船団。人類は、地球を出て安住の地を求めて銀河の中心に向けて旅をしている。ちなみに、このマクロス・フロンティアは、科学によって管理された閉じられた生態系となっていて、人々は文化的な生活を営んでいる。ただし、その空間は謎の異星生命体である外部の敵(バジュラ)によって脅かされており、軍隊やSMSという民間軍事プロバイダーは、常にそのバジュラとの苛烈な戦闘を繰り広げているのだ。



物語は、このマクロス・フロンティアに住む少年少女の人間関係と、バジュラとの戦いという二つの軸が交差しながら進行していく。

少年少女の日常生活と、人類の存亡を賭けた闘いがリンクしていくという意味で言えば、このアニメはセカイ系という解釈も可能であり、最終的には、異星生命体・バジュラが持つ特別なコミュニケーション方法を活用して、全宇宙を一つの意識化のもとに統合しようとする野望が敗れ去り、「個体が別々の意志を持ち、時として誤解が生じたりもするが、それがゆえに恋は素晴らしい」というような思想が生き残る展開に注視するならば、あの「新世紀エヴァンゲリオン」における「人類補完計画」宇宙版の敗北物語とも言えるのである。



その意味で言えば、このアニメは「ビューティフルドリーマー」から「火垂の墓」「新世紀エヴァンゲリオン」「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「妄想代理人」「カオスヘッド」などと同様に"甘美な幻想が負けて厳しい現実が勝利する"アニメの王道的系譜にある作品なのだ。



ところが、この「マクロスFRONTIER」では、思想的には先に述べたように現実の厳しさが勝っていたとしても、具体的には、この物語の大きな柱である男女の三角関係(男一人と女二人)における厳しいは対立は回避され、結論は先送りされてしまう。

もっとも、三角関係にある種の決着をつけるということが、ここまで育ててきた商品としてのキャラ達にそれなりの傷を負わせてしまうことは想像に難くないし、先に劇場版が控えているという大人の事情も斟酌すべきなのだろうが、僕ら視聴者が全25話という、それなりに長い道のりを経た挙句に待っていたのが結論の先送りというのでは、いささかがっかりしたと言わざるを得ない。

石田純一の「不倫は文化」という言葉で反射的に思い浮かぶような古今東西の名作、例えば、「源氏物語」「アンナカレーニナ」「ボヴァリー夫人」、そして夏目漱石の一連の作品と、この「マクロスFRONTIER」とを人間描写という土俵で比較しようとするのはちょっと荷が重かったというべきなのであろうか。



いや、しかし、そのように言い切ってしまう前に、このアニメ、そして主人公の早乙女アルトについて、もう少し考えてみたいというのが、実は、本エントリーの主旨なのである。



それは、主人公の早乙女アルトが、元々歌舞伎役者の家に生まれた女形であったということを、敢えて伏線として捉え、彼は元々、彼ではなく、彼女であったという深読みも可能ではないかと考えられるからである。

しかも早乙女アルトが劇中において何度が吐いている「思わざれば花なり。思えば花ならざりき。」(自然に演技することが重要。意識してしまうと面白くなくなる:まさむね現代語訳)というような世阿弥の花伝書を意識したような言葉を、強引にかぶせて解釈してみるならば、彼の恋愛場面における不器用な立ち振る舞いこそは、自然な振る舞いなのだ、というメタメッセージにも取れなくないからである。



さらに、彼が、子供の頃から天才的な女形であったにもかかわらず、父親から勘当されてまで役者としての道を捨てた理由が、建前的には、亡くなった母親が持っていた大空への憧れというだけでは、あまりにも表面的ではないのか。

おそらく、彼の女形としての自分に対する嫌悪は、素においても女であることに対する、つまり、心のどこかに存在する女性性に対する嫌悪と密接に結びついているのではないかというのが僕の仮説である。

それゆえに、彼が意志的に男性であろうとした時に選択した職業が軍人なのであり、その精神はどこか、あの三島由紀夫の趣味にも通じている。

また、その一方で、長髪を捨てきれなかったり、イヤリングをすることに抵抗がなかったりと、彼が無意識的に選択してしまっている女性的なファッションと、そのくせ女性と見間違われたり、友人からからかい半分にアルト姫と呼ばれることに対して極度に反発するような幼稚な仕草の矛盾的並存にこそ、彼の一筋縄ではいかない複雑な内面が表われている。



普通に、視聴者に媚びて、同一化を求めるキャラであれば、シンジ(「新世紀エヴァンゲリオン」)のような情けない少年や、オカリン(「シュタインズゲート」)のようなオタク、あるいはルルーシュ(「コードギアス」)のような貴種の奥手にしておいけばいいものの、敢えて、複雑に設定された早乙女アルトをどう読むのか?これが、商品であるがゆえに文学への道を歩めなかったこのアニメに、文学とは別の方向での奥深さを与える一つの設問ではないかと僕は思うのであった。



まさむね



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2012年4月25日 (水)

「トップをねらえ」 アニメのもう一つの可能性のカケラ

「となりのトトロ」や「AKIRA」と同じ1988年に、GAINAXが製作したOVAシリーズの「トップをねらえ」を見た。

ロボット+美少女アニメのハシリのこの作品は、現在、見ると、その古さも含めて逆に新鮮であった。



まず、興味深く感じたのは登場する女の子達が、最近の美少女アニメに観られるような類型的なキャラではないということ。つまり、彼女達は、視聴者を喜ばすような、例えば、ツンデレとか天然系とか、そういう類型に当てはめたようなキャラを付与されているわけではなく、物語の必然合うような性格の女の子だという事である。



題名の「トップをねらえ」が「トップガン」と「エースをねらえ」を合体させた名前だということくらいは、予備知識として持っていたが、登場人物の関係性自体が、まるで「エースをねらえ」の丘ひろみ=タカヤ・ノリコ、お蝶夫人=アマノ・カズミ、宗方コーチ=オオタ・コウイチロウだとは思わなかった。

最初のカズミ(おねえさま)の登場シーンには、周辺がお花畑となる演出。これは、そのまま、お蝶夫人の登場シーンのパロディとなっている。また、その口調もお嬢様的で、性格も気高く、しかし陰では努力家というところなどもまるでお蝶夫人である。

また、ノリコも、自他共にダメダメちゃんだと思っていたら、突然現れた謎のコーチが、急遽、宇宙行きを彼女を指名するに至っては、ほとんど「エースをねらえ」の丘ひろみの境遇と瓜二つなのである。

勿論、コーチのサングラスは、「サインはV」の牧圭介を、片目がつぶれているところは「あしたのジョー」の丹下段平を下敷きにしているだろうことは想像に難くない。ようするに、このアニメは、ロボット+美少女アニメを隠れ蓑にしたスポ根アニメだという解釈も可能なのである。



しかし、そういったキャラが後半になると、段々、崩れてくる。第4話で、ベッドでくつろぐカズミが何故か「人間失格」などを読んでいたかと思えば、第5話では、オオタコーチと別かれなければならない宇宙飛行士としての宿命に泣き崩れる。そこで、あ~、あの「人間失格」は、ここで、この娘が見せる人間の弱さの伏線だったのかと納得させる。

また、主人公のノリコにしても、最初は苛められキャラだったのが、ライバルとの戦い、父の死、恋人(?)との離別、パートナーからの裏切りなどに遭いながら、最後は、その裏切られたパートナーである先輩・カズミを叱咤するほどに成長をとげる。



こうした性格の変節は、このエントリーの冒頭近くにも述べたが、決してこの作品におけるキャラが視聴者の嗜好に奉仕するための商品などではなく、物語の必然に添ったものであったことを意味しており、このあたりの工夫など、物語的な演出としては当たり前と言えば当たり前ではあったが、逆に、最近の美少女アニメばかり観ていた僕に忘れかけている何かを思い出させてくれた。

しかも、最近のアニメにありがちな、一度観ただけでは理解は出来ないような複雑でハイコンテクストな設定はなく、友情、恋愛、嫉妬、戦いをそれぞれテーマとした単純な場面が単線的に進む骨太な展開は、アニメを海外(特に開発途上国)への輸出品だと考えた場合、実は、より優れた商品としての素養を備えているようにも思えるのだ。



それだけではない。例えば、彼女達が一緒に共同浴場に入るシーンでは、立派な胸に乳首までも露出したかと思えば、ちょっとした服のズレでエロスを表現したり、あるいは、そんな彼女達が興奮するとお互いを張り手したりもする。つまり、このアニメは現代の記号化された萌キャラになる以前の生身性を有しており、これは、ある意味で、極めて新鮮に映るのである。

しかも、乳首露出があまりにも明け透けのため全くエロくないのに対して、服の乱れから見えそうで見えない乳首がそれだけでエロいという、その表現方法の使い分けが、当時で言えば栗本慎一郎的なエロスの本質に対するメタ表現となっているところに、今更ながら驚かされるのだ。

その意味でも、現代のクリエーターが、もしも、アイディアにつまることなどあったとしたら、この作品をみるべきだ。なんらかのヒントになってくれるに違いない。



さらに、面白かったのは、最終回。この回は、いきなり白黒となったのだ。

おそらくこれは、エヴァテレビ版の第25話、第26話と同様に監督・庵野秀明の時間的都合によるのであろうが、それでも画面の迫力は、カラーと遜色もなく、もしかしたら、それ以上であり、あるいは、黒沢映画のオマージュではないかと勘ぐらせるくらいの迫力であった。



要するに、僕らが観たいのは、予定調和的なキレイなもの、そして、料金とつりあいの取れた商品などではなく、心を揺さ振ってくるような何かだということを、逆にこの最終回を観ていると思い出させてくれる。しかもエヴァとは違って、ちゃんとオチるところオトされているもんだから、さらに感動すらある。



いい作品は、それを観た後に必ず、何かをしたくなったり、何かを表現したくなるものであるが、その意味で、この作品はまごうことなく、名作だと思う。



最後に、この時代、プロダクトプレイスメントなどという考えはなかったのであろう。いたるところに現実世界の商品が登場する。コカコーラ、ケロリン、YKK、JAL、たばこ(LARK)...。しかも、部屋のポスターにはライバル作品でもあるナウシカやトトロのポスターまで。これは80年代のおおらかさなのであろうか。誰もステマなどと言われないほど自然にそこに存在しているのである。



いずれにしても、先ほども述べたが、この作品は、出来るだけ多くの若きクリエーターに観てもらいたい作品である。

それは日本のアニメ界がもしかして進むかもしれなかったもう一つの可能性のカケラが沢山ちりばめられているからである。



まさむね



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2012年4月22日 (日)

「コードギアス 反逆のルルーシュ」 見終わった後のこのやるせない感覚は一体、何だ。

「コードギアス 反逆のルルーシュ」第1期25話を駆け抜けるように観た。

まさに、これは怒涛の作品である。

いつもだったら、それなりに気になった回を見直したり、確認したりもするのだが、この興奮が、冷めやらないうちに、とりあえず、現在の書き留めておきたいのでエントリーにすることにする。

ということで、細かい点で誤解(勘違い)などあるやもしれないことご了解下さい。(って、いつも、結構、誤解しまくったりもしているのだけど... )



さて、このアニメが、まずもって衝撃的なのは、僕らが住んでいるこの日本が植民地にされてしまっているというその設定である。しかも、日本人はイレブンという名前になっており、日本人とすら名乗ることも出来ない。名誉や尊厳はすべてブリタニア人(白人?)に奪われているという。

この屈辱的設定の思いっきりの良さを僕らはどのように受け止めたらいいのだろうか。

さすがに、皇室の存在は誰も一言も触れていないので、元々存在していなかったということになっているに違いないが、あの富士山がグロテスクにも変型されている。



しかも、ここに登場する元日本人(イレブン)がどいつもこいつも、どうしようもない人間ばかりで、しかもそのどうしようもなさが、冷静になって見ると意外にリアリティもあったりするもんだから、そこだけを見ると何ともやるせないアニメである。

例えば、日の丸の鉢巻をした「愛国者」達は、残念ながら、愚直なばかりで、偏狭で頭の古い人々としてしか描かれていないし、一般大衆は、卑屈で、依存心が強く、現実を変革しようとしないばかりか、その多くがリフレインという麻薬で過去の最も楽しかった記憶にすがるだけの「動物」になっている。

そして、物語の中で一応の人格を与えられている「黒の騎士団」のメンバーである扇要や玉城真一郎にしても、一方は優柔不断でお人よしだし、一方は能力が低い割りに権力欲旺盛といったような、主人公格の人物に比べれば取るに足りない人物として描かれている。また、愛国者の残党として、唯一マシな藤堂という人物も、ゼロが不在だと、ただの精神主義者と堕して、「防衛線を死守しろ!」と怒鳴るだけの指揮官になってしまう。



ただ、唯一、主人公格の枢木スザクという高校生だけは、カッコもよく能力も優れており、名誉ブリタニア人として扱われているが、日本人にとっての救いは、本当にこの少年だけなのである。



僕が疑問に感じたのは、このアニメは放映時(5年前)に、それなりに人気があったと聞くが、こうした日本人の描かれ方に対しては、不快感を感じる視聴者はどの程度いたのか、あるいはいなかったのかということである。

そして、先ほども少し描いたが、このダメダメな日本人達が、残念ながら、「もし日本が他国に占領されたら」という脳内シュミレーションをしてみたときに、(自分自身の身の処し方も含めて)実は結構、正しく描写されているのではないかという気がしてしまうということが、僕らをして何とも落胆させるのである。

その意味で、気を取り直してみるならば、このアニメは現代日本に対する、痛いほどの警告が含まれているのではないかという評価も出来るような気がした。



一方、主人公のルルーシュの超人的な知能、カッコよさは、群を抜いている。



しかも彼は、偶然に、C.Cと呼ばれる魔女と契約して、相手に対して、絶対に服従を強いるようなギアスと呼ばれる特殊能力を授かるのである。そして、「黒の騎士団」という地下組織のカリスマ的指導者となり、日本をブリタニアの抑圧から解放しようと闘う。



しかし、彼は元々、日本人でなければ、それゆえに、日本の歴史と文化を愛する愛国者でも無い。

実は、彼の本当の願望は、ただ現状を破壊することであることが、徐々に明白になるのである。それゆえに、彼にとっては、日本人が、あるいはブリタニア人が、何人犬死しようと知ったこっちゃない。彼にとっては、日本という国の独立よりも、妹や友人の安否の方が百倍も大事だということが、最終回でわかるのである。



しかしそれでもルルーショが魅力的なのは、彼が実現する彼の願望、つまり、現状を暴力的に破壊するということが、おそらく視聴者の潜在的願望とどこかでリンクするからに違いない。

僕は、いくつもの抵抗感を感じながらも最終的に、ルルーシュの悪魔的な活躍に惹かれてしまう自分が不思議でならない。



それにしても、この観終わった後のモヤモヤ感は一体何なのであろうか。



まさむね



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2012年4月19日 (木)

「天空の城ラピュタ」 ムスカは何故、シータの心をつかめなかったのか

先日の「風の谷のナウシカ」に続き、今日は「天空の城ラピュタ」を観た。こちらも初めてである。



この作品も大抵の日本人は見ているような超有名なアニメであるということは知っていた。それを、今になって初めて観るのだから、僕もどうかしている。

僕は一体、今まで何をやってきたのだろうか、と思わざるを得ない。

おそらく、ほとんどのことは既に語りつくされているだろうとは思うが、それらは無視して、僕なりにこのアニメについて語ってみたいと思う。



あらすじや、登場人物の説明は省かせていただく。



このアニメは、最初から意味ありげなシーンによって始まる。

海賊(空賊?)の襲来を受ける直前の飛行船。部屋には浮かない顔をした少女(以下、シータと記す)が外を見ている。その少女がサングラスをかけた男から片手で食事を差し出され、それを黙って拒絶する。

そんなシーンである。



宮崎アニメにおいて食事というのは特別な意味を持っている。相手からもらった食べ物を食べるということは相手を受け入れたということであり、共に食事をした相手は決して(最終的には)敵とはならない。それは法則のようなものだ。

典型的な例は、「もののけ姫」におけるジコ坊とアシタカの関係である。物語の終盤、アシタカはジコ坊とは一騎打ちになるが、決して殺し合いにはならない。

それは、物語の前半で、二人は食事を共にしているから、というのが僕の説である。



話を「ラピュタ」に戻す。僕が勝手に考えた宮崎アニメにおける食事の法則が正しいのであれば、シータは、このサングラス組に対して、今後、共食しない限り、敵対し続けるに違いない。



さて物語が進み、場面は地上の世界。一人の少年(以下、パズーと記す)が肉団子スープを買い、それを持って帰る途中に、空から降りてくるシータを見つけ、抱きかかえようとする。

しかし、手に持った肉団子スープが邪魔なので、それを一旦、地面に置く。その後すぐに、親方から呼ばれて階下に降りる。シータは置いていくが、肉団子だけは持っていく。そして、その肉団子を、ちゃんと棚の上に置く。



これら一連の肉団子を丁寧に取り扱うパズーのシーンは重要だ。

というのも、先ほどのサングラスが片手でトレーをつかんでいるのに対して、パズーは食べ物を大事にする少年であるということを対比として示しているからだ。

これだけで、サングラスは「悪い奴」、少年は「いい奴」だということが直感的にわかるのである(少々強引かもしれないですが...)。



そして、その後、親方に頼まれて、エレベータの操作をするのだが、おそらくそれは、初めてパズーが任された(多分、憧れの)仕事だったのだろう。彼は本当に楽しそうにその仕事をすることでそれはわかる。

実は宮崎アニメでは、労働というのも食事と並んで大事なモチーフである。子供は仕事をまかされることによって大人になっていくというのは、「魔女の宅急便」のキキ、「千と千尋の神隠し」の千尋にも受け継がれているが、それは暗黙のうちに成長を表しているのである。



次の日の朝、シータはパズーの部屋で目覚める。パズーの吹くトランペットの音で目を覚ます。

二人は屋根の上で鳩に餌を与える。ここで食べ物と鳩を介して、パズーとシータは明らかに、信頼関係を築く。

それは、その直後、シータは親から誰にも見せてはいけないと言われていた飛行石の首飾り(しかも、サングラス、海賊にあれほど狙われていた家宝なのに)を、なんの躊躇も無くパズーに手渡すことでもわかる。



次に出てくる食事のシーンは、二人が海賊と軍隊の追跡から逃れて、地底で二人で朝食を取る場面である。

目玉焼きを半分づつ乗せた食パンを、同じ食べ方で食べる二人。そして1つのリンゴを二つに割って食べる二人。この共食によって二人は完全に結ばれるのだ、多分。



いくつかの場面は飛ばして、場所は城の中。つかまったシータが一人部屋に隔離されている。

そこに先ほどのサングラス組の親玉であるムスカ大佐が部屋にやってくるが、シータはムスカからのプレゼントのドレスや豪華なベッドを拒絶して一人窓の側で丸くなって寝ている。

彼女の行動は徹底している。シータにとって、そういった豪奢なモノは全く意味をなさないのだ。



農村で育った彼女は、日々、農作業をして暮していた。彼女にとって重要なのは自分で働いて、自分で食べることなのである。おそらく、ヤクを飼っているということで、彼女が住んでいる村が決して気候温暖な土地ではないことがわかる。かなり、厳しい生活をしてきているに違いない。

そういえば、画面は戻るが、海賊から逃げている途中、パズーが一旦、シータに蒸気機関車に石炭をくべさせるシーンがあった。

一段落した後、パズーは「僕がやる!」と言うのだが、シータは「いいの、やらせて!」と答えている。このシーンも先ほどのパズーのエレベータ上げと同様、仕事に対する積極的な姿勢が見られる。また、一緒に働くことによって二人のキズナは益々強くなっていることがほのめかされる。と同時に、先ほど触れたパンとリンゴの朝食はこの労働があったからこそ、シータはいただけるのである。



結果論ではあるが、城の中で、ムスカはシータに対して、なにか、肉体労働をさせ、その後、一緒に食事をするべきだったのではないだろうか。ところが、逆に、豪華なモノを与えて心を惹こうとしてしまった。ここに彼の失敗があったと僕は思う。



さて、次に出てくる食事シーンはパズーの家での、海賊達による豪快な酒盛りシーンである。

ここで、ドーラ(海賊一家の母親)の下品で豪快な食事は、それだけで彼女が実は悪い人々ではなかったことを表現されているのだ。

そして、彼女達はパズーをつれて、再度、飛行石奪取に挑もうと、その場所を後にする。

ただし、パズーが海賊と共闘したにもかかわらず、この場面に彼らとの共食シーンがないのは、表面的には、話の流れ上、すぐに出発しなければならないということではあるが、僕はその根底には、パズーがこの食物をいただくだけの労働をまだしていないという事実も抑えておくべきだと考えている。



その後、城からシータを奪還したパズーとドーラ一家は自家製飛行船で、軍隊のゴリアテ(飛行戦艦)を追跡する。

そして、ここからしばらく、飛行船の中のドーラ一家とシータ、パズーとの共働、共食の時間が丁寧に描かれる。この過程を通して、海賊は完全に仲間になったことが表現されるのである。

さて、ここで一つ気になることを記しておきたい。実は、ラピュタというのは、スペイン語で(Laputa)、売春婦という意味だそうだ。それがゆえに、アメリカで公開されたときには、タイトルを変更せざるを得なかったということがWikipediaに書いてあった。

ラピュタという名前は『ガリバー旅行記』に出てくる飛行島の名前から引用されたというのが定説であるが、実は隠れダブルミーニングだったというわけである。

宮崎アニメにおける売春婦といえば、「千と千尋の神隠し」の湯屋=売春宿説が有名であるが、このシーンでもシータが食事を作っている所に、次々と男達がやってくる。これは、いわゆる「飯炊き女[1]」と客との関係を髣髴させる。

そういえば、あの古谷経衡氏もニコニコアニメ夜話第2回放送『天空の城ラピュタ』において、この「天空の城ラピュタ」は宮崎アニメには珍しくエロチックであるという指摘をされていたが、たしかに、シータとパズーは必要以上にスキンシップが多いようにも思える。

もしかしたら、ラピュタ=売春婦説というのは、宮崎駿一流の隠れギミックなのかもしれない。



さて、物語はここから、一気に、舞台を天空の城ラピュタに移す。

ここは、すでに700年前に住人が死に絶え(一部は地上に逃れ)た場所であるという。それにしても、このあたりの描写は本当に美しい。

たった一台、残されたロボットが無機的に動いているだけで、あとは小動物と植物に覆われている飛行島・ラピュタ。それはまるでカンボジアやインドネシアの奥地の遺跡のようだ。



しかし、ここは美しいことは確かであるが、何かが足りない。

そうだ。ここには、このアニメの前半に宮崎駿があれほどこだわって描き続けてきた労働が、そしておそらく食べ物も存在しないのである。

兵隊達はただ、金銀財宝を略奪し、ムスカは、ラピュタ人達が残した超文明に酔いしれる。



しかし、ここはシータにとっては、居続けられるような場所ではなかった。ムスカに一緒にここに住もうと勧められる(つまり求婚される)のであるが、彼女の心は全く動かなかった。

ここには労働の必要が存在しない、つまり、彼女の存在意義が全く見出せない場所だからである。

それゆえに、彼女は、滅びの呪文を唱えてラピュタの機能を再び閉ざしてしまうのだ。この呪文こそが、あの有名な国民的呪文「パルス!」である。

もしかしたら、このアニメにおける最大の疑問、何故、天空の城ラピュタは滅びたのか?の答えは、人々は労働を忘れたからということかもしれない。それが宮崎さんの答えではないかと僕は思う。



その結果、ラピュタ上の文明的部分は全て崩壊し、天空に浮かぶ大きな樹木としてだけ漂うような存在になる。ムスカや兵隊達は死に、シータとパズーとドーラ一家だけが助かる。

つまり、労働を共にし、共に食事をした者達だけが生き残るということである。



最後に、シータはムスカに言った言葉を引用してこのエントリーを終わりにしたいと思う。

どんなに恐ろしい武器を持っても、沢山のカワイそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ。


この土というのは、自然という意味でもあるが、僕は、地に足をつけて生きること、つまり、労働をしてそこから得たものを食べるという人間の基本的な営みのことを言っているようにも思える。

それは、働いてもいないのに、ただ与えられる食事を拒否した、このアニメ冒頭のシータの精神とつながっているからである。



まさむね



[1] 飯炊き女とは、江戸時代、大坂の曽根崎新地などの泊まり茶屋で、酒食の給仕をするとともに遊女を兼ねた女のこと。kotobankより。



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2012年4月17日 (火)

「電脳コイル」 日本民俗的DNAを覚醒させる電脳SF

僕は子供の頃から、神社があると何故か鳥居をくぐってみたくなった。今でもそうだ。



最近は、ただ行くだけではもったいないので、寺社紋を撮影して、Googleマップ上に記録するようにしている。それが、「全国寺社紋地図」である。

また、姉妹ページとして「日本家紋地図」というのも作っている。こちらは、街中で見かけた家紋の記録だ。

おそらく、ほとんどの方には全く興味のない地図であろうが、僕にとってはこの地図を充実させることが、昨今の楽しみの一つになっているのである。



さて、そんな神社の中で僕が特に気なる場所がある。それは、清浄に掃き清められた参道でも、拝殿の前でもない。

神社によって異なるのだが、一般的には、人が出入りする広場が徐々に草むらや竹藪になっていくような、そんな手入れの行き届いていない雑然とした境目の場所が気になって仕方がないのである。

そこは何もない場所、忘れ去られた場所である。しかし、それがゆえに、僕にとっては「何か」の気配のする"濃い場所"なのである。



今日のエントリーでご紹介する「電脳コイル」は、そんな"濃い場所"からの想像力をアニメにしたような作品であった。



舞台は2026年のとある地方都市・大黒市。現実拡張機能を持った「電脳メガネ」と呼ばれるメガネをかけることによって、現実世界と同時に電脳空間を生きる子供達の一夏の話である。

ここでは、子供達はメタバグ集めという遊びに熱中している。

このメタバグは、電脳空間の歪み(異なるバージョンの空間の継ぎ目)に発生する物質で、メタタグの原料となるという。

また、このメタタグは、それを貼ると、結界が作れたり、電脳空間上の生き物を治癒出来たりするというような御札で、メガシ屋と呼ばれる駄菓子屋のような店で換金してもらえる。それゆえに、子供達はこのメタバグ収集に血眼になっているのである。ちなみに、このメタバグ→メタタグ製造は、そのメガシ屋にいる"メガばぁ"という胡散臭いおばあさんだけが行えるのだ。



まぁ、言葉で説明してもわかりにくいかと思うのでこのあたりは、ご覧になっていない方は流して読んでください。

で、僕が言いたいのは、こうしたメタバグ集めやメタタグ使用といった行為はあくまでも子供達が勝手にやっている市当局"非公認"の遊びということである。

実は、メタバグ自体、本来はあってはならない一瞬のバグが形象化したものだからである。それゆえに、市当局ではキュウちゃんやサッチーと呼ばれるバグ修正ソフトによって片っ端からそのメタバグを削除しまくる。子供達はそれらの攻撃をかいくぐってメタバグを集める。この市当局から派遣されたソフトによる子供達の追跡劇は、誰しもが子供の頃に、「ここでは遊んじゃいけない」と言われた空き地で遊び、他人の家の柿の実を取って走り逃げるような、そういった懐かしいスリリングな記憶を思い起こさせる。

この鬼ごっこにいつの間にか夢中になってしまう僕は、もうそれだけで、この「電脳コイル」の世界に洗脳されかけているのかもしれない。



しかし、物語はそんな単純な遊びで済むはずがない。話が進むにつれて、その裏に潜む電脳空間の謎が徐々に明らかになっていくのである。



実は、電脳世界の中にある「古い空間」には、そのメタバグを食べるイリーガルという黒い化け物(コンピュータウィルス)が潜んでいるのだ。さらに、そのイリーガルの他に、ヌルというイリーガルの親玉みたいな存在もいて、人間がそれに触れられると、現実体と電脳体が分離して、向こうの世界に連れて行かれてしまうというでのである。

イリーガルって何だったんだろう。

ずっと考えてた。今までのイリーガルは全部、何かの感情だったんじゃないかって。

「憧れ」とか、「怖い」とか、もう会えなくなってしまった誰かに会いたい、とか・・・。

そういう気持ちや、誰にも知られずに消えていくはずの気持ちを、

あのヌルたちが拾い上げていたとしたら、それがイリーガルなんじゃないかって。


これは、最終話のエンドロール中に一人の少年(ハラケン)がつぶやく言葉である。彼が抱くイリーガル観は、僕が、子供の頃から、神社境内の辺境部という「古い場所」に存在する「何か」に対して抱き続けてきた感覚と非常に近いように思われた。つまり、僕が感じた「何か」というのは、少年が言うような人々の忘れられた気持ちなのではないだろうか?

このアニメは、僕に、そういった、一瞬、ゾッとするような感覚を強引にかぶせてくるのである。



そして、おそらく「電脳コイル」が興味深いのは、まさに、そうした感覚を、電脳空間という近未来テクノロジーによって具現化しているところであろう。



また、この具現化は、おそらく、僕一人の感覚に対するものではない。これは、日本独自の生霊観念の具現化にも他ならないのである。

日本では古来、人間が抱く強い想念は、現世に留まり続け、時に、厄災の原因になるとされてきた。「源氏物語」に出てくる六条御息所による葵上に対する生霊が有名だ。

ちなみに、日本人の行動原理の奥には、この生霊を、出来るだけ発生させない(=負の想念を抱かせない)ための工夫がいくつか見られるが、「空気を読むこと」という作法もその一つである。

このアニメがどこか古風なのは、決して、舞台が古都で、鳥居、神棚、夏祭りなどが頻繁に出てくるからだけではない。電脳的意匠の陰に隠れてはいるが、この物語の根底には、日本的なものが流れているからなのである。



さらに、上記の説を補足するならば、このアニメには、他にも日本の記紀や伝承、民俗社会からインスパイアされたと思うようなギミックが沢山出てくる。

例えば、御札(メタタグ)が、結界を結ぶ道具や外界からの魔の侵入を防ぐツールとして出てきたり、神社が子供達にとって、大人の干渉(サッチーやキュウちゃんからの攻撃)から逃れることの出来る場所、つまり世間的価値観から自由な場所(=無縁な場所)として登場したりするのである。(※ただし、2.0は別だが)

また、イサコという少女が電脳ツールとして使用するモジョ(8匹)はまるで、陰陽師・安倍清明が使役したという「式神」を思い起こさせるし、「古い空間」へ行くために決まった道順を通らなければならないという設定は、「方違え」に着想を得たのかもしれない。あるいは、ヌル(もともとオジジ)が街外れの地蔵塚に現れて、幼児のヤサ子を連れて行く場面は、日本各地に言い伝えられている、「村はずれの隠し神(隠しん坊とも)伝承」を思い起こさせる。

さらに言えば、キョウコという幼児がアッチの異世界で屋台のおじさんにもらった杏飴を口にする直前で捨てることによって、現世に戻ってこられたシーンは、黄泉の国の食べ物を食すとそこの住人になってしまうというイザナギとイザナミの話を下敷きにしていると思われるし、最後、兄・宗助の電脳メガネを壊して彼の野望を打ち砕いた弟・タケルの名前は、そのまま、兄殺し・ヤマトタケルと同じなのだ。そして何よりも、舞台となっている場所自体が、日本国土の氏神とも言うべき大黒(=大国主命)を地名にしているではないか。



もしかしたら、電脳空間というSF的ギミックは、その設定があまりにも自由さを許すがゆえに、逆に普段は古層に眠っている民俗的DNAを覚醒させるのかもしれない。

あるいは、最近僕は、このアニメという表現手段自身が、日本古来の神道や霊の観念を表現するのにとても適しているのではないかとすら考えているのである。まぁ、このあたりに関しては、また別途、考察してみたいと思う。



さて、最後に、この物語は、別の観点から見れば、小学校6年生という、子供から大人になる一瞬の夏の成長物語である、ということも付け加えておきたい。



この間、主人公のヤサコは、恋をして、自分の罪や自己欺瞞に気付き、母の愛を知り、真の友情に目覚める。

孤独だったイサコは、過去の夢と決別し、現実を生きる決心をし、友達を得る。

悪童だったダイチは、お山の大将から引きずり降ろされ、屈辱を味わい、友人を赦すことを覚え、肉体の力をつける。



このアニメはそんな普通の子供達の一瞬を劇的に捉えた秀作である。

固定化されたキャラによる掛け合いというのも悪くはないが、このアニメのような繊細で微妙なキャラクタ表現というのもまた、素晴らしいものである。



まさむね



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