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2012年2月28日 (火)

鹿目まどかの願いとは何だったのか ~中島知子と美樹さやか~

「魔法少女まどか☆マギカ」における鹿目まどかの願いについて再度考えてみた。



改めて言うならば、「魔法少女まどか☆マギカ」とは、普通の少女がその願いを叶えた代償に魔法少女となってしまう物語である。

そして、魔法少女となった彼女達は、魔女といわれる敵と闘うことを宿命として生きざるを得ない。しかも、魔法少女達は、戦いに消耗して、絶望した挙句に魔女になってしまう。つまり、自分達が闘っていた相手は自分達そのものであったということ。魔法少女となるということは、あまりにも過酷な生き方を選択するということでもあったのだ。



そんな少女達を目の当たりにしながら、なかなか魔法少女になることを決めかねていたのが、鹿目まどかである。

しかし、最終回、彼女はついに魔女となることを決心する。そして、彼女の「願い」は、全ての魔法少女が力尽きた後にも魔女にならずに、心安らかな状態となり消滅する(別世界へ転生?)ということであった。

このあたりの仕組みに関しては、僕の理解力では微妙に解らないところもあるのだが、ようするに、まどかの願いとは、「魔法少女が、死後、魔女という怨霊になって現世に厄災をもたらすこともなく、安らかに成仏出来るようなシステムを構築する」というイメージに近い。つまり、その意味でいえば、このアニメは一見、西洋的だがそのベースにある世界観には、実は極めて日本的な(怨霊思想とその対処療法としての浄土宗的な)側面も持っているのである。

そして、最終的には、まどかの願いによって、魔法少女達が、魔女というコミュニケーション不能の怪物となってしまうのではなく、まどか(=神、あるいは擬似的な阿弥陀如来)が、その魂を救い、ケアし続けるような世界システムを再構築するということに行き着く物語、と言い換えてもいいかもしれない。



現実社会におけるコミュニケーションの断絶(ディスコミュニケーション)や、誤解によって生じる残酷さと絶望を描いてきたこの物語(「魔法少女 まどか☆マギカ」における虚しい承認欲求の果てに見た悟り参照)が、最後に、魔法少女の死後の世界ではあるが、絶対的な救いと希望の世界を提示して終わるのだ。



この展開は、エンターテイメントとしては、正解だと思う。恐らく、多くのファンは、まどかによる救済によって、安心感を抱いたに違いないからである。



しかし、全く逆の見方をするならば、まどかが願をかける以前に存在していた魔女という、この世から見れば理解不能な存在だったかもしれないが、もしかしたら、ある意味、究極的に自由な存在を消し去り、死後、どこまで行っても、まどかという神の支配下に留めておくことになってしまった...という逆説的な見方も出来るのではないだろうか。

極端な言い方をするならば、「ワルプルギスの夜」のなんと楽しそうなことか。あの笑い声は、コチラから見れば、不気味そのものではあるが、見方を変えれば、アチラの世界を謳歌している姿にも見えるではないか。



さて、僕が、このようなヒネくれたことを言いたくなったのは、実は、最近、話題になっているオセロの中島知子のことを少し考えたからだ。

失恋→自暴自棄→コミュニケーション不能という中島知子の転落が、美樹さやかが辿った過程と酷似しているではないかと思ったのである。



例えば、先週、「ミヤネ屋」で、中島の転落を評して中尾彬が涙を流しながら(涙を流しているように見せながら)、もう芸能界に戻って来れないだろうな。と言っていた。

しかし、よく考えてみれば、中島は別に犯罪を犯したわけではない。ただ、仕事を辞めて家賃を滞納したという程度の話である。

覚せい剤に手を染めたとか、マネージャーに暴力をふるったというような話とは違うのだ。

それでも、中尾をはじめ多くの関係者をして、絶望的だと思わせるのは、これまでの多くのスキャンダルとは決定的に違い、彼女がコミュニケーション不能な存在となってしまったという点なのである。



つまり、「中島事件」とは、コチラ(芸能界、世間)からしてみれば、アチラに行ってしまった中島(=魔女)は、なんと不気味で、恐ろしく、そして許せない存在なのかということを改めて認識させた事件なのだ。



そして、その許せなさこそ、鹿目まどかが魔女(特に人魚の魔女となってしまった美樹さやか)に抱いた感情と同じではないだろうか。

おそらく、鹿目まどかは、魔法少女の生き方が不憫ゆえに、彼女達が死後、魔女とならないような世界にしたかったのではなく、今まで仲間だった者たちが、突然、コミュニケーション不能な怪物になってしまうことが許せなかったのではないか。



鹿目まどかの願い、つまり、魔女を生み出させない世界を創り出そうとしたということは、極論するならば、全世界をコチラにしてしまおう(理解可能なものとして、共同体の内部に納めよう)ということだったのである。



それは、ある意味で、恐ろしく強い、共同体維持的(現状維持的)発想でもある。

例えば、まどかの願いには、魔法少女達の宿命そのものの改変は含まれていなかったではないか。

つまり、魔法少女達の過酷な闘い→宿命としての死の過程は、無条件に、肯定され続けているのである。



さて、実のところ、僕は、上記の文章を、ももいろクローバーZの「労働賛歌」(さいたまスーパーアリーナ・ライブバージョン)を聴きながら書いていた。



それゆえに、少女達が闘争することの意味、さらに、何故、僕らは彼女達の勇姿を肯定的に見てしまうのか?ということについても、もう少し考えたくなった。



まさむね



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この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2011年12月23日 (金)

橘紋 -桜とは好対象、生命力と長寿の象徴- 井伊直弼、小和田雅子、北島康介...

かつて、平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て右には橘の樹、左には桜の樹があった。
この二本の木は、一般に、右近の橘、左近の桜と対比されたという。

桜はどこか死の匂いがする樹木であるが、一方の橘は、その葉が寒暖の別なく常に生い茂っていることから生命力や長寿の象徴とされた。
戦前、昭和天皇が、「桜が花も葉も散ることから潔く散る武人の象徴となってきたのに対し、常緑樹の橘はいつ見ても変わらないことから永遠を表すのものであり、永遠であるべき文化の勲章としては橘の方が望ましいのではないか」、という趣旨の意見を出し文化勲章のデザインが桜から橘に代わったという逸話がある。

橘紋の分布は全国では9位。桜紋よりも圧倒的に浸透している。
元々、橘という植物は柑橘類で、紀伊半島、四国、九州の海岸に近い山地に自生しているが、橘紋も和歌山県、高知県で3位、奈良県、広島県、宮崎県で4位とやはり橘が自生している地域に広く分布している。
特に、黒岩涙香、幸徳秋水、弘田龍太郎、朝潮など、高知県人の多さが目立つ。

また、歴史上で、橘紋と言えば有名なのは、日蓮である。

彼は、1222年の安房国長狭郡東条郷片海の小湊で誕生。
比叡山で学び、後に「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め立宗宣言し、日蓮宗の開祖となった。
そのため、日蓮宗関係の寺院では、この橘紋を使用するとところが多い。
写真は、芥川龍之介谷崎潤一郎が眠る慈眼寺の寺門の井桁に橘紋を撮影したもの。ちなみに、日蓮宗系の立正佼成会の関連施設である佼成学園の記章にも橘紋が使用されている。

また、奈良飛鳥地方に、聖徳太子生誕の地・橘寺があるが、そこの寺紋も橘紋だ。
そもそも、日本書紀によると、この橘とは、田道間守(たじまもり)という人物が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を求めて持ち帰った種をまいて芽が出てきた植物であった。
そして、その種をまいた地を橘と呼ぶようになっとのこと。
その橘寺には、聖徳太子が乗ったという黒駒像があり、胴に橘紋がついている。

日蓮、山中鹿之助、井伊直弼、黒岩涙香、荒木貞夫、勝新太郎、花形敬、石井紘基、江川卓、橋下徹、北島康介、中川翔子...なんとなく、元気で意志の強い系譜を感じさせる。

さて、橘紋を持つ有名人は以下。




小寺政職 。1517年 - 1582年、 武将。
播磨御着城主・小寺則職の子として誕生。読みは、こでらまさもと。黒田孝高の進言を受け織田信長に従ったが、後に毛利家に呼応して織田家に反旗を翻す。家紋は藤橘巴紋。顔画像はNHK大河ドラマ「黒田勘兵衛」で小寺政職を演じた片岡鶴太郎。


前田玄以 。1539年 - 1602年7月9日、 僧侶・武将・大名。
美濃国出身。前田基光の子。読みは、まえだげんい。比叡山延暦寺に入ったが織田信長に招聘されてその家臣となる。後陽成天皇の聚楽第行幸時は担当奉行として活躍。豊臣政権における五奉行の1人であり、丹波亀山藩の初代藩主。


山中鹿之介 。1545年9月20日 - 1578年8月20日、 武将。
出雲国能義郡に生まれる。尼子氏の家臣。 本姓は源氏。家系は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門である。尼子氏が衰亡していく中、御家再興のため、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという。


山鹿素行 。1622年9月21日 - 1685年10月23日、 儒学者・兵学者。
陸奥国会津出身。読みは、やまがそこう。朱子学を批判し播磨国赤穂藩へ流罪となるが、そこで赤穂藩士の教育を行う。赤穂藩国家老大石内蔵助も門弟の一人となる。主著は『中朝事実』『武家事紀』。その軍学は、後に吉田松陰らに多大な影響を与えた。


銭屋五兵衛 。1774年1月7日 - 1852年12月31日、 海運業者。
加賀国出身。朝倉氏の末裔を称する。両替商のほか醤油醸造・古着商などを手広く営む家系。蝦夷地や択捉島ではロシアと通商するなど密貿易を行い巨万の富を得る。河北潟の干拓・開発工事を請け負うが失敗。結局は獄死し、財産没収・家名断絶された。


井伊直弼 。1815年11月29日 - 1860年3月24日、 大老。
近江国犬上郡出身。第13代彦根藩主・井伊直中の十四男として彦根城で出生。安政の大獄により多数の志士や公卿らを粛清。尊攘派の怨嗟をうけ水戸、薩摩藩浪士により江戸城桜田門付近で暗殺された(桜田門外の変)。画像は菩提寺・豪徳寺にて撮影。


小中村清矩 。1822年1月22日- 1895年10月11日、 日本史学者。
江戸麹町出身。原田家に出生したが、小中村家の養子となる。読みは、こなかむら きよのり。小中村家の出自は石清水八幡宮の神職。明治維新後に、東京大学の講師となり『古事類苑』編纂に従事。家紋は丸に橘紋。画像は、谷中天王寺墓地にて撮影。


福岡孝悌 。1835年3月3日 - 1919年3月7日、 家老、政治家。
土佐国出身。藩士の子弟。読みは、ふくおかたかちか。吉田東洋の影響下、藩政改革、土佐勤王党弾圧を行う。また薩摩藩との間に薩土盟約を締結。五箇条の御誓文の草案作成に関与。家紋は丸に九枚橘の葉(九枚茶の葉)紋。画像は染井霊園の墓所にて。


沖牙太郎 。1848年5月10日 - 1906年5月29日、 技術者・実業家。
安芸国沼田郡新庄村出身。読みは、おききばたろう。実家の農業を嫌い27歳で銀細工師の腕を資本に上京、工部省で電信技術に携わる。我が国で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した。明工舎(沖電気の前身)創業者。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


黒岩涙香 。1862年11月20日 - 1920年10月6日、 作家、報道記者。
土佐国安芸郡川北村出身。読みは、くろいわるいこう(黒い悪い子)。『萬朝報』を創刊。紙名には「よろず重宝」の意味がかけられていた。幸徳秋水内村鑑三高浜虚子らが参画し、一時は最大発行部数は30万部を誇る。画像は総持寺の墓所にて撮影。


宮崎湖処子 。1864年10月20日 - 1922年8月9日、 詩人、小説家。
筑前国下座郡三奈木出身。本名は宮崎八百吉。読みは、みやざきこしょし。徳富蘇峰に認められ民友社に入社。小説『帰省』を刊行。国木田独歩らと詞華集『抒情詩』を編集。代表作は『まぼろし』。家紋は藤輪に菊座橘紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


末永純一郎 。1867年4月6日 - 1913年12月31日、 報道記者。
筑前国出身。父親は旧福岡藩士で、住吉神社神官、国学者、歌人の末永茂世。読みは、すえながじゅんいちろう。陸羯南三宅雪嶺福本日南らが創刊した『日本』新聞の記者となる。また、孫文らの活動を支援。家紋は丸に三つ盛菊座橘紋。


幸徳秋水 。1871年11月5日 - 1911年1月24日、 思想家。
高知県幡多郡中村町に生まれる。本名は幸徳傳次郎。中江兆民の門弟となり黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となる。後に無政府主義に傾き大逆事件(幸徳事件)」において逮捕され翌年に死刑判決を受ける。家紋は紋付姿写真より丸に橘紋と判断。


荒木十畝 。1872年10月5日 - 1944年9月11日、 日本画家。
長崎県大村出身。読みは、あらき じっぽ。本名・朝長悌二郎。象徴主義的作風から、やがて精神性を強く打ち出した優美な絵画世界を構築した。代表作は「秋江水禽図」「せいけん」「黄昏」など。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


小林一三 。1873年1月3日 - 1957年1月25日、 実業家。
山梨県巨摩郡出身。読みは、こばやしいちぞう。阪急電鉄や宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。政治家としても活躍し、商工大臣、国務大臣、戦災復興院総裁を歴任。家紋は丸に橘紋。


本因坊秀哉 。1874年6月24日 - 1940年1月18日、 囲碁の棋士。
東京府出身。本名は田村保寿。読みは、ほんいんぼうしゅうさい。家元本因坊家の21世で終身名人制の最後の名人。法名は日温。引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し選手権制の本因坊戦創設に導く。家紋は三つ葉橘。画像は巣鴨・本妙寺にて撮影。


市村羽左衛門(15代) 。1874年11月5日 - 1945年5月6日、 役者。
東京府出身。本名は市村録太郎。屋号は橘屋。旧福井藩主で幕末には幕府政事総裁職を務めた池田絲とフランス系アメリカ人との混血。当時を代表する美男子でその美貌から花の橘屋と呼ばれた。家紋は根上り橘。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


荒木貞夫 。1877年5月26日 - 1966年11月2日、 陸軍軍人。
東京府多摩郡出身。旧一橋家家臣・荒木貞之助の長男。読みは、あらきさだお。皇道派の重鎮であり昭和初期の青年将校のカリスマ的存在。犬養内閣・斎藤内閣では陸軍大臣を務める。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


武林無想庵 。1880年2月23日 - 1962年3月27日、 小説家。
北海道札幌市出身。本名は磐雄、後に盛一。読みは、たけばやしむそうあん。妻・文子が交際のあった男に発砲される事件で世間の話題となる。代表作は「ピルロニストのやうに」「第十一指の方向へ」。家紋は丸に抱き橘紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


中野正剛 。1886年2月12日 - 1943年10月27日、 政治家。
福岡県出身。父は旧福岡藩士中野泰次郎。読みは、なかのせいごう。東京日日新聞、朝日新聞で政治評論を行う。政治家になってからは東條首相の独裁に反対。倒閣工作を謀った容疑で憲兵に拘束され自殺。家紋は丸に中陰地紙に橘紋。画像は多磨霊園。


柳家小さん(4代) 。1888年4月18日 - 1947年9月30日、 落語家。
東京府出身。本名、大野菊松(後に平山に改姓)。得意ネタは『二十四孝』『ろくろ首』『三軒長屋』。新作落語の創作にも力を入れ、『創作力のない者は、噺家ではない』という言葉を残している。家紋は丸に彦根橘紋。画像は谷中・本寿寺にて撮影。


木村兵太郎 。1888年9月28日 - 1948年12月23日、 陸軍軍人。
東京府出身。終戦直前には軍司令官としてビルマに駐在していたが英軍の進攻を聞くと唐突にラングーン放棄し方面軍の指揮命令系統を大混乱に陥し入れた。最終階級は陸軍大将。終戦後A級戦犯として絞首刑に処された。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


弘田龍太郎 。1892年6月30日 - 1952年11月17日、 作曲家。
高知県安芸市出身。児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると「赤い鳥運動」に参加。北原白秋等と組み多くの童謡を作曲した。代表作は『鯉のぼり』『浜千鳥』『春よこい』『叱られて』など。家紋は丸に橘。画像は谷中・全生庵にて撮影。


井伏鱒二 。1898年2月15日 - 1993年7月10日、 小説家。
広島県福山市加茂町出身。本名は井伏満壽二。読みは、いぶせますじ。『ジョン萬次郎漂流記』で直木賞、『本日休診』で第1回読売文学賞小説賞を受章。主な作品は「山椒魚」「駅前旅館」「黒い雨」。画像は青山・持法寺にて撮影。


永澤邦男 。1899年11月21日 - 1972年4月9日、 法学者、教育家。
宮城県出身。フランス、ベルギーに犯罪学および刑事政策の研究者。慶応義塾塾長を務め、日本私立大学連盟の創立に参画し副会長となる。また、私立学校振興会理事となり、私学振興のため尽力。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


三遊亭圓生(6代) 。1900年9月3日 - 1979年9月3日、 落語家。
大阪市西区出身。本名は山崎松尾。演目数は落語史上最も多かったという。特異演目は『死神』『鰍沢』『らくだ』『淀五郎』等。NHK連続ドラマ『おはなはん』に出演。バカウマという言葉を流行語にする。画像は烏山・永隆寺にて撮影。


高橋掬太郎 。1901年4月25日 - 1970年4月9日、 作詞家。
北海道根室市出身。北海道の国後島で漁師の息子。「酒は涙か溜息か」で作詞家デビュー。その後も、昭和の名曲を数多く手がけた。代表曲は『船頭可愛や』『ここに幸あり』『古城』『足摺岬』等。家紋は丸に橘紋。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


嵐寛寿郎 。1902年12月8日 - 1980年10月21日、 俳優。
京都府京都市木屋町出身。本名は、高橋照一。祖母の経営する料理旅館「葉村屋」に預けられた。戦前映画界の大衆のヒーロー。代表出演作は『鞍馬天狗』『明治天皇と日露大戦争』等。家紋は丸に蟹橘(蝶橘)紋。京都の聖光寺にて撮影。


火野葦平 。1907年1月25日 - 1960年1月24日、 小説家。
福岡県遠賀郡若松町で沖仲仕「玉井組」を営んだ玉井金五郎の長男。本名は玉井勝則。『糞尿譚』で芥川賞を受賞。『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』の「兵隊3部作」はベストセラーとなった。家紋画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に橘紋。


高橋竹山 。1910年6月18日 - 1998年2月5日、 三味線名人。
青森県東津軽郡中平内村小湊生まれ。本名は高橋定蔵。一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者。演歌歌手北島三郎が歌った『風雪ながれ旅』のモデル。高橋家の家紋は丸に橘紋。ただし、自身のマークとして竹輪に根笹紋を使用。


宇治達郎 。1919年11月25日 - 1980年11月27日、 医師。
埼玉県出身。読みは、うじたつお。東大病院の副手の時、オリンパス光学工業技師の杉浦睦夫、深海正治とともに、胃カメラを世界ではじめて完成させた。吉川英治文化賞を受賞した。家紋は丸に橘紋。画像は、さいたま市普門院の墓所にて撮影。


貝谷八百子 。1921年3月15日 - 1991年3月5日、 バレエダンサー。
福岡県大牟田市出身。読みは、かいたにやおこ。東京バレエ団を結成し『白鳥の湖』全幕を日本初演、主役を務めた。日本バレエ協会副会長や、全日本舞踊連合の理事などの要職も務めた。紫綬褒章受賞。家紋は上がり藤に橘紋。画像は多磨霊園にて撮影。


神風正一 。1921年10月19日 - 1990年5月15日、 大相撲解説者。
香川県大川郡三本松町出身。本名は、赤沢正一。読みは、かみかぜしょういち。二所ノ関部屋所属の元大相撲力士。最高位は関脇。引退後、NHKの大相撲中継の解説者となる。文芸評論家・小林秀雄も神風解説のファンだったという。家紋は丸に橘紋。


入野義朗 。1921年11月13日 - 1980年6月23日、 作曲家。
ウラジオストク生まれ。海外の現代音楽を日本の音楽界に紹介することに尽力。代表著作は「シェーンベルクの作曲技法」「十二音音楽とは何か」。死後、入野賞、入野義朗記念賞が設けられた。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


ジョージ川口 。1927年6月15日 - 2003年11月1日、 ドラム奏者。
京都市出身。本名は川口譲二。終戦直後、松本英彦中村八大、小野満と共にバンドビッグ4を結成して活躍。大衆的人気を誇った。越路吹雪のバンドロイヤルポップスオーケストラのドラムとしても活躍。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


花形敬 。1930年 - 1963年9月27日、 ヤクザ、安藤組大幹部。
中学校を自主退学。国士舘中学校では、後の住吉会住吉一家石井会会長・石井福造と番長争いを演じた。安藤組組長・安藤昇に最も可愛がられた。前科7犯、22回の逮捕歴がある。素手喧嘩(ステゴロ)と呼ばれ喧嘩に武器は一切持たない主義であったという。


三橋美智也 。1930年11月10日 - 1996年1月8日、 演歌歌手。
北海道函館市近郊の上磯町出身。本名は北沢美智也。春日八郎村田英雄らとともに戦後日本を代表する流行歌手。代表曲は「古城」「哀愁列車」など多数。三橋美智也の家紋は丸に三つ引両紋だが、小平霊園の北沢美智也の墓には丸に橘紋がある。


勝新太郎 。1931年11月29日 - 1997年6月21日、 俳優。
東京府出身。長唄三味線の杵屋勝東治の次男。本名は、奥村利夫。妻は二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映の女優・中村玉緒。兄は若山富三郎。代表作は『兵隊やくざ』『座頭市』『悪名』等。家紋は菊座橘。画像は蓮乗寺にて撮影。


池坊専永 。1933年7月21日 - 、 華道家。
京都出身。華道家元四十四世池坊専威の長男。妻は衆議院議員の池坊保子。元々池坊の坊名は聖徳太子が水浴したという池にちなむという。国際科学技術博覧会で「いけばなと着物の交響詩」で舞台用の超大作を制作。画像は鎌倉・東慶寺にて撮影。


江副浩正 。1936年6月12日 - 2013年2月8日、 実業家。
大阪府大阪市出身。読みは、えぞえひろまさ。日本の実業家。特例財団法人江副育英会理事長。株式会社リクルートの創業者。「リクルート事件」の贈賄側人物として知られ、執行猶予付き有罪判決を受けた。家紋は、割り橘紋。


マシオ駒 。1940年5月18日 - 1976年3月10日、 プロレスラー。
東京市世田谷区出身。本名は駒秀雄。早稲田実業高校時代は野球部に所属(同期に王貞治)。1972年、ジャイアント馬場が日本プロレスを離脱すると馬場に合流し、全日本プロレスの立ち上げに参加。若手の指導を行うようになる。家紋は丸に橘紋。


石井紘基 。1940年11月6日 - 2002年10月25日、 政治家。
東京市世田谷区出身。菅直人田英夫らと社会民主連合を結成。羽田内閣において総務政務次官に就任。自由連合や新党さきがけを経て民主党の結党に参加。国会の爆弾発言男と呼ばれていたが、世田谷区の自宅駐車場で刺殺された。家紋は丸に橘紋


梅若万三郎(3世) 。1941年 - 、 シテ方観世流能楽師。
梅若万三郎 (2世)の長男として出生。本名万紀夫。1997年、大阪文化祭本賞受賞。2001年、三世梅若万三郎を襲名。第一回日本能楽団欧州公演に加わって以来、積極的に海外公演を行っている。家紋は丸に橘紋。画像は品川・海晏寺の梅若家墓所にて撮影。


魁傑將晃 。1948年2月16日 - 、 元大相撲力士。
山口県岩国市に生まれる。本名は西森輝門。日本大学文理学部中退。最高位は大関。引退後は放駒を襲名。日本相撲協会理事長(第11代)。幕内通算成績:367勝304敗4休 勝率.547。幕内最高優勝2回。家紋は丸に橘紋。


山本譲二 。1950年2月1日 -、 演歌歌手。
山口県下関市出身。所属事務所はジョージ・プロモーション。北島三郎ファミリーの旗頭的存在。『みちのくひとり旅』で第23回日本レコード大賞ロング・セラー賞を受賞、さらにNHK紅白歌合戦の初出場も果たした。家紋は丸に橘紋。


三遊亭圓楽(6代) 。1950年2月8日 - 、 落語家。
東京都墨田区出身。本名は會泰通。円楽一門会所属。還暦を迎える2010年2月に師匠の名跡である6代目三遊亭圓楽を襲名。1977年8月から「笑点」の大喜利に出演している。家紋は、圓楽一門の定紋である三ツ組橘。(六代目三遊亭圓生と同じ形)


江川卓 。1955年5月25日 - 、 元プロ野球選手、野球解説者。
福島県いわき市生まれ、栃木県小山市育ち。作新学院高等学校のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回を記録。六大学野球では、法政大学で、通算47勝は史上2位、完封数17はリーグ記録。プロでは巨人所属で1981年に投手五冠に輝く。


朝潮太郎(4代) 。1955年12月9日 - 、 元大相撲力士。
高知県安芸郡出身。本名は 長岡末弘。近畿大学で2年連続してアマチュア横綱のタイトルを獲得。高砂部屋に入門。最高位は大関。北の湖に強かった。531勝371敗33休。幕内最高優勝1回。現在は7代目高砂親方として横綱・朝青龍を育てた。


夏目雅子 。1957年12月17日 - 1985年9月11日、 女優。
東京都出身。六本木の輸入雑貨商・亀甲屋の娘。旧姓は小幡。本名は、西山雅子。代表出演作はドラマ『西遊記』、映画『瀬戸内少年野球団』など。27歳の若さで突然亡くなる。家紋は丸に橘紋。実家の小幡家の家紋は亀甲に小の文字紋。


徳仁親王妃雅子 。1963年12月9日 - 、 皇太子徳仁親王の妃。
東京都出身。外務省職員の小和田恆・優美子夫妻の長女として外務省職員を経て、1993年6月9日、皇太子徳仁親王との結婚に伴い、皇太子妃となる。2001年12月1日、敬宮愛子内親王を出産。日本赤十字社名誉副総裁を務める。家紋は丸に橘紋。


橋下徹 。1969年6月29日 - 、 政治家、タレント。
東京都渋谷区幡ヶ谷で幼少期を過ごす。テレビ番組「行列のできる法律相談所」でタレント弁護士としての地位を獲得。知名度を利用し政治家に転進。大阪府知事(民選第17代)、大阪市長(第19代)を務める。日本維新の会代表。家紋は丸に橘紋。


友近 。1973年8月2日 - 、 お笑い芸人。
愛媛県松山市出身。本名は、友近由紀子。吉本興業所属。桜田淳子、藤原紀香、工藤静香など、多数のものまねネタを持っている。家紋の丸に橘紋は2012年8月放送の『やりすぎコージー・都市伝説特集』(テレビ東京)にて自分の家紋について告白した。


琴光喜啓司 。1976年4月11日 - 、 元大相撲力士。
愛知県岡崎市出身。本名は田宮啓司。読みは、ことみつきけいじ。佐渡ケ嶽部屋所属。最高位は東大関。通算成績:571勝367敗50休。幕内最高優勝:1回。2010年野球賭博事件で解雇される。敬宮愛子内親王のお気に入り力士としても有名だった。


上松範康 。1978年3月1日 - 、 作曲家、編曲家。
長野県南安曇郡穂高町出身。読みは、あげまつのりやす。数多くのアーティスト、アニメ・ゲーム関連作品に楽曲を提供。水樹奈々の19thシングル『深愛』でウィークリーチャート2位を記録。家紋は丸に橘紋。画像はTwitterで公開した自家墓所の家紋。


北島康介 。1982年9月22日 - 、 競泳選手。
東京都荒川区出身。実家は西日暮里・道灌山通りの精肉店「肉のきたじま」を経営。アテネ五輪北京五輪100m平泳ぎ、200m平泳ぎの金メダリスト。また、100m及び200m平泳ぎの元世界記録保持者。画像は実家・北島商店名物のメンチカツサンドの橘紋。


中川翔子 。1985年5月5日 - 、 女性アイドル、マルチタレント。
東京都中野区出身。本名:中川しょうこ。2002年にミス週刊少年マガジンに選抜。日本武道館ワンマンライブ「中川翔子 超貪欲☆まつり IN 日本武道館」を開催。家紋は丸に橘紋。画像は父親・中川勝彦の墓所(谷中・常在寺)にて撮影。


豪栄道豪太郎 。1986年4月6日 - 、 大相撲力士。
大阪府寝屋川市出身。本名は澤井豪太郎。高校では高校横綱、世界ジュニア相撲選手権大会無差別級優勝など11個の個人タイトルを獲得。小結・両国の境川部屋に入門。高校卒業を待たずに2005年1月場所に初土俵を踏む。最高位は関脇。家紋は丸に橘。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





2011年12月13日 (火)

ももいろクローバーZの使命

5月に「ももいろクローバーのことばかり考えている」という記事を投稿してからも、相変わらずももいろクローバーZのことばかり考えています。



ももいろクローバーZは幾多の困難を乗り越えて目覚しい成長を遂げました。

百田夏菜子(赤)は声とまなざしにますます説得力を増し、玉井詩織(黄)はぐんぐん大きくうるわしくなり、佐々木彩夏(ピンク)はプロとしてたのもしくなり、有安杏果(緑)は歌声にソウル(魂)が宿り、高城れに(紫)は予測不能になりました。



2011年のももいろクローバーZの活動はドキュメンタリーのまとめられるべきだと思いますよ。

10年後ぐらいにドキュメンタリーで振り返りたいです。もっとも10年後のももいろクローバーZを想像するのは怖いですが‥‥。



2011年3月11日、大地震、大津波、そして福島の原子力発電所の事故のあと、東北・関東の広い範囲にわたって計画停電が実施されました。

そのころ、1年以上前に発売されたももいろクローバーのシングル曲『未来へススメ!』がYoutubeで「ヤシマ作戦応援ソング」というタイトルをつけられて多くの人に何度も聞かれる事態が起こりました。「ヤシマ作戦」とはアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に由来する、ネットの住人たちによる、節電協力を呼びかける運動です。

星屑の輝きで暗い闇照らして行ける

迷わずに進めばいい 風を切り 光の矢を放て!


どんなどんな困難でも

きっときっと立ち向かえる

一人じゃ挫けそうでも助け合えば大丈夫!

(未来へススメ!)


「未来へススメ!」は、もとの歌の趣旨から少々ずれて、今では復興応援ソングにしか聞こえません。

4月10日の早見あかりがグループから脱退した重要なコンサート「中野サンプラザ大会 ももクロ春の一大事 ~眩しさの中に君がいた~」では、「 強いニッポン、未来へススメ!」と書かれたフラッグが掲げられました。



そしてその日、グループ名に「Z」がつきました。

グループ名称が変わったのだから、たぶんグループの意味(目的)だってちょっと変わったんだと思います。



5月14日、ももクロは急遽被災地である仙台でフリーライブを敢行しました。

そこで初披露された『Z伝説~終わりなき革命~』で、ももいろクローバーZの「使命」がとうとう公にされました。

わたしたち泣いている人に何ができるだろう

それは力いっぱい歌って踊ること

よっしゃやんぜー!

われらはアイドル! 週末ヒロインももクロ!!

こぶしに握れ! 涙ぶちのめすぜ

(Z伝説~終わりなき革命~)


歌でみんなを笑顔にすること、悲しみと戦うこと、幸福にすること、つまり日本を救うことがももいろクローバーZの使命なのです。この少女たちはヒロイン(戦士)なのです。

戦隊ヒーローのパロディでふざけている風? 笑ってもらうことも重要な使命です。

彼女たちは本気でみんなの笑顔のために戦っています。それはもう必死です。7月3日 ZeppTokyoでの1日で3部公演、合計6時間を全力で歌い踊りまくった壮絶な姿を見るとそう思わずにはいられません。

参考:山里亮太が語るももクロZeppTokyo 7/3ドキュメント



8月27日に発売されたファーストアルバム『バトルアンドロマンス』の最後に収められたボーナストラック『ももクロのニッポン万歳!』で、日本中をジェット機で飛び回るぜ!と彼女たちは宣言します。その歌の中で彼女たちが最後に赴くのは東北です。



「ももクロのニッポン万歳!」の東北パートをゼッケンに書いて、流山ロードレースに参加しました。

(僕は10月に「ももクロのニッポン万歳!」の東北パートの歌詞をゼッケンに書いて、流山ロードレース大会に参加しました。)



日本ヤバイです。ももクロちゃんなんとかしてください!

ももクロはそんな大役をひょいとひょいとひょひょいと引き受けてくれて、夏、秋、冬と、本当に日本中を飛び回りました。

そして歌のメッセージ、体力を使い切る全力のライブ、テレビやラジオなどのメディアでのはつらつとした言動、そして日々成長する姿を見せることによって、僕たちを感動させ勇気付けてくれました。



2011年11月23日に、ももいろクローバーZの新しいシングルCD『労働讃歌』が発売されました。

労働のプライドを今こそ歌おうぜ!

全員で叫べば勝てるかもしれないぜ!

(労働讃歌)


ももクロは宣言します。これから歌うのは「労働」の歌であり、そして戦いなのです。

今や運命は 我らにかかった

上の連中は サッサと逃げちまった

(労働讃歌)


僕は福島原発で冷温停止目指して今なお戦い続けている労働者たちに思いを馳せました。まさに今日本の運命は彼らにかかっています。彼らの過酷な戦いはあの日からまだ続いているのです。

宇宙弾丸列車 作るくらい大仕事、

地球片隅で目立たない戦い

勝ち目はあるのかって?見くびられてんじゃないの?

やることやるだけさ 労働For You

(労働讃歌)


震災以後、僕たちは生き方、考え方を見つめ直さずにはいられません。

今僕たちにできることは何だろう。

まずは目の前の自分の仕事を、家族や恋人や友人のために日々全うすることなのではないでしょうか。こつこつと。

働くと

働くと

君に会う時うれしいし

働くと

働くと

君の笑顔が見れるし


「労働For You」。それが「強い日本」を「未来へススメ」る方法かもしれません。



そしてももクロも働きます。ヒロインの仕事を全うします。

働こう

働こう

ビッカビカに輝け!

働こう

働こう

必ず 誰かが 助かってくれてる

それがプライド

労働For You あ~は~ん


『労働讃歌』は彼女たちが自分の使命を歌った歌でもあるのです。

僕たちは少女たちにたいへんな重荷を背負わせてしまいました。

せめて、彼女たちが自分のプライドを実感し、今の活動が彼女たち自身の糧になることを願ってやみません。

労働の喜びを今こそ歌おうぜ!

全員で叫べば見えるかも知れないぜ!

プライドとハートでガッツリ労働For You & Myself


じつに



関連エントリー:2011.05.11 ももいろクローバーのことばかり考えている

2011年11月23日 (水)

談志さんで思い出すこと

落語家の立川談志さんが亡くなりましたね。

75歳だそうです。



談志さんが、凄かったのは、常に現在を語り続けていたことだと思います。落語家さんはどうしても齢をとってくると「芸の道」という「あの世」に入って出てこなくなってしまいます。

勿論、談志さんだって、他の落語家さんと同様に、一方の顔で、芸の道に励んでいたのでしょうが、その一方で、常に、現世に存在し続けていました。これは、出来るようでいて、他の落語家さんにはなかなか出来ないことでしょうね。現在を語り続けるといことは、常に闘い続けるということと同義だからです。



そういえば、今からもう、20年位も前の話ですが、談志さんがあるプロレス雑誌のインタビューに答えているという記事がありました。今、思うとなんで、プロレス?って思うかもしれないですが、活気のあるジャンルというものは何でも巻き込んでしまう、そんな引力があるもので、その当時のプロレスにはそんなパワーがあったんですね。

そのインタビュー自体、結局はプロレスとは全く関係の無い話をして終わったのですが、その中で、談志さんははっきりと、「だまされちゃいけないよ。学校というものは教師のためにある、国会というものは国会議員のためにある。それを生徒や、国民のためにあると思うから話がわからなくなるんだ。」というようなことを語っていました。



2011年の現在から思うと、それは、ある意味、当たり前にも聞こえるのですが、当時は新鮮でしたね。ある時代の天才は、次の時代の常識を生み出すというのはまさに、談志さんのためにある言葉だと思いましたね。



また、談志さんは自らの言葉に説得力を持たせるために、必ずお客に対して、上のレベルで話さなければならないというようなことを語っているのも聞いたことがあります。

つまり、どんなに間違っていることを言っていたとしても、絶対に上から目線で話をすれば、他人を説得できると...

確かに、その自信に満ち溢れた話方は談志さん独特のものでした。

談志さんはテレビでこんな話をしていたことも覚えています。



ゴルフってのは身体に悪いよね!何故って、普通のスポーツは準備体操から始まって、段々本気を出して行くもんだけど、ゴルフは、最初のスィングが一番、思い切って打ち、段々、アイアンだとか、パターとかセコくなっていく。だから、絶対に身体に言い訳がない...



よく考えれば、どうでもいいようなネタなのですが、それが談志さんの自信に満ちた口から出てくると、説得力を持ってしまう、当時、僕は本当に笑いました。

しかし、後日、思い出してみると、別におかしくもない。僕は、その時、逆に、これこそが、談志さんの芸の凄さなんだと思ったものですね。



よく言われる話ですが、戦後の芸能界の歴史というものは、手の届かないスーパースターから、身近なアイドルへ、芸人へという流れがありますよね。インターネットの時代で、さらにそういう芸能人と一般人との「平等化」が進む中で、談志さんは、その流れに逆らうような存在だったと思います。

でも、もしかしたら、晩年は、自分の言葉が段々、人々に伝わらなくなってきたということを肌で感じていたのかもしれません。寄席で居眠りをしていた客に怒って、高座を降りたなんていうことがありましたが、悔しかったんでしょうね。



今後、談志さんの遺伝子を受け継いだ人々、特に、最近、微妙に影が薄くなっている爆笑問題とかに、東京の芸人として頑張ってほしいと思います。



今、有名人の家紋の立川談志さんの項目に死亡年月日を入れて更新いたました。

もしよろしかったら、コチラにも寄って行ってくださいね。



まさむね

2011年5月11日 (水)

ももいろクローバーのことばかり考えている

最近ももいろクローバーのことばかり考えている(4月10日にももいろクローバーZに改名)。
残念ながらまだ生の現場は体験していないが、毎日Youtubeやニコニコ動画でももクロの動画を探したり、DVDを見直したりしている。
DVDとはももいろクリスマス in 日本青年館~脱皮:脱皮~。2010年12月24日(クリスマスイブ!)に開催されたももいろクローバー初の単独ホール公演を収めたものだ。
以下、そのDVDの内容を紹介しながら、ももいろクローバーの魅力のほんの一部を語りたい。

1曲目は走れ!。2010年5月5日に発売された、ももいろクローバーの代表的なCD「行くぜっ!怪盗少女」のカップリング曲だ。



白い幕の向こう側で歌う6人の姿のシルエットが見える。
全員のユニゾンによるリフレインから始まる。
笑顔が止まらない! 踊るココロ止まらない!
動き出すよ 君の元へ 走れ! 走れ! 走れ!

軽快なテンポに急きたてられ、何かをしよう!という衝動が湧き起こってくる曲だ。

おかしい。音痴な声が混じっている。
白い幕が落ちる。6人が姿を現し、進み出る。
テンションの高いエレクトロニカなサウンドが響き渡り、観衆がリズムに乗って叫ぶ。

最初のソロは高城れにからだ。シンボルカラーは紫。最年長の高校2年生、17歳(以下年齢はすべて公演当時)。
れに、歌えてない。音がとれていない。音痴の犯人は彼女だった。
どうした!トラブルか!
れにの顔を見ると、なんと泣いている‥‥。
なぜいきなりオープニングから泣いてしまっているのか。歌えないほどとは、並大抵の泣き方ではない。

ボーナスDVDに開演直前の彼女たちの様子が収められている。実はすでに全員泣いてしまっていたのだ。もうこのままステージに向かうしかない。
「泣いてもいいんだよね?」「問題ないよ。」というやりとりがあった。

2008年に結成し、代々木公園でのストリートライブから活動を初め、全国の電気店やショッピングモールを回り、地道なライブを積み重ねて実力をつけ、ファンを増やしていったももいろクローバーは、この日にとうとう初の単独ホール公演にたどり着いた。ここに1300人もファンが集まってくれた。
感激と感謝と緊張が彼女たちの感情を揺さぶって、涙が止まらないのだ。そのままの状態で、全員あの白い幕の後ろで歌い出していたのだ。
最年長でありながら精神的には不安定さが垣間見える不思議少女高城れには、声に感情が現れやすい。
Youtubeに、2009年11月とある小さな会場でシングルCD「未来へススメ!」がオリコンデイリーランキングで初めてベストテンに入った知らせを受けた(6位)彼女たちの様子を収めた動画があった。感激のあまり高城れにが激しく泣きじゃくり、もはやちょっと普通でないような状態だ。

「走れ!」のソロパートでの高城れにの緊急事態に気づいたファンたちが、彼女を支えなければならない、といっせいに叫んだ。
「れにちゃーん!」

もうみんな泣いていた。それを知ったファンたちも、そして後日DVDで見ている僕たちも。

次のソロは佐々木彩夏(あやか)。あーりん。シンボルカラーはピンク。目から涙があふれている。でもしっかり笑顔だ。
ファンたちは声を合わせて繰り返し叫ぶ。
「あーりん!あーりん!あーりん!あーりん!」
あーりんは無事に歌えた。

あーりんはグループ最年少の中学2年生の14歳だ。「ももクロのアイドル」と自称している。
アイドルグループになぜ「アイドル」がいるのか。メタアイドルなのだ。
アイドルアイドルして、表情や口調に媚をたっぷり含ませる。計算している。
計算できるのは、大人びているから。
早見あかりを除けば、いちばん精神的に安定感があるように見受けられる。イベントやライブで暴走しがちなメンバーたちを冷静に観察してペースを保つ役割を自認しているようだ。次期クールビューティ候補?

3人目のソロは百田夏菜子(ももた かなこ)。シンボルカラーは赤。高校1年生。16歳。リーダーだ。もちろん目に涙はあふれている。だが、力強い歌声。
ファンたちも支える。
「かなこー↑↑かなこー↑↑」
「かな」のあと「こ」を低いところからずりあげて伸ばす。おなじみのコール。デビューからずっとファンたちが叫んでくれた、いつものコール。これはきつい。かなこはうれしさのあまり、号泣しそうになる。でも耐えてソロパートを歌い切った。

そしてリフレイン。
腕を強く振りながら歌う。
高城れにだけ、動きが激しすぎて同じ振り付けに見えない。「紫が激しい」。これもももいろクローバーの見所。

続いて間奏。
リーダーのかなこが叫ぶ。
「みんなー!ついに幕が開けたよ!」
そしてサブリーダーの早見あかりが叫ぶ。
「楽しんでいきますよー!」
喉から搾り出したような絶叫。激情のこもった泣き声まじり。

早見あかりは高校1年生の15歳。シンボルカラーは青。ステージやイベント出演ではしばしばMCも担当。「クールビューティ」を自称して、冷静に舞台を仕切る。彫りの深い端正な顔立ち。身長も高くてまるでモデルか女優さん。日本のアイドルグループの中ではちょっと浮いた存在かも。
彼女はこのコンサートの翌月にグループからの脱退を宣言する。そして、2011年4月10日のコンサートを最後に脱退した。クリスマスコンサートの時点では、まだだれもこの未来を知らない。メンバーもファンたちも。
早見あかり自身はクリスマスコンサートの時点でもう決意していたのだろうか。
僕は未来を知ってからDVDを見たことになる。
間奏でのあかりの絶叫に、悲壮な決意を感じてしまった。

間奏のあとは有安杏果(ありやす ももか)のソロ。高校1年生15歳。シンボルカラーは緑。「小さな巨人」を自称している。さすが素晴らしい安定感。豊かな声量の独特なハスキーボイスと力強いハイトーンをもっている。しばしばレパートリーの最大の難所を任される。

1980年代に活躍したアメリカの女性バンド、バングルスのスザンナ・ホフスを連想するような、個性的で魅力的な声だ。
バングルスではスザンナがリードボーカルをとり、ほかのメンバーがコーラスで支える。個性的な声をグループの武器にするなら当然この布陣を採用するはず。黒人女性グループ、ザ・スプリームスも個性的な声のダイアナ・ロスをメインにしてヒットを飛ばした。
ももかの声とテクニックを生かすなら、彼女をセンターにしたグループにすべきだろう。
だがそうしないのが、ももクロの凄さ。基本の布陣はかなこ(赤)のセンター。そして1曲の中で次々とポジションチェンジしてソロパートを受け渡す。ももかの順番を待って圧倒されるのが楽しみになる。
ちなみにバングルスもスプリームスも個性的な声のリードシンガーはその後ソロとして独立してしまった。

かなこの2回目のソロに続いて高城れにの2回目のソロ。彼女の持ち味であるやさしさのこもった美しい歌声を取り戻すことができた。

続くソロは玉井詩織(たまい しおり)。中学3年生、15歳。シンボルカラーは黄。「みんなの妹」を自称している。年齢はあーりんよりも上だが、泣き虫で怖がりだという証言がいろんな資料で見受けられる。今も明らかに涙をぼろぼろと流しながら歌っている。

風貌や口調に幼さが混じっているしおりんはアイドルの「かわいさ」を完全に体現している。あーりんのようなメタレベルではないしおりんの本物の「かわいさ」は、ももクロの武器だ。だが「妹」らしからぬ長い手足と高い身体能力も有する。アクロバットまがいの振り付けもこなせる。「しおりん!」という声援に助けられて歌いきった。

アクロバットまがいの振り付けがももクロを有名にした。
行くぜっ!怪盗少女の間奏で前転側転を繰り出し、きわめつけはかなこ(赤)のエビ反りジャンプ! ジャンプしながら腕と頭を後方に反り返し、同時に両足を後方に蹴り上げる。横からみるとCの字?いやαだ。頭よりも足が上に行っている! しかも異常に高く跳んでいる
新体操経験のあるかなこを筆頭に全員類まれな身体能力を有している超アイドルグループなのだ、ももクロは。
もっともこの「走れ!」にはアクロバティックな振り付けは与えられていない。強い思いを全身で表現しようとするような振り付けだ。

この歌の一人称は「僕」。胸に秘めている「キミ」への思いを伝えようと決意している歌だ。
動き出して 僕の体 走れ!走れ!走れ!

自分を励まし、勇気を振り絞り、自分を行動へと駆り立てる瞬間の心の動きが歌われている。
くじけそうになったとき、僕はこの歌を口ずさむつもりだ、

リフレインのあと、別の展開に進む。
3人と3人、ふたつのグループに分かれる。
ももか(緑)、あーりん(ピンク)、しおりん(黄色)の3人。
あかり(青)、れに(紫)、かなこ(赤)の3人。
3人ずつ交互に客席に向かって歩み寄りながら、1フレーズずつ歌う。花いちもんめスタイル。
まるでラップのような畳みかける早口。
ももかグループの甲高い声に対して、あかりグループは1オクターブ低い声。
あかりの声域はとくにもともと低く、ももかのハイトーンと対照的。
多くのレパートリーでは、ラップパートでその声の魅力が生かされている。
この畳み掛け合戦で決意に揺らぎがあることが表現される。
一度きりの
人生だから
キミの前じゃ素直でいたいんだ

そのあとリズムが消え、静けさの中でかなこ(赤)が歌い上げる。
それでも答えは出せないよ 少しの言葉出せないよ
「君が好き」 それだけで世界を変える?変わる?

世界は変わるか? かなこ(赤)はこう問いかける。
目は真正面を力強く見つめている。この目は勝負を挑んでいるみたいだ。

ももクロは戦っている。アイドル戦国時代を。
今は、AKB48を筆頭に無数のアイドルグループたちが群雄割拠している時代なのだそうだ。
ももクロは「天下統一する」と宣言して、路上ライブからのし上がった。
2009年の夏は、ワゴン車で毎日全国を旅して、イベントをこなした。
車中泊もした。あのときは家に帰れなくて本当につらかったと述懐するほどだ。
K1グランプリの幕間にリングで歌とダンスを披露したり、ぜんぜん畑ちがいのロックバンドとの対バンイベントに出たこともある。
そんな試練も乗り越えた。
でも本当の敵はだれ?
それは試練を設定している所属事務所なのではないか。大人たちなのではないか? 彼らが「逆境」を用意して、それを乗り越え成長する姿を見たがっているのだ。
TBSラジオ「小島慶子のキラキラ」で吉田豪氏が分析していた。
彼によると、ももクロの所属事務所スターダストプロモーションのマネージャー川上氏は、アイドルのことは分からないがプロレスはわかる、とプロレスの興行の手法をアイドルのプロモーションに取り入れたのだそうだ。団体や選手間の抗争のようにアイドルグループ間の抗争を設定し、勝利していくストーリー。

その設定に翻弄されて辛い目にあっているのかもしれない。だが、ももクロはか弱き犠牲者ではない。だって「アイドル」は彼女たち自身が望んだ道なのだから。
「逆境こそがチャンスだぜ 雨も嵐も さあ来い さあ来い 体を張りまくり」とももクロは「ピンキージョーンズ」で歌っている。
どの曲にも全力を尽くし、体力の限界まで強く大きく跳ねて回って、時にはノンストップで何曲も踊り歌う。息が上がりながらも歌う。
でも笑う。ぜいぜいしながら笑う。泣きながらも笑う。
自分が望んだ道だ。試練ならすべて引き受けてやる。つらい? だからこそ楽しい。
「君が好き」 それだけで世界を変える?変わる?

そう世界は変わるのだ。
あらゆる問いに「YES」と答える。
それがももクロだ!

音楽が上に移調する。レベルアップ? 何度も繰り返されたあのリフレインが最後に全員で歌われる。
笑顔が止まらない! 踊るココロ止まらない!
動き出すよ 君の元へ 走れ!走れ!走れ!
今はまだ勇気が足りない! 少しのきっかけが足りない!
動き出して 僕の体 走れ!走れ!走れ!

じつに


関連エントリー:2011.12.13 ももいろクローバーZの使命

2011年2月14日 (月)

さかなクンに戦後教育の一つの良き完成形を見る

ちょっと前(1ヵ月半位前)、気になっていたことで書きそびれたことをここに書いておきたいと思う。

それは、さかなクンのことである。

ご存知の通り、さかなクンは、テレビチャンピオンの「魚通選手権」の優勝者として世に出てきたいわゆるオタクである。

いつもトラフグの被り物をしていて話し方がユニークで大変、好感の持てる人物である。



そのさかなクンが、秋田県の田沢湖で絶滅していたと思われていたクニマスが、西湖に生息していたという事実を発見するのに大きく貢献したというニュースが昨年の暮にあったのである。(詳しくは、Wikipediaをご覧ください。)

しかしもそれだけではない、この発見に対して、天皇陛下が、その誕生日の前の記者会見で触れたのである。しかも、さかなクンの名前を出しての異例の褒め方であった。

おそらく、彼にしても大喜びだったに違いない。自分の好きなことをした延長で大発見をして、しかも、天皇陛下から褒められたのだから、これ以上のことはないにちがいないと僕は思った。



さて、僕はさかなクンを見ていると、戦後、特にここ十数年の日本における教育が生み出した一つの完成形であるように感じるのだ。

彼は、決して、枠にはまっていない、個性的である。自分の好きなことを持って、徹底的にそれを極める。大学受験には失敗するが、それでもあきらめずに、日本の野山や海を自分の興味のおもむくままに歩き回り、魚の研究にいそしむ。そして、テレビで有名になるほどの知識を得て、魚の研究、子供達への教育、そして環境問題にとりくむ。

さらに言えば、彼には魚の研究以外に、欲望というものをそれほど感じられない、いわゆる草食系の代表のような雰囲気を持っている。

しかも、彼の評判をさらに高めたのが、彼がいじめられている子供達、そしていじめをしてしまう子供達に対して書いた一編の文章だ。(





まさむね

2010年12月20日 (月)

海老蔵にとってはもう『助六』や『暫』を演じられなくなってしまったことが一番の問題だ

ちょっと古いが市川海老蔵の話をしてみたと思う。

あの日の真相はよくわからないが、結果として、六本木で男性グループとトラブルになり、殴られて左ほおを骨折する重傷を負ったのは事実である。



しかし、その際、暴力は振るっていないとか、土下座はしていないとか、そういうことはよく覚えているようだが、自宅へ帰ったのは無我夢中でよく覚えてないという。(ちなみに、帰りのタクシーでタクシー代を値切ったというのも覚えていないらしい)



この海老蔵という男、もともと酒癖が悪く、酔うと『俺は人間国宝だ』という自慢をしていたという話もある。もし、本当だとすれば世間的には最低な男である。

しかし、僕が一番気になったのは、今回の事件によって、彼が、ゆくゆくは市川団十郎の名跡を継ぎ、いわゆる歌舞伎十八番の『暫』や『助六』を演じる際に全く説得力がなくなってしまったということだ。

もともと、歌舞伎俳優というものはカブキ者、つまり不良なのだ。敢えて言えば河原乞食なのだ。通常の人ではない。逆に言えば、だからこそ、超人的な力(演技力)があり、さらにいえば、神に近い存在だと思われていたはずだ。

それが、今回の事件、そしてその後の記者会見で、海老蔵という男は喧嘩に弱い、そしてセコイ人間であることがバレしまった。

そんな人間がいくら舞台の上とはいえ、大勢の悪人の前へ一人で登場して「しばらく~」と言って、悪を蹴散らしたとして、一体、どんな説得力が出るというのだろうか。

逆に、特別演出として、舞台上でボコボコにやられた方がリアリティが出てしまうではないか。



結論を言ってしまえば、僕は今回の事件で、最も問題だったのは、海老蔵が喧嘩に負けたことだと思う。

それに比べれば、記者会見をキャンセルしたこと、そのくせ、一人で飲みにいったことなどは小さなことで、いうなればどうでもいいことだ。

だって、彼は、天に選ばれたカブキ者なのだから。



海老蔵が今すべきなのは、治療することでも、反省することではなくて、元暴走族に対して、堂々と果し状を出すことである。



まさむね

2010年9月13日 (月)

あべ静江と秋元順子の二人旅に見えた残酷な実力差

先週の土曜日は久しぶりに土曜スペシャル「この秋オススメ!2010年ニューオープンの宿」というダラダラとした旅番組を見た。



ちょっと前に、嵐の番組にゲストで出演したマツコ・デラックスが好きな番組として「いい旅・夢気分」を上げて、旅番組の醍醐味として、一緒に行くゲスト同士の「本当の」仲の悪さを深ヨミながら見る楽しみを語っていたが、僕もそういった邪推は大好きだ。

その意味で、先日の土曜スペシャルの中で邪推マニア垂涎の組み合わせがあべ静江と秋元順子の二人組みであった。

思えば、あべ静江は、1951年生まれの1973年デビュー、芸能人が一番輝いていた時代の大スターである。僕も子供の頃、彼女の「みずいろの手紙」を口づさんだものである。一方、秋元順子、生まれは1947年生まれとあべ静江よりも年配でありながら、芸能界デビューはつい最近である。

旬というには無理があるものの近年は明らかに、あべ静江をしのぐ露出である。芸能界のデビュー年度では圧倒的にあべに軍配が上がるが、実年齢、最近の活躍では秋元が勝っている。いわゆる「格」が明確ではないこの二人の各場面での立ち位置を見計らうというのが楽しみだ。

拙書「家紋主義宣言」でも書かせていただいたが、「格」がフィックスしていない二人の競演(=争い)は古くは平安時代の「源氏物語」の六条御息所と葵上の車争い以来の邪推マニアの興味の的(まと)なのである。



さて、記憶に沿って展開を追っていこう。二人は箱根の強羅温泉へ向かう。箱根という場所が微妙にセコく、テレビ東京らしくていい。まずは二人はケーブルカーに乗ろうとするが、出発まで10分間ある。ここでまず先輩風を吹かせたのがあべだ。本心、その場で待っていたかった(「時間がない」と何度も小声で口ずさむ)秋元を先導して、みやげ物屋へ。ソフトクリームをほお張る。しかたなく付き合う秋元。しかし、街場慣れしている秋元もここでただあべに従うわけにも行かず、Tシャツの購入を提案。結局、あべは白、秋元は黒の同柄のTシャツを購入し、そのまま流れ込むようにケーブルカーへ。

カメラはホームに置き去りと言うわざとらしい演出を残して...



さて、二人は旅館へ、そしてゲストルームへと足を進める。どちらかと言えば、傍若無人な秋元が徐々に主導権を握るように見えたのは気のせいだろうか。そして二人は旅館内のカラオケルームへ。あべがドアを開け、秋元が入るという構図はここで明らかに秋元があべを制した瞬間。そして、まずマイクを握るのが秋元だ。さすがに上手だ。

さぁ、追い込まれたあべがどんな歌を披露するのだろうか。視聴者の悪意ある視線があべにそそがれる。



そして、マイクを手にしたあべは北島三郎を選曲、しかしこれがなかなか上手い...ように聴こえたが、この曲の感想を言う段になって秋元は絶句、思わず、笑い出してしまったのである。

つまりここで現場でしか分らなかった二人の暗黙の実力差を、秋元の絶句が物語っていた...と僕は感じた。



最近、テレビを見なくなったという御仁も多いが、こうしてみるとテレビも捨てたものではない見世物である。



まさむね

2010年1月31日 (日)

EXILEのATSUSHIの顔は琵琶法師に似ているという話

ちょっと前の話になるが、EXILEが天皇陛下ご在位20周年記念の式典で歌を披露した。

僕は「御前歌披露したEXILEも正しい日本文化の継承者だ」というエントリーで、EXILEこそ、皇室の美意識の源泉である平安文学の「雅」を現代に伝えるボーカルグループだと勝手に評価していた。



先日、ある仕事の打ち合わせの時に、EXILEの話題になった。EXILEは今度、どこまで進化、あるいは成長するんでしょうねというような「業界」っぽい話題だ。

その時に、この天皇陛下ご在位20周年記念の式典の話題になったのだ。



「あのときのATSUSHIはどうみても琵琶法師みたいでしたよね。」と一言つぶやいた。



僕はベタにそう思っていたのだ。別にウケを狙ったわけでもなく。だって、あの時、ATSUSHIは、ピアスはもちろん、トレードマークのサングラスを外し、頭部のそり込みも消した姿で、陛下の前で熱唱したでしょ。その姿は、中世の日本で、安徳天皇の壇ノ浦での入水をはかなむ謡曲を歌って回った盲目の琵琶法師たちの容貌と僕の中で自然に一致したのであった。

でも、その時の周りにいた方々のウケがよかった。

さらに、家に帰って、妻にもその容貌的類似を指摘したら、またまたウケた。



自分では、普通の話だと思っていたものが、意外にウケるというのは気持ちいいものだ。

で、ここで一応、その類似を指摘しておきたい。



今日の話はそれだけのことでした。



まさむね

2010年1月20日 (水)

おそらく歌舞伎における伝統とは生きた遺伝子が泳ぐ海なのだろう

ご存知のとおり、歌舞伎座がこの4月で閉館し建て替えに入る。完成は2013年。4月まで「さよなら公演」と銘打って興行が行われているが、今年も初春歌舞伎を観た。

夜の部に行ったので、演目は以下の4つ。

「春の寿」

「菅原伝授手習鑑―車引」

「京鹿子娘道成寺」

「与話情浮名横櫛」

「春の寿」と「京鹿子娘道成寺」は踊りもの。なかでも道成寺は今をときめく勘三郎と団十郎の組み合わせ。玉三郎が時代を超えた天才だとすれば(その踊りのやわらかさ!)、勘三郎はいま中堅世代ではもっとも脂が乗っている。とにかく相変わらず生きのいい踊りを観る楽しさがあった。

 「車引」は布陣が豪華。芝翫、吉右衛門、幸四郎、富十郎、等々。初春公演ならではというところか。特に一堂が会したお仕舞い(エンディング)はなんと豪華な見世物だったことか。「与話情浮名横櫛」は染五郎と福助の人情話。これもそれなりに楽しめる機微のある人情ものだった。  

こうしてみると、歌あり踊りあり人情ものありで、やはりなかなかのエンターテインメントではあった。今、歌舞伎がその充実さからある種のブーム(戦後何番目かの?)になっているというのも分からないではない気がする。長老、中堅、若手と陣容も粒が揃っているし。若手の今後ということではやはりポテンシャルとしては海老蔵であり、女形の期待値では七之助かな。



 ぼくは歌舞伎の専門家ではまったくないが、当時の江戸の人たちは、ぼくらが今3Dで「アバター」を観たり、スターウォーズを観るような感じで歌舞伎を観ていたのではないか、つまりそこにその時代の先端や先行きを感じたり未来を予感したりして、いわば宇宙ものを見るように歌舞伎の舞台を観ていたのではないかと勝手に思っている。歌舞伎役者は今でいえばマイケル・ジャクソンであり、マドンナのようなものであり、おそらく芸能を通じて先端世界と交信してくれるような役割を担っていたのかもしれないな。

「我国の舞踊はつまり遠来のまれびとが大きな家を訪れて、その庭で祝福の歌を謡ひ、舞を舞って行くことに始まったことは、先に申し述べた通りです」(日本藝能史六講、折口信夫)。歌舞伎役者はまれびととして舞台に出て、みんなを代表して、その時代の世相を先んじて生きてくれる(舞い、踊り、歌う)存在だったのかもしれない。



 そもそも歌舞伎には翌年にどんなテーマに基づいた演目を取り上げるかを決める「世界定め」があり、その定めに基づいて顔見世が行われる慣わしだったと言われる。これは今風にいえば婚活がブームだから、来年は婚活をテーマにした作品をもっと上演していこうというようなものだろう。ぼくらはある程度普遍的になった話や舞台を観ているわけだが、江戸時代の人たちには歌舞伎はもっと当時のなまなましい世情と表裏一体のものだったろう。



 そして今歌舞伎を観ていてぼくがあらためて羨ましいと感じるのは、伝統という生きた無形に支えられている歌舞伎役者たちの立ち振る舞いのことだ。特に勘三郎や団十郎の踊りや舞いを観ていると、彼らが歌舞伎の伝統を信じて疑わず、いわば悠々とその海のなかを泳いでいこうとしているように思える。もちろんそこには多大の苦労があることは言うまでもないが。

ただしそこでの伝統とは、なにも形骸化した、決まりごとのようなものではなく、生きたフォルムとして、たえず当事者によって更新されていくフォルム(遺伝子)のようなものだ。型であって型ではなく、デザインとは異なるようで、まさにデザインそのものであるようなもの、肉体という物理が実現するもの。とても柔軟性があり、けれどその背景として連綿とした歴史によって支えられてきたもの、等々。歌舞伎役者たちは多かれ少なかれその生きた遺伝子を受け継ぎ、伝統を信じ、伝統と対話し、その「伝統という同じように刻々と生きている海」のなかを泳ごうとしているように見える。



 これはぼくらのビジネス社会とは対照的だと思う。曲がり角に来つつあるとはいえ、未だぼくらの現代社会ではいかに他者に先んじるか、同じことをしないか、差異をすばやく生き抜くか、伝統や習慣のような形式化したものからジャンプできるか、「かつて」と切れているか、そうしたことがより問われ、そうしたことがビジネスチャンスと捉えられがちな社会だからだ。弱肉強食。だからなるべく振り返ったりしているわけには行かないし、たえず前方の新しいものばかりを見ようとするわけだ。蓄積にならない社会、フローの社会。

そんなこんなに追われているなかで、ほんとうは違う可能性もあるのかもしれないと、そんなことをふと思いながら、ぼくは取り壊される日が近い歌舞伎座を後にしたのだった。



よしむね

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