ももクロとプロレスをネタに日本的芸能の伝統を考えてみた
じつにさんより「ももいろクローバーZの使命」というエントリーを頂いて以来、自分は、ずっと、ももクロとプロレスのどこが似ているのかをずっと考えてきた。
じつにさんからも紹介があったが、確かに昨年の10月の全日本プロレス両国大会で、ももクロが特別"参戦"するなどして、その関係性が密なることは誰の目にも明らかだし、「「ももクロとプロレス」――“あの熱”よ、もう一度」や「アイドルが「冬の時代」を吹き飛ばす!?格闘文化の最新型“ももクロ”の魅力」といった記事により、再三、ももクロとプロレスとの類似性が指摘されもされてきており、「今更、考えることなどあるまい」なぞと、自棄になったりもしたのだが、それでも、「力いっぱいでウソの無いパフォーマンス」とか、「プロレスに相通ずる"熱"」、あるいは「ステージコスチュームのセンス」はたまた「運営方針そのものが“闘い”」といった先人が指摘された類似性以上のなんらかの共通性があるに違いない!というドタ勘が心の中で疼き、僕は僕なりに考えざるを得ないのであった。
そして、こうして考えている間も、僕はYOUTUBEでそのPVを何度も目にするわけで、その度に、この泥臭いアイドルグループに惹かれる自分がを隠すことが出来なくなっているのだ。
一般的な流れで言うならば、90年代のSPEEDが、沖縄という異界からやってきた特権的なアーティスト・アイドルだとすれば、ゼロ年代初頭のモーニング娘。は、つんく♂という試練を乗り越えた面接試験型・アイドル、そして近年大ブレイクのAKB48は、総選挙という民意によって選ばれた民主主義的アイドルということである。つまり、アイドル史は、彼女達とファンとの関係性が、どんどん、斜め上から水平へと移動してくる歴史であった。
そして、そんな歴史上の究極形として、ファンが逆にアイドルを引き上げるというか、泥の中からアイドルが這い出てくるのを応援するというか、そういったスタイルとして存在するのがももクロだということが言えるのではないだろうか。つまり、彼女達のスタートが道端だったという"神話"はまさに、彼女達を、アイドルというよりもよりプロレスラー、あるいは、遊芸人に近い何者かたらしめるのに大きな要素だったというのは明らかである。
さすれば、今日のエントリーは、そのあたりから書き始めてみたいと思う。
というのも、日本の芸能の起源である散楽というものが、寺社の境内のみならず、村々の辻や無縁の道端で行われた雑多な芸能であったからである。その泥臭いパフォーマンスには軽業、曲芸、相撲や物真似などが含まれていたというが、網野善彦氏などの説によれば、それらは単なる見世物という以上に呪術的な要素が含まれていたらしい。つまり、エンターテイメントである以上に、宗教的な儀式であったということである。例えば、現代、興隆を極めているMANZAIにしても、その起源は、萬歳という、太夫(ツッコミ役)が、歳神を身に依らせた才蔵(ボケ役)をして、あの世とこの世の間を行き来させることによって成り立つ芸能だったのである。
おそらく、そこで、大事なのは、芸能者の異形のエネルギーが観客に対して持つ説得力であったに違いない。そして、そのエネルギーは、観客の目を楽しませることだけを目的にするのではなく、観客に対して、この世が改変されたことを示すために必要だったのである。
例えば、能楽の多くは、シテ役の怨霊が、ワキ役の僧侶に、その苦難な過去を語り、浄化してもらうことによって、この世に潜在的に及ぼしていた様々な災いを退散させるという構造を持っている。能舞台が、およそ、一期一会という一回性を重視するのはそれが単なる芸能ではないからである。
ちなみに、かつての能楽には、そうした呪力を持つ芸能と、呪力を感じる観客との間に、幸福な関係があったに違いない。しかし、残酷なことにどんなジャンルにも栄枯盛衰がある。それは一人一人の演者の力ではどうしようもない時代の運というようなものである。
さて、僕は以前、「申し合わせはしても合わせ稽古をしない」という能とプロレスの類似性について考えたことがあったが、この二つのジャンルの類似性は、同時に、その絶頂期においては、「世界を改変させる機能を持つ」というところに及んでいるのではないかという仮説を、今、持つようになっている。
それは、僕らは、多くのプロレスの試合においては、その決着の前後で、他のスポーツではありえないような世界の改変がなされているのに気がつく奇跡にしばしば出会うことがあったからである。多少大げさに言うならば、僕は、勝負の前後でそのプロレス会場が全く別の空間となっている瞬間に立ち会い、そしてその瞬間こそ、プロレスおたくだった自分の中の何かをも改変させられている瞬間を何度も体験しているのである。
もっとも、敢えて付け加えるならば、その空間には、レスラー達のボロボロの肉体と、その献身の精神に対する圧倒的感謝の念も残るのだが。
しかし、そんな体験も絶えて久しい僕ではあるが、もし、ももクロが、かつてのプロレスを、そして日本の芸能の本来の伝統を継承する力を持っているとしたら、彼女達は、以下の四つを感じさせるほどの"力"を持っているに違いないと僕は思う。
①計算外のエネルギー(世界が改変できると信じるに足るパワーと献身)
②あの世とこの世とをつなぐ恍惚感(どこが演技で、どこから現実かが曖昧な演出)
③幾多の困難を乗り越えた目覚しい成長(見るたびに世界が改変されていく運動体としてのももクロ)
④そんな演者と観客との幸福な関係(時代の運と信頼感)
それを確かめるべく、今年の楽しみがまた一つ増えた。
まさむね
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